第5話

 翌日。俺は改めて、件の山に登っていた。

 今度は準備に余念がない。友人の伝を辿って、この山に詳しいという老人――畠山翁(はたけやまおう)に会わせてもらい、詳細な案内マップを書いてもらってから向かう。

 本来の山道とそこから別れる獣道。畠山翁によればその中でも三ヶ所、山道と獣道の区別がつきにくい箇所があり、俺が前回引っ掛かったのはその中の最後の分かれ道だった。

 畠山翁の説明をしっかりと頭に叩き込むと、その場を辞する。畠山翁からは、「自分も同行しようか?」と提案されたが、丁重にお断りした。目的地でやろうとしていることは、あまり人に見られたく無かったし、何よりこれは、家族だけでやるべきことだった。

 だから俺は、一人で登る。

 天気は晴れ。幸い、今日は機嫌が良いらしい。結局目的地であるキャンプ場に着いても、上空に広がる青空が翳ることはなかった。


 破棄されたキャンプ場にある施設は、まだ多くはその原型を保っている。そのため、今回が初来訪であれば、それらの施設へと向かい、場合によってはコテージの中にでも入り込んで、暖炉か何かを探したかもしれない。けれどそれらには軽く一瞥を送るに止め、迷うことなく奥にある草原へと足を向けた。

恐らく、現役時代はレクリエーション用の空間だったのだろう。軽くサッカーくらいは出来そうなだだっ広い草原に、ただ一本の桜の木が植っている。

 ここは先日、東雲に助けられた場所だった。

 少しの間、その草原の端から端へと視線を行き来させた後、あくまで何となく、以前東雲が焚き火をしていた場所まで歩いて行く。

ここで今から、焚き火を組むのだ。と言っても、長時間使う訳ではない。ただちょっと物を燃やすだけだ。それほど大掛かりな焚き火は必要ない。

 十分ほどで焚き火が組み上がり、最後の締めはチャッカマン。お世辞にも〝勢いがある〟なんて言えない炎を灯しながら、それでも精一杯の虚勢を張って、小枝に果敢な戦いを挑む。

 数分後。最初の矮小さが嘘みたいな立派な炎が立ち上り、周囲の空間を赤々と染め上げたことを確認した俺は、リュックから二冊のスクラップノートと小瓶を取り出した。

「父さん……母さん……やっとここまで来れたよ」

 ノートを軽く手でなぞりながら、そんなことを呟いてみる。ドラマなんかであれば、ここで死んだ両親の声が聞こえてくるのかもしれないが……俺には、何も聞こえなかった。とはいえ、最初から期待していない。落胆したりもせず、片方のノートを焚き火の中に丁寧に置いた。

 バチッ!!

 炎が爆ぜて火花が散り、すぐにノートは炎に包まれる。だから、炎がノートすべて覆う前に、瓶の中身をその上に振り撒いた。燃えるノートの上に、骨粉が――両親の遺灰が舞い落ちる。

「見てるかな?」

 焚き火に向かって呟く。

「もし天国にいるなら、息子の門出を祝ってくれ。もし迷っているなら、これで諦めて成仏してくれ。俺は、俺の人生を生きるから」

 やはり答えは聞こえない。今度は、少しだけ寂しい。

霊感があれば、何か聞こえたりするのだろうか? そんなことを思いながらその場にどさっと座ると、手元に残ったノートを手に取り、ページを開いた。出てきたのはニュース記事。大手新聞のものからネットニュースのものまで。可能な限り集めた、事件の記事だ。

 一ページ目の記事に目を走らす。二〇一五年――俺が八歳だった頃の、全国紙の一面。

『閑静な住宅街に響き渡った悲鳴。民家にキャンピングカー突っ込み、死者四名、重軽傷者五名を超える大惨事に』

 ズキンと胸が痛む。だがそんなことに構わず、ページを捲り続ける。それが、俺に出来る唯一の追悼の方法だったから。

 それにしても、こんなにも被害者が増えたのは不運だったとしか言いようがない。俺たちが乗っていた車がキャンピングカーで、普通の車よりも頑丈だったのが一因。突っ込んだ家に塀などがなく、道にそのまま面していたというのも一因。そして面していた部屋が居間であり、巨大な窓が道路側に据え付けられていたのも一因。だが何よりも不運だったのは、その日がその家の一人娘の誕生日で、友人を呼んで盛大に誕生日会をやっていたことだった。

