午前二時は逃避行に適さない
金ノ見 音
更ける
午前二時。生まれるすべての音を消したい。
リビングから聞こえる父親のいびきが見えない怒りを纏って私の耳に入ってくる。階段が軋む音、鍵を開ける音、私が玄関の扉を閉め終わるまでのすべての音が要因になりかねない。
そっと開いた扉から深い夏の夜の空気が流れ込んだ。
電柱に寄りかかりながら待っている彼の姿を見ると自分の背中が重くなっていく。背徳感と興奮、そして何よりも、帰宅した時に怪物が目を覚ましていないかという心配が私の神経を駆け巡る。足裏から脳みそまでを一気に震わす感覚だ。
「今日は "壊れなかった" ?」
昼間よりも彼の声が低く聞こえるのはなぜだろう。
人工の明かりに頼るしかないこの時間は私たちを一歩大人にさせてくれる。自動販売機の光が彼の顔を照らしたときにできる影が美しかった。
****
「君は、抜け出してみたくないの?」
何の前置きもなく、一緒に日誌を書いている彼が小さな声で聞いてきた。
四階の教室の窓から見える渡り廊下を多くの生徒が行き来している。六限の授業が終わり、簡単に済まされた終礼の時間はもう数十分前のこと。掃除当番だった生徒ももう帰ってしまっていて、この暑さに押しつぶされそうな放課後の教室には私と彼だけ。
向かい合って座っている彼の背後で、開けた窓から入ってくる風がカーテンを暴れさせていた。
「君の両親仲良くないんだろ?」
はじめの質問に答える前に告げられた新たな問いが耳を痛ませる。
机を挟んで座る私たちの足先同士が当たって、私は自分の足を椅子の下に仕舞いこんだ。
「なに、急に……」
「僕と同じように、閉じ込められちゃった人だなって思ってたんだ」
彼は頬杖をついていた手を崩して、骨張った長い指で机の上の転がっているペンをいじる。
私のどこを見てそういう思考に至ったのかを疑問に思って、この十数年間友人にすら打ち明けることのなかった家庭事情を、同じ中学出身ではあるものの顔と名前しか知らない交友関係値ゼロの人間に暴かれたことへの動揺を隠そうとして表情と声を取り繕った。
「もし、私が『そうだよ』って言ったとして、あなたはどうしたわけ? 同じ境遇の私と慰め合いたいわけ?」
彼の乾いた笑いが零れる。
「違うよ。君の場合はもう少し両親に対して無関心という態度を取ってみるべきだね」
「……それができたらどんなに楽か。家の中での出来事に関して、たとえそれが自分とは関係のない争いであっても
「なるほどね。君の両親、——どちらかはわからないけど恐らく父親かな? ——はえらく家族というものに執着しているんだね。厳しいだろ?色んなことに」
紙の上を走らせていたシャーペンの芯がパキッと折れて、最後に書こうとした『。』が半円になる。
「当りかい?」
片眉と口角をユルリと上げ、目を三日月型に歪ませて笑う彼に鋭い視線を送る。
触れ方を誤ったら落ちてしまいそうなほど机の端の端に置かれた消しゴムをギュッと握って、中途半端になってしまった『。』を消し、新たなものに書き直した。
「君はよく謝るよね? 中学生のときからずっと気になってたんだ。何も悪いことしてないのに、なんでか必ず一言目に『すみません』って言う。特に目上の人、担任とか先生とか。繰り返し行われる両親の喧嘩に対して、子どもができる修復手は "謝罪" だけだ」
「私のその癖が、両親が不仲だってわかる理由?」
筆圧の高い自分の字で埋め尽くされた日誌を腹の中で煮え始めた気持ちと一緒に閉じる。
「 " 経験者は語る" だよ。僕の両親はさ、喧嘩が日常習慣なんだ。積もりに積もったお互いの不満を大声でぶちまけ合う。それに使う気力がどこから溢れてくるのかはまったくもってわからないけどね。君んとこもそうでしょ?」
「何? やっぱりあなたが欲しいのって同情なの?」
「厳しいなぁ。同じ中学の仲じゃないか」
「中学のときから合わせてあなたと同じクラスになったのは高二の今で三度目だけど、会話という会話は今日が初」
椅子が床を擦る音で彼の次の言葉を言わせないようにして立ち上がった。
