えあ

Zamta_Dall_yegna

えあ

 ある場所に、明け方になると海と空が逆転する場所がある。『水天逆転の地』と呼ばれた。ウユニ塩湖のように一体化して見える比喩などではなく、本当に逆転しているのだ。時間になれば、空に魚が泳ぎ、本来は海底のところが空気で満たされる。


 そこは病気療養のために訪れる人が多く、有名な場所であった。なんでも、見れば心が安らぎ、病がたちどころに治るというのだ。


 ワタルは車椅子の取っ手を掴んで、そのことを思い出していた。彼は、結核にかかった父親の望みでこの場所に来ていた。


 ことの始まりは、航の質問から始まった。

 「親父、なにかしたいことはあるのか。」

 彼の父親は、鍛え上げられた筋肉が目立つ大きな体をしていたが、今では見る影もない。航はその姿を見て、何かをしてやりたいと思っていた。そんな彼の思いなど知らないと言わんばかりに、彼の父親は変なものを見るような目で彼を見つめた。

 「なんだいきなり」

 「前まで、いろいろやりたいことがあるっていってたろ。俺、手伝おうかと思ってさ」

 「フン、俺の先が長いから憐れんだのか?まあいい。そうだな、行きたいところならあるぞ」

 航は、父親が呆れたような顔をしたのを見て、言い出したことを後悔し始めていた。

 「そうしかめっ面をするな。自分から言い出したことだろう」

 「で、どこなんだ。行きたいところってのは」

 「『水天逆転の地』だ」

 航は身を固めた。父親が神頼みをするような男でも、なにかに恐れをなすような男でもないことを知っていたからだ。一方で、彼の父親は「連れて行ってくれんのか?」と言って笑った。

 「分かった。車を出すから準備をしてなよ」

 航は溜息をついて、車の鍵を取りに向かった。


 実家のある横浜から車で数時間かけて南西に向かって走り続けた。『水天逆転の地』の近くにある宿は、時期が悪いということもあってか、空きが多かった。宿に着く頃には夕方になっていたので、部屋に入って早々夕食を取ることになった。


 航の父親は夕食を終えるなり、茶を入れて本を読みだした。航はその姿を横目で見て、さっさと風呂へ入って眠りについた。夜まで車を運転して疲れ切っていたのだ。


 深夜にアラームの音が響く。航たちは目を覚ました。外には誰もおらず、虫のさざめきと父親の咳しか聞こえない。航は車椅子を押してゆっくりと歩いた。

 「涼しいな、ここは」

 航の父親が呟いた。航は目だけを動かして返事をした。

 「夜だからな」


 場所に着くと、テントがいくつかあるのが見える。宿から来るのが面倒で、最初からここで休んでいた観光客たちだろう。様々な模様のテントの反対側で、水平線に光がちらついていた。そろそろ夜が明ける。


 「お前は、水天逆転の現象を見たことはあるか?」

 「画像で見たことある。本物は初めてだ」

 「そうか。…何が起きても、悲しむ必要はない。責める必要もない」

 航の父親は、慈しむような声でそう言った。

 「え、何の話だ?」

 航は詳しく聞こうとしたが、地響きが聞こえてきてそれどころではなくなった。地面が揺れて、周囲の人々が騒めいた。海水は勢いよく噴き出し、航の視界を真っ青に染めた。


 そこには、海があった。魚は泳ぎ、蟹やタコは宙に舞っていた。海が球体のように浮いているのではなく、海がひっくり返ったような見た目だ。上方に深海魚が泳ぎ、下方にトビウオなどが泳いでいた。


 「なんか思った以上に、綺麗じゃないな」

 「…」

 「なんでこんなところに来ようと思ったんだ?ロマンか?」

 「会いたい人がいたんだ」

 航は周囲を見回した後、父親の顔を見たが、彼は前しか見ていなかった。

 ―カッコつけか?分かんないもんだな―

 航は呆れ顔でその様子を見ていた。


 しばらくして、航は一つくしゃみをした。見れば、航のいる崖一帯は水浸しだ。周りには、タオルで体を拭いている人もいる。航も背負っていたリュックからタオルを取り出し、体を拭いた。彼は父親にも渡したが、反応がない。

