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私はヴァロワ帝国の四女として生を受けた。
オリヴィア・ジョゼファ・ド・ヴァロワ———それが私の正式な名だ。
世間には、第四皇女として知られている。
皇帝である父と、現在は皇后に成り上がった母とは、血の繋がりを持つれっきとした親子である。
母が皇后に"成り上がった"というのは文字通りの意味で、父にはもともと前妻がいた。
母が私を身ごもったとき、当時まだ皇太子だった父の第二側室だった。
側室とはいえ、祖国の皇太子に嫁ぐほどの旧家の出である母は、生まれつき高貴な身分を持っていた。
名門家の一人娘であった母には二人の兄がいるが、歳がかなり離れていたため、必然的に蝶よ花よと育てられたそうだ。
傲慢で強かな女性になるには、充分な環境だったのだろう。
しかし、母が側室から正室に成り上がることができたのは、その家柄や教養のおかげではない。
きっと、その高貴な身分に見劣りしない美貌を持ち合わせていたからだ。
綺麗な女なんて掃いて捨てるほど見てきたはずの父ですら、母の美しさには一目置いていたという。
父からの密かなアプローチを見逃さなかった母は、その愛情を独り占めするため、第二側室という立場も弁えず、皇太子とその家族が住むイースト宮殿に白昼堂々と通っていたそうだ。
そのエピソードを聞くだけでも、母は強かで図太い人間としか思えないが、どういうわけか、父の目には"健気でしおらしい女性"と映ったという。
兎にも角にも、将来この帝国を背負って立つ男と絶世の美女———恋に堕ちるまでは一瞬だったことだろう。
その後、母のお腹に小さな命が芽生えるまで、そう時間はかからなかった。
すでに深く愛し合っていた二人にとって、母の妊娠は心の底から喜ばしいことだったと、乳母から聞いたことがある。
しかし残念なことに、今までの人生で、両親から愛された記憶はただの一度もない。
それもそのはず、当時父には正室との間にすでに三人の子女がおり、濃密な関係であった母の存在を除けば、それなりに体裁よく円満な家庭を築いていた。
とりわけ、まだ幼かった三姉妹は父を深く信頼しており、側室の存在など微塵も疑っていなかっただろう。
それは、父なりに家族を大切にし、できる限り母との関係を公にせず、家族として妻や娘たちに敬意を払っていたからだと思う。
そんな父の思いや、幼い三姉妹の気持ちなどお構いなしに、格下であるはずの母が、ずけずけと家族の中に割り込んだ。
彼女たちからすれば、ただの下品な妾にしか見えなかったに違いない。
ましてや、その"卑しい女"が産んだ子など、誰が歓迎するだろうか。
私は、そういう立場の皇女———いわば"悪役"である。
あろうことか、私が"女"に生まれてしまったことで、正室の座を狙っていた母からも疎まれる存在となってしまった。
母が喉から手が出るほど欲していた正室の座が、ようやく自分のものになると喜んだのも束の間———自分が身ごもったのが女児だったと知ったときの母の絶望は、計り知れない。
それゆえ、物心がついた頃には、義姉たちやその侍女たちからはもちろん、血の繋がった実の母からさえ、虐待まがいの扱いを受けていた。
転機が訪れたのは、私が四歳になって間もない頃のこと。
私を産んでからも、相変わらずイースト宮殿にせっせと通っていた母は、そのたゆまぬ努力の末、ようやく待望の世継ぎを身ごもった。
そして十ヶ月後、正式にヴァロワ家の嫡男として誕生した弟のおかげで、母は見事に皇太子妃———つまり、愛する父の正室に成り上がったのだ。
母の人生最大の願いを叶えてくれた弟を溺愛する代わりに、私への関心はすっかりなくなった。
そこからの十二年、私はヴァロワ家の中で「存在しない者」として扱われた。
もちろん、第四皇女としての王族教育はきちんと受けさせてもらえたし、体裁を保つために家族と同じテーブルで食事をとることもできた。
弟が生まれる以前のように、母や三姉妹から冷水を浴びせられるようなことも一切なかった。
ただし、私の行く末を案じてくれる家族は誰もいない。
たとえ高熱で寝込んでも、熱心に看病をしてくれる侍女すらいなかった。
