第15話 ククリナイフ
彼は今日も、ベルトコンベアの前で立ち尽くしていた。流れてくるのは、いつもと変わらない食品のパッケージ。しかし、彼の心はもう、この単調な作業にはなかった。数日前、些細なミスで上司に蹴り倒された屈辱が、彼の脳裏から離れない。その時の痛みよりも、心の奥底に刻まれたのは、人間としての尊厳を踏みにじられた怒りだった。
夜勤が終わり、冷え込んだ更衣室で、彼は私物のバッグに手を伸ばした。その中には、ひっそりと隠されたククリナイフがあった。ネパール製のそれは、刃渡りが長く、緩やかに湾曲している。数年前に旅行土産として買ったものだが、まさかこんな形で再び手にすることになろうとは。彼はナイフの冷たい感触を確かめながら、その日の上司の顔を思い浮かべた。
翌日、彼はいつも通りの時間に工場へと向かった。心臓は不規則なリズムを刻み、手のひらには汗が滲む。しかし、彼の表情は驚くほど平静を保っていた。作業着に着替え、持ち場へと向かう途中、彼はいつものように怒鳴り散らしている上司の姿を見つけた。周囲の派遣社員たちは、皆、うつむいて作業を続けている。
その光景を見た瞬間、彼の心の中で何かが弾けた。彼の足は、吸い寄せられるように上司の元へと向かう。上司は、いつものように彼を罵倒しようと口を開いた。しかし、その言葉が発せられる前に、彼の手に握られたククリナイフが閃いた。
工場内に、鈍い音が響き渡る。一瞬の静寂の後、周囲の派遣社員たちの間で、ざわめきと悲鳴が上がった。彼の目の前には、信じられないものを見るかのように目を見開いた上司が倒れていた。彼の顔には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、彼の心の中には、長年溜め込んでいた怒りと絶望が、ようやく解放されたかのような、奇妙な空虚感が広がっていた。
彼はククリナイフを握りしめたまま、血の付いた手をゆっくりと見つめた。その手は、まるで他人事のように、震えることなくそこに存在していた。
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