 事故原因はメンテナンス不足によるブレーキトラブルであり、父親が故意に起こした事故ではなかったが、亡くなった方や遺族にとってそんなことは関係ない。俺は改めて、心の底から彼らに詫びる。そして彼らの冥福を祈る。

 彼らの死を弔うために。そして他ならぬ自分自身が、今日を境に、明日に向けて歩いて行けるように。焚き火が燃え尽きるその瞬間まで、ひたすら手を合わせ続けた。



「じゃあ点呼を取ります! まず! りんりん!」

「……」

「りんりん!」

「……はい」

「次! 光琴君!」

「はい」

「じゃあ最後! 私! はい!」

 三人きりの点呼が終わり、ようやく屋上に静寂が訪れた。しかし、そう長くは続かない。

「いいんちょ。俺もう帰って良い?」

 先程の点呼で呼ばれなかった、この場にいる最後の一人が静寂を破る。

「駄目に決まってるでしょ。隼人、まだ何もしてないじゃん」

 一転して不機嫌そうな顔になった瀬川が、腕を組んで隼人の要求を却下する。隼人も、露骨に顔を顰めた。

「だからこそ、今のうちに帰りたいんだけど……そもそも、なんで俺なんだよ。『いいんちょの言うことなら絶対遵守』って男子、クラスに一杯いるだろ?」

「だって悪いじゃん。利用してるみたいで」

「俺は!?」

「隼人は良いの。幼馴染なんだから」

「……はぁ」

 哀れ。隼人は深々と溜息を吐く。二人が幼馴染とは初耳だったが、どうやら瀬川は隼人には気兼ねなく無理を言うらしい。

「ご愁傷様」

 半ば強制的に、助っ人として休日の学校に召喚された友人に、慰労の言葉を送る。実は今日、隼人が所属するバスケ部の練習試合があったようなのだが、それをドタキャンして今ここにいるのだ。俺くらい、その労を労ってもバチは当たらない。

「言葉はいらない。ただ東雲さんとおしゃべりさせてくれ」

 だが、そんなことを懇願してくる姿を見たら、殊勝な気持ちは綺麗さっぱり霧散した。

「黙って働け、馬車馬が」

「唐突に辛辣!?」

 隼人が目を剥いて仰反る。いちいちリアクションが大袈裟だ。少し揶揄いたくなってくる。

「それに東雲、さっきからずっと話してるぞ?」

「え!?」

 隼人が驚きの声を上げて、東雲を見る。対し、東雲はつまらなそうにこちらをチラリと見たものの、すぐに目を逸らしてしまった。

「いや……どう考えても……俺、今日東雲さんの声、めちゃくちゃ嫌そうな『……はい』しか聞いてないんだけど」

「それも仕方ないよ。東雲の声は馬鹿には聞こえないように出来てるから」

「裸の王様か何かですか!?」

「だから諦めろ。隼人が東雲と会話する日は一生訪れない」

「ぐっ……俺だってこの高校に入れたんだから、決して馬鹿って訳じゃ……」

「ちなみに、東雲の声が聞こえるのは全国模試十位以内ね」

「難易度高!? 東雲さんと話すのって、東大に入るより狭き門なの!?」

「てことで諦めろ。おまえにはまだ早い」

「ぐぬぬ……仕方ない。諦めるしかないか……」

 悔しそうな顔をしながら引いていく隼人。前から思ってはいたが、めっちゃノリが良い。

「さて、じゃあそろそろ、やること済ませちゃお。暗くなる前には終わらせたいんだから」

 瀬川がパンっと手を叩き、俺たちの雑談を中断させると、先に立って歩き出す。目的地は天文部の部室――という名の倉庫だ。今日の仕事は、そこからプラネタリウムの部品を運び出すことと、屋上にテントを設置すること。男手二人で、今日中になんとかやり切らねばならない。


「それにしても、本当に仲良くやってるんだな」

 テントの支柱を並べながら、唐突に隼人がそんなことを言ってきた。

「それは……東雲と? それとも瀬川と?」

「勿論、東雲さんだ。分かるだろ?」

 隼人が手を止めて、俺を見る。

「初めて東雲さんが光琴に挨拶した時、腰が抜けるほどビックリしたけど、それから足繁く東雲さんと屋上に通う光琴を見ていると、それがただの前兆だったことを痛感させられるよ」

「はぁ……お前はいつだって大袈裟だな」

 一応そう返事をするが、それが大袈裟ではないことを既に知っているから、自然と口調が弱くなる。そんな俺に、隼人は事もなげに言う。

「良識人の間だと、そういう認識だよ」

(良識人? 誰が?)

