明ける




「親の喧嘩を最初に見たのって君がいくつのとき?」

「おばあちゃんにしがみついてたときだから、五、六歳の時だね。たしかその日は日曜の朝十時くらいだったはず」

「……よく覚えてるね」

「その時に初めて『両親の喧嘩』ってモノを理解したからだと思う。——あなたは?」

「小五の時だったかな。その前から不仲の片鱗みたいなのはある程度感じてたけどね」



 制服からも、血の繋がりからも解放された男女が歩く、まだ朝を知らない深い夜。

 毎日ではないものの、私たちはあの時間を続けていた。


 けれど私は思い知った。飛び込んだ先の世界に長く居続ければ居続けるほど、元の世界に帰ってきたときにできる傷は深く抉られたようなものになると。


 家という箱の中で、渦巻き始めた怒号という名の嵐はいろんなものを破壊した。

 あの手を掴んだ日から一か月も経たないうちに彼と過ごす午前二時の時間は無くなった。

 最後になってしまったあの時間に彼と話したことといえばお互いの両親の喧嘩の内容とそれぞれの夏休みの予定だけで、その日は数時間前に降った大雨のせいで空が薄い雲の膜に覆われていて、雨の日独特の匂いを纏った夜風が気持ち悪くなるほど鼻を掠めた。

 




「バレちゃったんだね」


 目の前に座る彼の髪が乾いた風で揺れる。開いた教室の窓のせいで暴れるカーテンが視界の隅に必ず入り込んできた。教室にいるのは私と彼の二人だけで、たまに聞こえてくる女子生徒たちの甲高い声に耳を塞ぎたくなった。

 青い空には雲一つなかった。


「……ごめん」


 持っていたシャーペンを机の上に置く。けれど位置が悪かったのか、開いた日誌のカーブに沿って滑っていったそれはカタンと小さな音を立てて床に落ちた。

 拾おうとして伸ばした自分の指先が冷たく震えているのがわかった。


「謝るんだね……。君のせいじゃないだろ? 出てこられなかったのは」


 早くこの話を終わらせたくて、ぐちゃぐちゃな文字が並んでいくのを無視しながら日誌の最後の行まで辿り着いた。

 その行に埋められた、担任に書くように促された言葉は今の自分にはあまりにも無縁なもので、終わりを告げる『。』は今まで書いてきたそのどれよりも綺麗な真円だった。

 涙で濡れた頬に張り付いた自分の髪が鬱陶しくて、それを拭うときに立てた爪のせいで引っ搔き傷ができたことに気づけたのは机の上に落ちた涙に赤が溶けていたからだった。


「午前二時の時間はもう続けられない」


 掴んだ鞄には真剣にやりもしない大嫌いな教科たちの問題集が七、八冊は詰められているのに片手で持っていられるほど軽かった。


「君にとって、良い夏休みになるといいね」


 日誌の下の行の方に目を落としながらそう言った彼は顔に陽が当たっているのに眩しいそぶりも見せずに微笑んでいた。

 私は足早にその場を後にした。

 誰一人として生徒のいない廊下は夏の暑さで満たされていた。履き替えた靴のかかとを踏んだまま昇降口を飛び出して、真昼の日差しが直下で降り注いでいる中を走った。



****



 これは汗と血のどちらだろう。

 最近読み終えた小説が脳内で投影を開始する。

 廃家で偶然見つけた天使の像を眺めるためにその場所に何度も忍び込んでいた少年の話。

 少年はある日その廃家でとある老人に出会い、その老人は彼にこう言った。


「いつでもこの天使の像を見に来るといい。ただし、一つ約束してほしい。この天使の像がなくなっていて、代わりに死神の像が置かれていたら急いで逃げなさい。いいね?」


 少年はその話を忘れないように記憶の核に書き留めておいた。そして、何週間か経ってその日は訪れた。

 天使の像がない。その代わりに死神の像が置かれていて、少年は記憶の中心から老人との約束を引っ張り出す。

 走って、走って、走った。少年は走った。

 振り返えることなんてできなかった。だって、あの死神の像が持っていた鎌が自分の首に迫っているから。

 やっとのことで帰宅した時、何かがツゥーと首筋を流れていく感覚があって、怖くなった少年は目を固く閉じてそれをハンカチで拭き取り、それが汗なのか血なのかをハッキリとさせないままにした。

