夜に溶けるクラゲ

別槻やよい

夜に溶けるクラゲ


 住んでいるマンションの隣室が、空き部屋になった。

 前に住んでいたのは売れてるのか微妙なホスト。大家さんの話では、出勤先の店で刺されたらしい。

 ――そんなドラマみたいなことあんのかよ?という感想が思わず転がり出そうになって、俺は言葉の出口を片手で塞いだ。


 クラゲみたいにふわふわして、掴みどころのない男。

 いつもへらへらと笑っていて、何も考えてなさそうな軽い声。


 隣人は俺が家に帰る時間に家を出るから、平日はいつも顔を合わせていた。



「おかえりなさ~い。」


「いってらっしゃい。」



 ただ、なんとなく言い始めた挨拶だった。

 相手がおかえりなさいと言ってくるから、返事をしないと失礼かな、なんて。

 

 ちょっとくたびれたサラリーマンと、どことなく安っぽいホストがかわす一瞬の会話が夜を揺蕩たゆたう。

 それは近くを通った車の音にかき消されたこともあったし、上の階に住む夫婦の口論に押し負けたこともあった。

 言葉が音の波にさらわれてしまったときは、二人ともほんのちょっとだけくすりと笑い、何も言わずにすれ違う。


 ただそれだけの、それ以上でもそれ以下でもない関係。

 ……だったけれど。


 仕事の帰りに、その姿を見なくなった。

 悩みごとのなさそうな、のんびりした明るい声が聞こえなくなった。

 

 日常の一部が失われた寂しさがささくれのように引っかかり、俺はため息と共に頭をかいた。


 ――そう言えば、クラゲは死ぬと水に溶けて消えるらしい。

 よく似ていると常々思ってはいたが、まさか本当に消えるとは思っていなかった。



「馬鹿だなぁ。」



 相手が出勤前だからと遠慮して、続く言葉を飲み込み続けた結果がこれだ。

 こんな気持ちになるのなら、さっさと友達になってしまえばよかった。


 そんな後悔を抱えながら、俺は隣人が溶けているかもしれない夜を歩いた。

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夜に溶けるクラゲ 別槻やよい @Yayoi_Wakatuki

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