 ツッコミを入れそうになるが、続く隼人の口調が思いの外深刻で、俺は口を開けなかった。

「ただし、それとは違う認識も最近は出始めてる。それは『東雲さんは変わった』って意見だ。過去に男子を恐慌させた〝酷薄の破壊者〟は、いつの間にかいなくなっているって意見」

 それは……確かに俺も感じていた。俺が転入したての頃は、瀬川を除いて誰一人、東雲に話しかける人間はいなかった。しかし最近は、瀬川以外の女子が……中には男子すらも、東雲と話している場面を見ることがある。勿論、世間一般で言うところの友達同士の他愛もない会話ではなく、普通に事務的な会話に過ぎないのだが……それでもそれは、大きな変化だった。

明らかに、東雲と話をするハードルが、みんなの中で下がってきているのだ。そして、だからこそ理解する。隼人が、俺に何を言わんとしているのか。

「だからな。多分そのうち、〝酷薄の破壊者〟は既に消えたと誤解した馬鹿が、無邪気に飛び込んでくるぞ」

 やはり、思った通りの言葉。けれど隼人は、すぐに肩をすくめてみせた。

「と言っても、余計なお世話かもしれないけど。結局そんな馬鹿は、血祭りにあげられるのがオチだと思うしな。ただそれでも……ノイズには違いないだろ?」

 それを聞いて、俺も肩をすくめる。

「東雲とおしゃべりさせてくれとか言ってた奴が、良く言う」

「あれは冗談だろ?」

 隼人は戯けたような素振りでそう言うと、

「まぁ……あとはあれだな。今日のお前らは見ていたら、何だか言っておきたくなったんだ」

 俯き加減で付け加えた。

「今日の俺たち……隼人の前で、そんなに話したか?」

「話してないよ。俺には、東雲さんの声は聞こえないみたいだしな」

 再び顔を上げた隼人が、ジトリとした視線を向けてくる。でもすぐに、元のあっけらかんとした顔に戻った。

「だけど、空気感ってのはあるだろう? 何となく、おまえらを見てると心地良かったんだよな。だから、言っておきたくなった。と言っても、『東雲さんに近付くな』って忠告を、たったの一週間でぶち破ったお前だからな。やっぱり、要らぬお世話だろうが」

 そう自嘲げに笑った隼人は、もう話は終わりだと言わんばかりに、派手な音を鳴らしながら支柱を並べる作業を再開した。俺も、今の隼人の言葉に特段返す言葉はない。隼人から目を逸らして、手元の金属へと意識を戻した。


 夜七時。すっかり暗くなった頃にようやくテントの設置が完了し、隼人と共にげっそりして部室に戻る。ドアを開けると、そこには別世界が広がっていた。先程までは足の踏み場もないほど散らかっていた部室が、完全に部屋としての機能を取り戻していた。部屋の中央には大きな作業台が置かれ、ドリルやら板金ハサミやらが何種類も置かれている。更に、窓際には机が四つ。二つずつ向かい合うように配置され、そのうちの一つに東雲が座って読書をしていた。