 少年の首筋を流れていったのはどっちだったのだろうか。


 真上で暑さを撒き散らす太陽が、私の首筋をとめどなく流れるものを照らす。


死神かれが持つ鎌なら、あの人たちと繋がった血を一滴残らず抜き取ってくれたかな」


 家の隣にある公園の入口の前に立つ。

 暑さで歪む景色の中で、公園の遊具には必要不可欠なブランコが可笑しなほど揺れていた。それが陽炎のせいでそう見えているだけなのか、先ほどまで誰かが乗っていた名残なのか、いっぱいになった頭はそんなことすらも理解することがてきなかった。



****



 どんなことをするにも、どんな言葉を喋るにも神経を使う。

 自身のせいで傾いてしまった家の空気を吸うたびに、それが自分の身体を構成する一部になってほしくなくて吐き出す溜息を深く長いものにする。

 いつだったか、父に大きな噓をついてしまったとき、父親としての笑顔を見せ直してくれるまでに数ヶ月かかった。今回は許されるまでにどのくらいの期間を要するのか。私には決める権利も力もない。不透明で曖昧なその時間経過にいるのはこの地球で私だけだ。

 夏休みの間、私は家族という皿の上に置かれているはずの分銅を少しずつ少しずつ拾い集めて、父の怒りに傾いた天秤を平衡に戻すことに集中した。




 提出課題は残すところ丸付けだけで、開いた回答集と問題集を見比べながら赤のインクで印をつけていく。ときどきページを裏返して、滲んだ反転する赤の文字を観察した。

「表を消したら、この反転した文字も消えるかな?」なんて馬鹿なことを考えていたら、丸が続く箇所に突入して、ペンを握る手が同じ動きを繰り返していく。麻痺していくその動きから意識を逸らして、「でも、紙の奥まで染み込んじゃってるから、それを抜き取るなんてできないか」と問題集に向かって言った。



 迫る始業式の日に提出しなければならない課題をすべて鞄に詰め込む。

 点けられた勉強机の照明はまだ消さずに、新しく読み始めた小説を開いた。

 本に挟んでいた栞を置こうとした場所に置時計があって、その時刻は午前二時を示していた。今の今まで聞こえていなかったのに、どんどんその秒針の音は大きくなっていった。


 期待は適量を超え、行動に変わった。

 視界に入った服を掴んで、急いで着替えた。照明の光はそのままで、暗い二階の廊下に開いた扉の幅分だけその明かりの筋ができた。

 階段の最上段から見下ろした一階のリビングでは闇の中で父が大の字で寝ていて、通常の数倍は大きいいびきが私を震えさせた。両の足の裏が床に触れて、一度深呼吸する。途切れない父のいびきを聞きながら開けた玄関の扉から侵入してきた風はもう秋の冷たさに姿を変えていた。




「なに、してるの?」

「その言葉は僕も君に聞きたいね」


 頼りなく光る街灯が彼を照らしていた。強かったり、弱かったり、肌寒さを感じる優柔不断な風がお互いの髪を揺らす。風向きに合わせて揺れる髪が何度も視界を覆って、数回に一度の頻度で髪の隙間から現れる互いの瞳がその度に必ずぶつかった。