屋敷の中ではずっと、ひとりだけ、まるで透明人間のように彷徨い、孤独と虚しさに耐えるだけの人生を送っていたのだ。
そして十六歳になるや否や、唐突に縁談の話が舞い込んだ。
貴族派の中でも圧倒的な権力を持つ、アルデンヌ公爵家の一人息子・トーマス殿との縁談である。
第四皇女とは名ばかりの私にとっては願ってもない話だったが、第二皇女であるシャルロット様以外は皆未婚であるため、階級的に見ても、トーマス殿の相手は他の義姉たちのほうが適任のように思えて、どうも腑に落ちなかった。
おまけに、第三皇女のイザベル様とトーマス殿は、*貴族学校(キングズ・スクール)*のご学友である。
なおさら、親交のあるお二人のほうが、事は円滑に進むのではないかと、不思議に思った。
そしてある淡月の夜———その疑念は、両親の会話からすぐに解けることになる。
「アルデンヌ公爵ともなるお方が、ついに取引に失敗なさったのでしょう?」
夜中、水が欲しくて厨房へ向かう途中、父の書斎から母の猫なで声が聞こえてきた。
目を向けると、扉がわずかに開いている。
きっと母の閉め方が甘かったのだろう。
普段ならそのまま通り過ぎるところだったが、話題が"アルデンヌ公爵"だったため、思わず足を止め、そっとドアに近づいた。
「取引がうまい彼なら、たとえ相手があの"化け物"でも、こちら側に有利に話を進めてくれるんじゃないかと期待したんだが……私の見当違いだったようだ。」
相変わらず、能力のない者にはまったく興味がないといった口調で、父は冷たく言い放った。
"化け物?"
聞き慣れない言葉に、ぞくりと背筋が震える。
「でも、どうなさるおつもりです?いくらアルデンヌ公爵個人の失敗として上手く片づけられたとはいえ、その取引を促した陛下に、ついに泣きついてきたではありませんか。」
"その化け物との取引を、父が促した?"
ということは、件の取引にはヴァロワ帝国も関係しているに違いない。
しかし、二人の会話を盗み聞くかぎり、その取引は失敗に終わったようだ。
今後、我が国にも悪影響が及ぶのではないかという不安が、じわじわと胸に広がる。
「だから、相手をオリヴィアに変えたんだ。」
"私……?"
不意に出てきた自分の名前に、心臓が高鳴る。
父の口から自分の名前を聞くのは、一体何年ぶりだろうか。
単純に名前を呼ばれただけで心が弾んだが、すぐに冷静さを取り戻す。
こんな些細なことで喜んでしまう自分が、哀れで仕方なかった。
やはり私は、父に愛されてなどいない。
そう、改めて思い知らされる。
「公爵は息子の相手にイザベルを要求してきた。しかし、万が一のことを考えて、私が問答無用で相手をオリヴィアに差し替えたのだ。」
やはり、第一候補に挙がっていたのはイザベル様だったのか。
"それなのに、なぜわざわざ、私に……?"
父の言う"万が一"とは、一体なんなのだろう。
このときの私は、まだその意味を知る由もなかった。
「まあいやだ。陛下は、私が腹を痛めて産んだあの子より、イザベル嬢のほうが大切だとでもおっしゃるの?」
母の甘ったるい声には、私を案じるような気配はまったくなかった。
ただ、父にかまってもらいたいがために、実の娘を出しに使って愛する夫の気持ちを試しているだけだ。
「イザベルが大切なのではない。ただ単に、王位継承順位の問題だ。イザベルはオリヴィアより一つ上にいる。それだけのことだ。」
「ふふっ……なんて酷いお人だこと。」
私は、両親に"愛されていなかった"のではない。
"嫌われていた"のだ。
その残酷な会話を聞き終えた瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。
たとえこの先、顔も知らない男に嫁がされようと、得体の知れない"万が一"に備えられようと、この"地獄"に留まるよりは、遥かにマシだ。
淡月の控えめな光が差し込む、ある春の夜———自分が"生きている意味のない人間"だと、親によって証明されたその瞬間、私は迷わず、アルデンヌ公爵家への輿入れを決意したのだった。
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