 では瀬川は? というと、彼女は部室後方の台所みたいな空間で、ティーカップに紅茶を注いでいる最中だった。

「あ、二人ともお疲れ様」

 俺たちの帰還に気がついた瀬川が、にこやかな笑顔を向けてくる。

「丁度今、紅茶を淹れたところだったんだ。ちゃんと二人の分もあるから、隼人も帰る前に飲んでいきなよ」

 だが、隼人は首を振った。

「いや、俺はバスケ部に合流するよ。解散前に、顔くらいは出しておかないといけないから」

 瀬川の顔が、一瞬だけ残念そうに濁る。でも、すぐに元の笑顔に戻った。

「そう? 分かった。今日はありがとうね」

「これっきりにしてくれよ? 美雪の我儘に付き合わされるのは、もううんざりだからな」

「はいはい、悪かったよ。じゃあまた今度、宜しくね」

「宜しかない」

 そう言うと、隼人は俺の肩をバンっと一回叩き、ふらふらと部屋を出て行った。

「随分と仲が良いのね」

 隼人がいなくなり静かになった部屋に、唐突に東雲の声が響く。今日は特に口数が少なかったのだが、どうやら機嫌が悪かった訳ではなく、ただ隼人がいたからだったらしい。

「幼馴染だからね。家が隣同士で、幼稚園の頃からの付き合いなんだ」

 そして、これが瀬川の答え。東雲は首を傾げる。

「でも二人とも、教室ではそんなに仲良さそうじゃないけれど。日下君の瀬川さんに対する呼び方だって『委員長』でしょ? 今は美雪だったけれど」

「昔はそう呼んでたんだよ、隼人は私のこと」

 どこか寂しそうな様子で、瀬川が言う。

「でもいつからか、私に対して素気なく接するようになったんだよね。いつの間にか、呼び方も委員長になっちゃったし。こういうことでもない限り、今はあんまり話とかしないんだ」

 なにやら、色々と事情がありそうだった。正直、気にならないと言えば嘘だったが、あまり踏み込みすぎるのも気が引けたし、何より東雲が、もうそこで話を打ち切った。

「そう。まぁ何でも良いわ。それより、早く紅茶貰える?」

「あぁ、うん。今持ってくね」

 そう言って、三つのティーカップを乗せるべく、トレイを棚の中から取り出す。

 その様子を横目で眺めながら、俺も教室に入り、東雲の向かいの席に座った。その間に東雲は、自分の夕食の準備に取り掛かっている。机の上に、小さなお弁当箱を広げた。

「あれ? 今日はランチボックスじゃないんだ」

 東雲がそれ以外を食べるのを見るのは初めてで、思わず視線が吸い寄せられる。

「ランチボックスは昼食用だから。夜は結構自炊してるのよ、私」

 そんなことを言いながら、弁当の蓋を開ける。直後、ツンとした刺激臭が鼻腔を刺激した。

「……何これ?」

「若鶏の唐辛子煮よ」

 なるほど……この真っ赤な物体は鶏肉か。全面赤すぎて、肉かどうかも分からなかった。

「それで? 何で、若鶏に拷問を加えようと思ったの?」

「言っている意味が分からないわね」

 東雲はそう返しながら、箸を赤い物体に近づける。思わず、固唾を飲んでしまった。瀬川も、トレイをその手に持ったまま、視線を東雲の手元に落として固まっている。そして――

 東雲の箸が赤い物体を捕らえた。そのまま、赤い液体の中からそれを引き出し、赤い汁を垂らしながら持ち上げる。刺激臭が一段と強くなった。

「ゲホッ! ゲホッ!」

 その時、瀬川が盛大に咽せた。恐らく、刺激臭に喉をやられたのだろう。ティーカップを落としそうになって、慌てて自分の机にそれを置く。だが東雲はそんな瀬川には一瞥を向けるのみで構いもせず、赤い物体をそのまま口へと運んで行った。小さい口に赤い物体が消えていく。

「……大丈夫なのか?」

 恐る恐る尋ねる。だって、東雲の唇が毒々しいまでの真紅に染まっているのだ。見た目通りの状況なら、あれだけで激痛に苛まれてもおかしくない。

「何が? 普通に美味しいわよ。自分で言うのもなんだけど、私結構料理得意なんだから」

 しかし東雲は何食わぬ顔でそう言うと、今度は隣にある真っ赤な何かに箸を向けた。

「……それは?」

「じゃがいもの煮物よ」

「嘘つけ!!」

 思わず、大声で否定する。

「そんな真っ赤な日本料理があってたまるか!!」

「残念。これは韓国料理だから。韓国語でカムジャジョリムって言う料理よ。和訳すると、じゃがいもの煮物ね」

 そしてまた、口に運ぶ。その表情は、辛さを堪えているようには見えない。すまし切った表情で、汗の一つもかかず、それらを口に運び続ける。

 その姿を見ていると、唐突に一つの〝邪念〟が、胸中を過ぎった。

(もしかすると……実は見た目だけで、そんなに辛くないんじゃないか?)

 いやいやいや!

 血迷ったことを考えかけて、慌てて否定する。あんなに赤く、こんなにも刺激臭を放つ物体が、辛くない訳がない。下手な好奇心を働かせて、自らを死地に追い込むべきじゃない。

(でも……)

 何かが、耳元で囁く。

(女の子の手料理だぞ?)