肩にかけた鞄には大したものも入っていないのに腕が引き千切れそうなほど重かった。
「君の家って第二公園の隣だろ?」
「……よくご存知で」
「抜け出してみようよ。親が勝手に作った環境からさ」
椅子にもたれかかってこちらを見る彼は歪んだ笑顔を浮かべていた。
窓から吹き込まれる風で教室のカーテンと彼の髪が無防備に揺れ続ける。その髪の隙間から覗く眠気を孕んだ光のない目が私のすべてを見透かしていた。
「午前二時、君の家の前。もし出てこれそうなら出てきなよ。三十分くらいは待ってるからさ」
****
読んでいた小説をそっと本棚に戻した。読書のために点けていた机の照明を落として、パジャマから普段着に着替える。
自室の扉をゆっくりと開けて、暗い二階の廊下をそろりそろりと歩いていく。廊下の奥の寝室からは何も聞こえない。たぶん母は今日も今日とて深い眠りについている。
深夜に家の中を移動する時にもっとも慎重にならなければならない場所が来る。
階段の一番上の段から見下ろした一階のリビングは真っ暗で、その中に誰かが丸まって寝ていた。父だ。相も変わらずそのいびきは二階にまで届くほどである。
一段一段階段を下りるたびに緊張感が増してくる。最後の一段を下りて、足の裏が冷たい床に触れた。
玄関の扉を開けてから閉め終わるまで、父のいびきが途切れることはなかった。
「来たんだね」
午前二時丁度。
薄く光を拡げた街灯に照らされた彼は妖しい微笑みを私に向けた。
生ぬるい風で揺れる髪の隙間から覗く瞳が自分の瞳とぶつかった。
強張っていた全身が解放されて身体が汗ばんできた私とは対照的に、気温の下がらない真夏夜の中を歩み始めた彼は涼しげだった。
私はその横に並んで彼についていく。
「あなたはよくこうしてるの?」
「そうだね。うちの両親は近所迷惑になるだろってほど夜中まで喧嘩してることが多いから。今日もそうさ」
私より数十センチは背の高い彼を見上げる。彼の眼は揺れずにただ前を見ていた。すれ違う人はおらず、遠くの大通りから車やバイクの走行音が時々聞こえた。
————そういえば、彼の家はどのあたりだったっけ? 中学時代の下校風景を記憶から呼び起こして、たしかあっちのマンションだったはず、と視線を動かす。他より頭の抜きん出た見覚えのある建物があって、私はそこだと確信した。
そうか、もし引っ越していなければ、あのマンションのどこかの部屋でいま彼の両親は喧嘩しているのか。
「君は……今日大丈夫だった?」
昨日放課後に話したときとは違う、窺うような彼の声色が一瞬にして自分の頭の中を染めていった。
「大丈夫。うちは一昨日だったから。今は、今は静かだよ」
予想していたようでしていなかった質問に対する自分の返答が震えているのがわかった。俯いたら線を越えて溢れてきそうだったから彼と同じように前を向いた。
「溜まってる本音を言葉にするのはこの時間が一番いいんだよ」
彼のその言葉にはいい意味で励ましというものがなくて、滲み始めた視界をどうにかして乾かそうとして目に風を当てた。
「……こんな言葉、君は望んでいないと思うけど、まだ自分が家族の一部であると考えられている君が羨ましい」
「夢見てるだけだよ、家族という形にね。壊れてほしくなくてしがみついてるだけ」
渇いた短い笑いが自分から零れた。
彼と歩いた時間は数十分程度で、それぞれの家のことを話し終えた後は学校でのことについて話すだけだった。話の区切りがつくたび生まれる沈黙がなんだか心地よくて、家族でも友人でもない、名前だけは知っている似たような家庭環境で生きるクラスメイト同士で、授業の時間でも、放課後の時間でもない、夏の夜の時間を過ごしてみるのも良いなと思った。
「じゃあ、また明日学校で」
彼がこの後そのまま自宅に帰っているのか、それともどこかで寄り道をしてから帰っているのか、そんなことまで彼が私に伝えたり、私が知ろうしたりするほどの関係性になることは後にも先にもなかった。
夜の世界を彩る人工の光が照らす彼の姿は、夏の焼けるような日差しが入り込んで熱気を含んだ風がカーテンを揺らすあの教室にいる彼とは違っていた。
