第4話 その後……

その夜――。


黒い海が空を覆い、街全体が逆さに沈んでいた。

美咲は、反転した東京の路地を独り彷徨っていた。


建物は腐肉のように崩れ、

窓の中からは無数の眼球がじっと彼女を見ている。

耳の奥では妹の声が囁いた。

「……お姉ちゃん、置いていかないで」


振り返ると、妹と依頼人の女性が並んで立っていた。

赤黒い空を背景に、その瞳孔は墨で塗りつぶされたかのように真っ黒で、光を呑み込みながら笑っている。


「お姉ちゃん……こっちへ……」

「一緒に来てください……」


伸ばされた二対の手。

美咲は必死に首を振り、駆け出すが、路地は輪のように閉じていて出口がない。

どこまで走っても、背後からは湿った呼気が追ってくる。


「いや……来ないで……! わたし、もう……耐えられない……」


叫んだ瞬間、足元のアスファルトが水面のように割れ、

深淵の闇が彼女を呑み込んだ。


――そして。

布団の中で跳ね起きる。胸は苦しく、

掌にはまだ冷たい湿り気が残っていた。


「……わたし、ひとりじゃない……よね?」

かすれた声でそう呟くが、返事はどこからも返ってこなかった。




一方、黒崎もまた、悪夢の淵に捕らわれていた。


暗い書斎。

机に向かって記録を記す自分の背後に、依頼人の女が立っている。

首をあり得ない角度に折り曲げ、眼窩から血の涙を流しながら、囁いた。


「……真実を見せてください、先生……」


その声はやがて千の囁きに増幅し、壁一面が耳となって彼を囲んだ。

紙の上では、己の手が勝手に動き、赤黒い文字を幾度も幾度も刻んでいく。


《■■■の名を記せ。記せ。記せ。》


――依頼人の名が、血で染め抜かれるように何十回も並んでいた。


黒崎は喉を裂くような叫び声と共に飛び起きた。

背中は冷たい汗に濡れ、震える指でノートを掴む。


そこには確かに――赤黒い筆跡で依頼人の名が記されていた。

「……冗談じゃない……俺まで連れて行かれるのか……」


思わず弱音が漏れる。だが返答する者はなく、

部屋の隅の鏡だけがじっと彼を見返していた。




悪夢の夜が明け、二人は再び事務所で顔を合わせた。

互いに青ざめた表情で、言葉は少なく、ただ沈黙が漂う。


窓の外。朝焼けの光の中、街角の水たまりに女の影が揺れていた。

それは笑いながら、鏡の向こうへ手を伸ばしていた。


だが闇はまだ口を閉ざしてはいない。

次の『扉』は、既に別の場所で開きかけていた。



ファイル02 鏡の街路 END..


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黒崎探偵事務所-ファイル02 鏡の街路 NOFKI&NOFU @NOFKI

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