 だから何だ?

 激しく首を振る。女の子の手料理というオプションに、あの真紅の悪魔に対抗出来るだけの力があるとでも言うのか? いや……そんな馬鹿なことある筈が……

「何よ。さっきからジロジロ見て。もしかして、食べたいの?」

 その時だ。誘惑に抵抗していた俺の耳に、最後の一押しが聞こえてしまった。

「もし食べたいなら、分けてあげても良いわよ? こんなに美味しそうなご飯が目の前にあったら食べたくなる。そんなあなたの気持ちも分かるもの。ご馳走を一人で独占しようなんていう、狭量な心の持ち主ではないのよ? 私は」

 そう言って、若鶏の唐辛子煮を箸で掴み、俺の口元へと持ってくる。

「!? それはいくらなんでも……間接キスになるだろ?」

 この瞬間、残っていた僅かな理性を総動員して踏み留まった自分に、拍手を送りたい。

「大丈夫よ。唐辛子には抗菌作用もあるのだから」

 だが、そんなものは東雲の前では無力だった。今言われたことについて深く思考する間もなく、若鶏が唇に届けられる。だから俺は……口を開けてしまった。

「……ッ!?!?」

 粘膜に触れた瞬間、ヤバいと分かった。ほんの一秒、恐らくトマトと思われる風味が口内を満たしたが、その段階で既に、その後に齎されるだろう衝撃の予想がつく。そんな邂逅だった。

 そして一秒後、その予想は完全に裏切られた。当然だ。予想とは、過去の延長線の上に成されるもの。未知なるものを、そもそも予想することなど不可能なのだ。故に、この後俺を襲った事象を表現することは大変難しい。それでも、この物体を口に入れたことの無い人のために、無理を押してそれを説明しようとするのなら、やはりこの表現が、一番的を射ているだろう。

 口内で……〝爆竹が爆ぜた〟

「……ウッ!!」

 光が弾け、星が瞬く。想定していない部位への埒外の刺激に、意識は一瞬宙を漂う。だが、追い討ちをかけるように襲ってくる断続的な爆発が、俺にその世界に留まることを許さない。繰り返し現世に強制送還された俺は、その激痛に真正面から向き合わされる。

「ギ……ギギッ……」

 だが俺にもプライドがある。ここで刺激に負けて口を開ければ、絶対に再度口を閉じることは出来なくなるだろうし、場合によってはそのまま内容物を噴き出すことも、十分考えられる。そうなれば、その〝赤き流星群〟の被害に遭うのは、今も尚目の前で箸を掲げている東雲だ。そのような事態は断固として阻止しなければならない。だから俺は必死で唇を引き結び、荒ぶる衝動を抑え続ける。変化が起こったのは、それから五秒ほど経ってからだった。

(……あれ?)

 どうもおかしい。さっきまであんなにも激しい痛みに襲われていたのに、それが不思議と弱くなっている。そして――

「甘い!?」

 トマトが甘い。若鶏を口に入れた瞬間に感じたトマトの風味。それが今度は、圧倒的な甘味を伴って味蕾を刺激する。更には――

「旨い!?」

 鶏肉から出た肉汁が、とんでもなく濃厚な旨味となって、口内を満たしていることに気がついた。まさか……こんなことが……

「どう? 美味しいでしょ?」

 そんなリアクションを見た東雲が、我が意を得たりとばかりに俺を見る。

「……光琴君。正気?」

 対し瀬川は、幽霊を目の当たりにしたかのような顔をして、俺と赤い弁当の間で視線を行ったり来たりさせている。

「あぁ……自分でも驚いている」

 東雲の言葉に嘘はなかった。人生で経験することがまずないであろう痛みと、まるで麻痺したかのような口の痺れにさえ目を瞑れば、間違いなくこの料理は一級品だろう。

「瀬川も食べてみるか?」

 死地を乗り越えた高揚感と、類い稀な奇跡を目の当たりにした感動は、俺の心を酷く大らかにしていた。瀬川にも、是非この感覚を味わって欲しい。

目の前では東雲も深く頷き、再度自分の弁当箱に箸を伸ばそうとしている。今、俺と東雲は初めて、同じ地平に立っていた。

「……わ、私……」

 そんな俺たちを見た瀬川は顔を引き攣らせて一歩後ずさり……直後、クルリと背を向けた。

「お手洗いに行ってきます!」

 脱兎の如く、部室から飛び出して行く瀬川。

 そんな必死な姿を見せられてしまうと、思わずこんな言葉が口から飛び出してしまう。

「「美味しいのに……」」

 東雲とピタリとハモったその言葉は、夜の校舎の静寂の中で、一際虚しく消えていった。


「予定より少し遅れたけど、眠くならないうちに始めちゃおうか」

 約三十分後。部室に帰ってきた瀬川を迎えて、俺たちはようやく今日の本題に入る。それは先日屋上で話した通り。文化祭までに、如何にしてプラネタリウムを完成させるかについてだ。