 「親父、聞いてるのか?体拭けよ」

 いくら話しかけても父親は俯いたままだ。試しに体を触ると、風邪をひいたのかというくらい熱い。航は背筋がゾッとするような感覚に襲われた。彼は急いで宿へ向かった。


 車椅子の音が航の心臓の鼓動と重なる。汗が次から次へと流れて、彼の顔を濡らしていた。

 ―海水を被ったからか?あんとき呑気に話してないで、タオルを渡しておくんだった。くそっ、これからどうすればいいんだ―

 部屋へ戻るなり、彼は父親をベッドに横たわらせた。父親の顔は、赤くなっていて、固く目を閉じていた。航は、冷蔵庫から飲み物を取り出して、父親の額に当てる。すぐにぬるくなったそれに、彼は焦りを覚えた。


 彼は宿の受付に来ていた。呼吸の荒さなど気にもせず、彼は助けを求めた。

 「あの、救急車を読んで下さい。父の、父が、意識がないんです!」

 受付員は目を丸くして彼の方を見た。

 「分かりました。すぐに連絡します」

 航は力なく、近くの椅子に腰かけた。手は震え、顔は眉間に皺が寄っていた。そんな彼に、スタッフの一人が水を渡した。彼はそれを一口飲んで、項垂れた。

 ―何が起きても、悲しむ必要はない。責める必要もない―

 あの時の父親の話を思い出すと、航はもう一口水を飲んだ。

 ―俺に何を求めてんだよ、無理に決まってんだろ―

 彼はそれから、目を閉じて救急車の到着を待った。


 白いカーテンに、白いベッド。横たわる父親の顔を覆う、白い布。机の上には、一輪の花が飾られている。薄紫色の花だ。母親が飾ったものらしい。花瓶の下にメッセージカードが敷かれているのが見える。航はそれをぼんやりと眺めていた。


 物言わぬ父親を、パイプ椅子に腰けて見つめる。

 「あんたはあそこで誰にあったんだ。まったく、いい迷惑だよ」

 航はそう吐き捨てると、病室を去った。


****


 あれから数年経って、航は成人になった息子と旅行に来ていた。場所はあの日と同じ、『水天逆転の地』だ。宿に行く道中、車の中で彼の息子は観光雑誌を見ていた。

 「爺さんも昔、ここに来ていたんだよね。それ程綺麗な場所なんだろうな」

 「いいや、海をひっくり返したみたいな感じで、綺麗って感じはしない。濁ってるし、ぐちゃぐちゃになってて『本当に海か?』ってなるぞ」

 「なんでそんなところに連れてったの?」

 「俺が好きで連れてったわけじゃない。頼まれたんだ」

 「へー。父さんも優しい時代があったんだね」

 息子はそう言って、からかった。航は「ひでぇ奴だ」と言って、笑った。


 宿に着くと、彼の息子は茶を入れて雑誌を読み始めた。航の方は、ベランダに出て外を眺めて酒を飲んだ。

 「あの人は当時、年齢が行き過ぎていた。それに、今と違って、物資や人手不足で手術が困難だった。親父が助かる方法は無かった…酷い時代だった」

 「それで、ここまで連れてって言われて、連れて行ったんだ?」

 「ああ」

 航はそう言うと、夜に向けて支度をした。


 深夜の森に二人分の足音が響く。彼らが草を踏み分け崖へ向かうと、観光客が沢山いた。

 「花火大会の場所取りみたいだね」

 「違いない」

 二人して笑うと、歩みを進めて海の見える所に来た。


 夜が明けて、地鳴りがする。海水が噴き出し、人々の前に海が広がる。地面はやはり水浸しになり、人々は体を拭いていた。だが、航は取りつかれたように、海を見つめていた。正確には、海面に映った息子の姿を見つめていた。

 ―親父が見ていたのは、これだったのか―

 航は、揺らめく海水がその時ばかりは、大きな鏡台に見えていた。

 「父さん、体拭かないのか?」

 「あ、ああ」

 それから、二人は体を拭いてその場を去った。


 宿の部屋に戻ると、二人は早速朝食をとった。

 「そういえば、なんで父さんはここに行きたいなんて思ったの?」

 航は一瞬、目を見開いてからニヤリと笑った。

 「会いたい人がいたからさ」

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