「もうこの時間は続けられないって言ったのに……」

「それは "二人" での時間のことで、僕一人で続ける分にはいいでしょ?」

「……」

「怖い顔しないでよ。まぁ、そうだね……、君の部屋の明かりがこの時間に点いてる日を待ってた」

「今日は……もうすぐ夏休みが終わるから課題終わらせてたの」

「ハハっ。えらいね、君は」


 口を開けて笑う彼は電柱にもたれかかって、俯き気味なその顔は笑ったままだったけれどその眼には相変わらず光がなかった。

 遠くの大通りで車のクラクションが鳴って、それと同時に吹いた夜風で身体がほんの少し震えた。

 歩みを始めた彼を視線だけが追いかける。


「どうする?」


 立ち迷う私の方を見た彼はあの薄い歪んだ笑みを浮かべていなくて、ただただ少年ように無邪気に微笑んでいるだけだった。

 私たちの夏にはいつだって黒が混じってる。

 いつの間にか筆の先から滴り落ちていった黒色は、綺麗に溶けた青の上に滲み広がって、いくら白を足しても元の澄んだ青に戻らない。

 夏が終わるまで私たちはその黒を吐き出し続ける。



****



 歳を重ねていくたびにあの愛が本物なのか何度も悩む。

 枝と枝が連なったその繋ぎ目から生まれてきた私という花は、本当に愛という名のもと咲いたのだろうか。

 愛のための行為、欲求を満たすための行為、目的のための行為、いったいどれで私は咲いたんだろう。少なくとも片方は欲求で、もう片方は目的だ。

 子ども自身がそれを愛と考えられないなら、もうあの人たちの愛を疑うしかないじゃないか。

 いくらそういうことが理解できる歳になったとしても、子どもわたしの前でそんな話してほしくなかった。隠し通してほしかった。墓まで持っていってほしかった。片方は強く望んで、片方は断り続けているなんて……。たとえそれが私が生まれた後の話だったとしても、聞かされた私はそれをどう受け取ればいい?

 気持ち悪い。涙も出せないほど気持ち悪い。



 風が止んで、駆け巡っていた思考も停止する。

 もういなくなったと思っていた夏の重苦しさが辺りを覆って、隠れていただけでまだ余力を残した暑さを全身が感じ取った。

 彼の歩く速さはずっと変わらない。等間隔に置かれた木々に街灯、過ぎていく建物、場所、この街を構成する一つ一つの存在を確かめていくような歩み。


「前にさ、君のことを "よく謝る人" って言ったでしょ?」

「……言ってたね」

「よく親が喧嘩してるんだろうなって、自分と似た者同士の人だろうなって、勝手に君をそう見てた。……自分がそうだったからね。だから、謝ることが癖になってる君を見てると昔の自分を見てるみたいで、抜け出させてあげたくなった」


 ずっと前を見ていた彼が私の方を見る。

 私より頭一つ高い彼は首を少し傾げて、彼に向けていた私の視線と自身の視線を合わせた。


「だから君を誘ってみたんだ」


 視界の奥で急に光が増してきて、歩道で立ち止まった私たちは一時的に光の中に包まれる。車道を走っていく車のヘッドライトが彼を背後から照らして、目の前に立つ彼が一瞬真っ黒に塗られた。

 彼の口調は幼すぎて、一番に暗闇から解放された瞳は邪気のない、純粋な想いを訴える子どもと同じ瞳をしていた。



 

「大人になりつつある僕らの家族に対する考え方はそれぞれ違うけど、子どもの時の土台はきっと一緒だろうね。何とかして父と母に仲良くしていてほしくて、子どもがするには有り得ないくらい謝ったあの記憶は消せない」


 彼は合わせていた視線を切って横顔を私に見せる。いつもより歩幅を広げて歩き出した彼の背中を追った。

 横に並んで歩こうとしても短い距離ができてしまうようになって、少し後ろから彼を見上げた。その目にはいまにも溢れそうなほど涙が溜まっていて、ちょうど通り過ぎた自動販売機の強い光で彼の瞳がほんの少しだけ輝いた。

 私は自分の頬に流れる涙を腕で拭って、まだ両目にいる線を越えて溢れてきそうなそれをもう零れてこないように袖に吸い込ませた。


 静かに吹き始めた風で歩道の木々が葉音を立てて揺れた。その葉の色はもうすでに緑から黄に変わっている。

 私の家の隣にある公園の背の高い街灯が、深夜の黒をかき消しそうなほど明るい暖色の光を放っていた。


「壊れていないといいね」


 彼の頬に涙が流れた跡はなかった。

 私の家の前で優しくそう呟いた彼のその顔をもう何度見たかわからない。

 細められた目に口角を上げた薄い歪んだ笑顔のその顔は、いつだって私の心臓を締め付けた。

 背を向けた彼は私の知らない夜の世界へと進んでいった。


 玄関の扉を閉めて自分の部屋に戻るまでの音を何とかして殺す。自室の扉を閉めてからすぐに公園側の窓を開けた。

 入り込んできた夏の終わりを告げる風が自分の髪を揺らした。

 深夜にひっそりと佇む遊具たちに囲まれながら彼は公園を通り過ぎていった。

 彼はこの後どうするのだろう。遠回りをして一人でまだこの時間を続けるのだろうか。それとも、やっと静寂を迎えた家へと帰るのだろうか。

 開いた窓を網戸にして、横になったベットの上で数時間後には青くなるガラスの天窓を見ていた。


 輝きもせず、光のない部屋で真っ黒なままそれは流れていった。

 夢なんか見やしなかった。



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午前二時は逃避行に適さない 金ノ見 音 @oto_333knnm1

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