遠くなっていく彼の背を眺めながら、夜風に吹かれる髪の束を耳にかけた。
****
朝の校舎は、一日の授業を嘆く者や
学校という環境で生まれる特有の空気や音はいまこの学生という時間でしか感じることができない。
同じ制服を着た人たちに紛れ込んでいく自分を俯瞰するたびに学校での自分の立ち位置というものを再確認する。一日の三分の一以上を興味のないことに費やすと思うと今日も溜息しか出なかった。
涼しさというものはどこにいても感じられなくて、夏の熱気が漂う教室でクラスメイトたちの会話を盗み聞きしながら読みかけの本を開いた。
窓側の席になった生徒の宿命である、開いた窓から入り込んでくる風が
次の頁へ進もうと視線を動かした時、視界の隅を『彼』が通り過ぎっていった。
昨日の放課後と午前二時のことについて、私たち二人は沈黙を選んだ。
朝礼が始まるまでの間、彼とその友人との会話内容は一般的な学生と変わらないもので、彼もまた私と同じように多くの仮面を持っているのだとわかった。
一限一限と終わっていく授業に何の感想も湧き上がってこなくて、休憩時間の友人との会話の内容やもうすぐ読み終わる小説、彼と過ごしたあの時間の記憶だけが頭の中を動き回っていた。
「帰るの遅いね?」
放課後、履き替えたローファーが映る視界に別の誰かの足先が入り込んできて、顔を上げたその先には笑みを浮かべる彼がいた。自分の首元を飾る制服のリボンと同じ柄色の緩く絞められた彼のネクタイが揺れた。
「図書室に借りてた本返しに行ってて……。今日は新しく借りたいものもあったから」
「ふーん。本好きなの? 休み時間とかよく読んでるよね」
朝の登校時間と先ほどまでの下校時間のピークには多くの生徒で埋め尽くされていた下駄箱はすっかり寂しい空間になっていて、話しかけてきた彼の声が良く通った。
「あの後、大丈夫だった?」
橙の空に包まれるこの時間帯は、通常より影が濃黒でよく伸びる。
彼の言葉に少し速まった心臓を落ち着かせて、変な間ができないように返事をした。
「うん。大丈夫」
「そ、良かった。抜け出してみるのもいいもんでしょ?」
答え終わると同時に彼から視線を外して、自分の足元に落とす。無理に引き上げた口角が微かに痙攣した。
バレずに済んだとはいえ、自分が背負うことになった両親に対する秘密はたぶん死んでも下ろせない。
両親、特に父親に「するな」と言われたことをしてしまったことに対する罪の意識は強力で、自分で剥がそうとすればするほど酷くなる。
だけど今、その罪の意識を自ら積み重ねてしまう。数多くの部活の掛け声が混ざり合うこの夕方の時間と、彼と過ごした午前二時の静けさで包まれた時間とを思わず比較してしまっている自分がいる。ふとした瞬間に瞼の裏に投影されるあの人たちの争いの場面を彼との時間で上書きできないか、なんて考えている。
足元に落としていた視線を上げた先には薄く笑う彼がいて、細められたその眼に光はない。
制服を着た午前二時の彼がそこにいる。
「また迎えに行こうか?」
彼から伸びる影が私を捕えた。
欲してはいけない何かを含んだそのやさしい声の主は、青年に化けた死神のようだった。
「うん」
いくつ仮面があったって、本質の姿勢は変えられない。
あの人たちの機嫌ばっかり窺って、嫌な空気を色んな言葉や行動で誤魔化して、喧嘩のきっかけが生まれないようにする。
幼い頃に身についてしまったそれのせいで、結局いつも当たり障りのない、無難な、相手との関係が壊れてしまわない、壊れてしまわないで欲しい言葉を選んでしまう。言葉が、もう拾うことができないほどの深い底へと落ちていってしまう。
その手に一度触れてしまった私はもう戻ることなどできなくて、首に添えられた鎌の切っ先など見て見ぬふりをするしかなかった。
彼の影が見えなくなるまで私はその場を動くことができなかった。
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