「あれからちゃんと計算してみたんだけど、大体一つの穴を開けるのに、一分くらいあれば足りそうなんだよね」

「あ、そんなんで良いんだ」

 意外に掛からない。その程度なら、たとえ六千個開けるにしても……

「百時間……三人で分担すれば、三十三時間ちょっとで終わるか……」

 短くはないが、不可能でもない。一日二時間作業すれば、十五日ちょっとで終わる計算だ。

「ね? プラネタリウムの組み立ての時間を考慮しても、全然余裕があるよ。だから――」

「ちょっと待って」

 意気揚々と話す瀬川を、東雲が止める。

「何故、しれっと私が戦力として加算されているの? 私、星座早見盤を作ることには同意したけれど、そちらの手伝いについては了承したつもりはないわよ」

 確かに、言われてみればその通りだった。そして、普通の人間であれば、この空気に負けて妥協してくれたりもするだろうが、東雲には、その辺の融通は一切期待できない。

「そんな……どうせなら一緒にやろうよ。星座早見盤作ってからで良いからさ」

「じゃあ結局手伝えないわね。私、GW中の制作を予定していたから」

「直前過ぎるよ!? 夏休みの宿題じゃないんだから……」

「あら、失礼ね。私、夏休みの宿題は最初の一週間で終わらせるわ」

「じゃあ今回もそうしよ!?」

「だって、気が乗らないもの。その労働には、どんな対価が与えられるの?」

「え? ……ここの屋上の使用権……とか?」

「それは、この部活に入る見返りとして既に与えられているわ。文化祭の手伝いは、その範疇には入っていない。もし私を動かしたかったのなら、最初の条件を〝部活に入る〟ではなく、〝部活で活動する〟にするべきだったわね」

 いとも容易く瀬川を論破する。やはり、ああ言えばこう言うの世界では、東雲には敵わない。

(はぁ……仕方ない)

「東雲、楽しんだら負けっていう俺との勝負。期限とかって決めてなかったよな」

 いきなりの俺の言葉に、東雲がきょとんとした顔をする。

「? またいきなりね。でも確かに、そこまで細かくは決めてなかったわ。私が勝った時は、あなたが私の奴隷になることくらいしか」

 ……奴隷? なんか、若干変わってる気がするけど……まぁ、いいか。

「だろ? だからもう少し明確に。具体的には東雲の勝利条件と期限を決めておこうと思って」

 黙ったまま、東雲が先を促す。

「まず勝利条件だけど、〝楽しんだら〟だと客観的に判断しようがないから、その基準を〝笑顔〟にしよう」

 東雲と出会って以来、俺は一度もちゃんとした笑顔を見ていない。だから彼女が笑えば、それは十分楽しんだ証拠になるだろう。東雲も異論は無いようで、特に何の抵抗もなく頷く。

「えぇ。それで構わないわ」

「よし。じゃああとは期限だけど……文化祭が終わるまでにしよう」

 その言葉を聞いて、東雲の目がスーッと細くなった。

「なるほど。文化祭の準備やら当日のお祭り騒ぎに天文部員として参加して、その上で笑わなかったら私の勝ち――そういうことね」

「そういうこと。てことで、今回はちゃんと天文部の一員として最後まで参加して貰うよ。そうしないと、勝負にならないから」

「へぇ……考えたわね」

 東雲が面白そうに俺を見る。

「それでも私が拒否したら、『文化祭というイベントを前にしてビビったのか?』とか言って、私をまた挑発する気なのでしょう? あなたって、結構底意地が悪いわよね」

「類が友を呼んだのかな?」

 東雲は鼻を鳴らす。

「ふん、言ってなさい」

 そして、不敵な表情を浮かべて、こう宣言した。

「その勝負、受けたわ」

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