背中を、追いかける
@tom6tom
背中を、追いかける
背中が溶けそうだ。
18時をすぎた。待ち合わせは17:30だったが、リサから「残業で三十分ほど遅れる」と連絡があった。
大体いつも待つのは私だ。もう慣れっこで、むしろ“待つ側の余裕”すら感じている——そう思い込みたいだけかもしれない。とにかく暑い。
改札口は人であふれ、湿った熱気がまとわりつく。
汗と香水の匂い、紙袋がこすれる音、靴音のリズム。
頭上から降りてくるアナウンスはざわめきに溶け、文字盤の秒針だけがきっちりと時間を刻む。
すれ違う人の肩がかすめ、湿った布の感触が頬に残った。
鞄の持ち手を握る指先に汗が滲む。私は画面の光に避難するみたいに視線を落とした。
連絡すべきか、いやまだ早い。せっかちだと思われたくない。
“待てる人”でありたい。相手の都合をおもんぱかる大人の顔を、私は今日も引っ張り出している。
十分、十五分。ようやく人波の向こうでリサが手を振った。
髪は仕事帰りとは思えないほど整っていて、白いブラウスが涼しげに揺れている。
「おまたせカナ。待った?」
「大丸でデパコス見てたから全然。行こっか」
口から出たのは、いつもの嘘。言ったところで変わらないことは、もう学んだ。
「さすがカナ、暇そうでいいな〜」
冗談のつもりなのはわかる。けれどその一言には、“私なら待たせても平気”という薄い膜が張り付いているように感じる。
私が笑顔で返すあいだにも、リサの視線はスマホの画面に落ちていた。通知が鳴るたび、私の声は雑踏に混ざっていく。
私はまた、彼女の半歩後ろに立っていた。
________________________________________
駅前通りを歩く。
ビルのガラスにオレンジの空が縦に千切れて映り、信号の青が足元を滑る。
リサは歩幅が大きい。私は自然と早足になる。ついていく、という動作は、思っている以上に体力を使う。
店に入ると、照明は妙に暗く、木目のテーブルは少しべたついていた。
生を二つ頼む。グラスの外側を伝う水滴が、輪になって卓に広がっていく。
あ、今日も私はここに座ってしまっている——そんな感覚が、輪の広がりに合わせて胸の中に広がる。
「てか最近、仕事どう?」とリサ。
「楽しいよ。最近は飲みにも連れてってもらってる」
私はあっさり言ってから、ほんの少し間を置いた。
リサは元々、私と同じ会社にいた同期だ。今は転職して営業をしている。
私は経理。部署も仕事内容も違ったけれど、入社の春を一緒にくぐった。
その春のことを、時々思い出す。
昼休み、社員食堂の席を見つけられず立ち尽くしていた私に、リサが「こっちこっち」と手を振ってくれたこと。
初めて怒られた夜、会社の前のベンチでコンビニの缶チューハイを二人で飲んだこと。「まあ死なへんよ」と笑って、どうでもいい恋バナで私を笑わせたこと。会社に馴染めない私をいつも同期の輪に入れてくれること。
あの時のリサの横顔は、少しだけ眩しかった。
——だから、私は彼女を完全には嫌いになれない。
「えー!わたしもよく飲みに行ってた! 今度一緒に行こうよ!」
軽い共感の形を借りながら、言葉の芯は別の場所を指す。“私のほうが前から知ってる”。
案の定、彼女は続ける。
「あ、てか聞いてよ。この前そっちの会社の山田さんと飲みに行ったんだよね。あの人まだ元気そうでさ」
——まだ私はそっちの人たちと繋がってる。あなたよりもね。
笑顔の裏の音階を、私は聞き取ってしまう。
グラスを持ったまま、私は自分の手元を見る。
指の節の白さ、輪になった水滴、テーブルの細かい傷。
ここに座っている自分の姿が、少しだけ他人事に見える。
________________________________________
本当は、リサを誘いたいわけじゃない。
他にも友達はいる。学生時代から続く友人だっている。
彼女とは、かつては気楽に誘い合っていた。テストが終われば「マック寄ろ」、バイト終わりに「ちょっとだけ話そう」。
予定なんてろくに決めなくても、気が向けば会えた。
その自然さに、私は何度救われたかわからない。
けれど大人になり、互いに職場も違えば、生活のリズムも違う。
「社会人になったら忙しいかな」「誘って負担になったらどうしよう」——そう考えて、メッセージを打っては消すようになった。
断られるのが怖い。予定が合わないことすら、拒絶のように感じてしまう。
だからこそ、私はリサにばかり声をかける。彼女なら、だいたいすぐに返事をくれるから。
“ラクさ”にすがっているとわかっていても、私は手放せなかった。
でもリサは私のことを誘わない。
リサに情がないわけじゃない。
入社したての頃、彼女が隣にいてくれて助かった夜は確かにあった。
でもその情が、いまの私を縛っている。
“感謝”と“惰性”が絡まって、抜け出せない。
「総務ってさ、気楽でいいよね。営業は数字がさ〜」
リサは笑う。彼女の大変さは想像できる。だから、反射的に否定するかわりに笑ってしまう私がいる。
私の笑い声は、彼女の次の話題の踏み台になる。
上手に笑えることが取り柄だと、どこかで思っている。けれど、笑うたびに口角がきゅっと痛む。
________________________________________
店を出ると、夜は生ぬるかった。
湿ったアスファルトの匂い。遠くで踏切が二度鳴る。
駅へ向かう流れに身を置く。ネオンが水たまりに落ち、赤と緑が揺れる。
前を歩くリサの背中は、信号の色をあっさり切り替えながら進む。
スマホの光が横顔を白く照らし、彼女は振り返らない。
私はまた、追っている。いつも通りの位置関係。
この背中を、私はずっと追いたかったのだろうか。
いや、あの春の眩しさに、私は勝手に“追いたい背中”という名前をつけていたのかもしれない。
スマホが震いた。
画面には、学生時代の友達の名前。
「来週空いてる? 飲もうよ」
さらに一文が続いていた。
「社会人になって忙しいと思ってたけど、やっぱりまた会いたくなって」
その瞬間、雑踏の音がふっと遠のいた。
背中を追う足音も、信号の点滅も、止まったかのように感じられる。
画面の文字が、夜道のなかで小さな灯のように胸にともった。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
ああ、私だけじゃなかった。
彼女もまた、気を遣って誘えなかったのだ。
お互いに遠慮し合っていただけで、本当に大切なものは消えていなかった。
指が自然に動く。
『空いてる。私も会いたいって思ってた』
これまで何度も打っては消した言葉。
今度は消さない。送信ボタンを押す。
青い小さな楕円が弾んだ。
顔を上げる。
リサの背中が人混みに紛れて少し先を歩いていた。
ネオンが輪郭を薄く縁取り、まるで水面に映る影のように揺れている。
手を伸ばせば崩れてしまう幻のように、彼女の背中は夜に溶けていった。
「追わなくてもいい」
小さくつぶやく。言葉は自分の内側に吸い込まれ、ざらつきが静かに溶ける。
背中を追うためだけに整えてきた歩幅を、私のために調整し直す。
信号が青に変わる。
私は、前を向いた。
背中を、追いかける @tom6tom
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。背中を、追いかけるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます