第5話 ゴリラ、見世物になる
目を開けたとき、俺は鉄の檻の中にいた。
狭い。湿った藁が敷かれ、壁は金属の格子。空はあるが、木々はない。
森の葉擦れも、滝の轟音も、夜の虫の合唱もない。
代わりに聞こえてくるのは、規則的な機械音と、人間の声だった。
「こっちこっち!ゴリラだ!」
「でっかーい!動いたー!」
「パパ、こっち来てー!」
目を凝らすと、檻の向こうに人間。人間。人間。
知らない服を着た子どもがガラスに手を当て、スマホを構えた親が笑い、ベビーカーを押す母親が赤ちゃんに向かってゴリラについて説明している。
(……ここ、日本だ)
匂いで分かった。塩素。消毒液。漂白されたような清潔感。
森の湿った匂いとは全然違う。
檻の外に書かれた看板には大きくゴリラ舎とひらがな。
その下に「アフリカからやってきたニューキング!」とポップな吹き出しが踊っている。
(ああ……戻ってきたんだ、俺。日本に)
拍子抜けした。
群れを守るために必死に戦い、王としての責任を背負い、ハンターに捕まって気づけば帰ってきてるじゃないか。
ここから電車に乗れば、都心の会社にだって行ける。……いやゴリラがスーツ着ても入館証は通らないけど。
(でもまあ……いいか。群れの王?あれはあの世界限定の役職だ。ここはもう日本。責任も掟も関係ない。俺はただのゴリラ。檻の中の、見世物。それで十分だろ)
思えば、サラリーマン時代も似たようなもんだった。
オフィスのデスクに縛られ、残業して、見世物のように上司に叩かれて。
環境が檻からオフィスに変わっただけで、本質は同じだ。
だったら、檻のほうが楽かもしれない。
「お、動いた動いた!」
「パパ、手振ってる!手振ってるよ!」
いや振ってない。汗をぬぐっただけだ。
でも拍手が起こる。スマホのシャッター音が連続する。
(……なんだこれ。芸人か?)
俺はちょっと肩を回してみた。筋肉が盛り上がる。
「すごーい!」
と歓声が飛ぶ。
手を振ってみる。
「きゃー!」
と歓声が二倍になる。
(あれ? 思ったより悪くないぞこれ)
やってることは、社畜時代のプレゼンと同じだ。
人前でポーズを取り、客の反応を確認し、求められる動きをする。
でも違う。ここでは数字も納期もない。ただウケればいい。
それで客は喜ぶし、俺は拍手をもらえる。
(楽だ……!こんなに気楽でいいのか?)
昼過ぎ、青い作業着を着た飼育員が入ってきた。
金属の扉を開け、台車にバナナを山盛り積んで押してくる。
「はいはい、ニューキング。食え食え」
ざらっと床にバナナがぶちまけられた。
まるで産業廃棄物の投棄。愛情ゼロ。
「ウホホ!ウホホホ!(おいこら!せめて丁寧に置け!)」
叫んでみても「ウホホ」としか聞こえない。
飼育員は「おー吠えてる吠えてる」と笑い、ドアを閉めて去っていった。なんだあいつ?
(……まあいいか。バナナはバナナだし)
皮をむいて食べる。甘い。うまい。
観客が食べたー!と拍手する。
俺は内心苦笑した。
(なるほどな……ここでは、バナナを食べることさえイベントなんだ。王として統治しなくてもいい。まぁ王として統治する前に捕まったんだけど。だけど食って寝てればみんな喜ぶ。)
日が傾く。観客の数が減り、園内放送が閉園を告げる。
人々は去っていき、檻の前は静かになった。
残ったのは、鉄格子、藁、バナナの皮。
俺はごろりと横になり、うとうとし始める。
日本の空気。塩素の匂い。
森の湿った空気とは違う。
でも、不思議と安心感がある。
(……俺、もう王じゃないんだよな)
ここは日本。群れもない。仲間もいない。責任を背負う必要もない。
ただのゴリラとして寝転がっていればいい。いや心は人間なんだけどね
檻の中で目を閉じながら、俺はそう楽観的に思った。
それでも、ただ、ほんの少しだけ、胸の奥がざわつくのも事実だった。
観客が笑い、拍手を送り、写真を撮って満足して去っていく。
檻に残る俺は、バナナを食べ、寝転がるだけ。
(これでいいのか……?本当に?)
森で見た群れの瞳が、ふと脳裏に浮かぶ。
あの王として見られる視線。
あの責任の重さと同時に、あった温かさ。
日本に戻った。
王として戻る必要は、たぶんない。俺の前の群れのリーダーだったあのシルバーバッグがいるし、なんとかなるだろ。
俺はただのゴリラとして、檻の中で生きるだけで十分だ。
そう結論づけながら、俺は藁の上で大きく欠伸をした。
楽観的な安堵と、わずかな寂しさに挟まれながら。
檻の中は気楽だ。
でも、どこか物足りない。
俺はただの見世物で終わっていいのか?
そんな問いが、眠気と一緒に胸の底に沈んでいった。
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