ナイトメア・エスケープ

星月夜

第一章 招待状

昼下がりの大学講義室は、時間そのものが薄く延びるような場所だった。窓から差し込む陽射しはまだ夏の熱を帯びているのに、教室の空気は乾いて冷たい。まるで指先で紙の縁をなぞったときのような、か細く脆い手触りだ。チャイムが鳴り終わり、数時間分の熱と雑音が解放されると、生徒たちは一斉に立ち上がり、笑い声や飲み物の蓋を開ける音が波のように広がった。

その喧騒の中、ひときわ高い声が聴覚の輪郭を切り取った。

「おい、これ見ろよ! めっちゃヤバそうなゲーム見つけた!」

声の主は剣崎健太。いつも輪の中心にいる男で、彼が話題を投げると周囲は次々に食いつく。彼はスマートフォンを高く掲げ、画面を誇示するように見せびらかした。その声には陽気な自信が満ちていて、一瞬にして教室の空気を支配した。

僕は、結城悠太。無意識に肩をすくめながらも画面に目を奪われた。見慣れないメールのスクリーンショットが表示されている。件名は「深夜の閉鎖病棟からの招待状」— —不釣り合いなほど整った英語と正式な日本語が混在した画面が表示されていた。送信者のアドレスは nightmare_escape@game.co.jp。受信者欄には、僕たちの共通のサークル名が小さく表示されていた。添付ファイルの名前は『Escape from Nightmare』。アイコンは、窓にひびの入った病院のドット絵だ。建物の奥から、微かな動きのような影が覗いているのが見えた。

「またウイルスだろ」

結城悠真が何の変哲もなく言った。彼は僕の兄だが、僕よりも現実的で、人の感情を常に距離を置いて測ろうとする。鋭いが冷めた視線が特徴だ。

「やめときな。情報抜かれるよ」

小泉沙羅は、手元のノートパソコンから顔を上げずに言った。小柄な彼女は、論理的で怖がりながらも理詰めで動くタイプ。学科の成績はいつもトップクラスだが、それ以上に危険を察知する能力に長けていた。

「おいおい、大げさだって! ホラーゲーだろ? 楽しもうぜ!」

篠原剛は、筋肉質な腕を組み、快活な笑みを浮かべた。彼の笑い声は大きく、常にグループのムードを明るくする。大胆な行動で僕たちを引っ張っていく存在だ。

橘梨奈は、静かにその光景を見つめていた。無口だが、その瞳の奥には何かを蓄えているような深みがある。グループ最年少でありながら、観察眼は鋭かった。

健太が差し出したスマホの光が、教室の影を濃くした。彼はにやりと笑い、「俺、もうインストール済み」と言い放つ。軽薄な冗談が、知らず知らずに一線を越えるような緊張を生んだ。

「正気かよ!」

僕は声を上げた。自分でも驚くほど本気で止めようとしていた。しかし、誰かが同調する代わりに、ただ時間だけが過ぎていく。昼休みが終わり、人々はそれぞれの場所へと散っていった。放課後、僕たち六人はキャンパスの片隅にあるサークルルームに集まっていた。普段は落書きとコーヒーの匂いが立ち込める場所だが、その夜の空気は違っていた。窓の外は黄昏の薄紫色に染まり、校舎にぽつりぽつりと灯りが点る。世界はいつもの秩序を保っているように見えたが、僕たちの間にはすでに何かが不穏に漂っていた。

テーブルの中心には、それぞれのノートパソコンが開きっぱなしになっている。健太が勝ち誇ったようにキーボードに指を置き、スクリーンを僕たちに向けた。ゲームの起動画面は静かに、しかし確実に僕たちを飲み込もうとしていた。画面にドット絵の病棟がゆっくりと現れる。色数は少ないのに、湿った空気や錆びた器具の冷たさまで想像させる描写だった。視覚だけでなく、体中全ての感覚の輪郭が一枚ずつ剥がれていくような感覚。僕は息を詰めた。

「やめるなら今のうちだ」

悠真の声は低く、しかし確信に満ちていた。彼が最後の砦として立ちはだかるように見えたが、誰も立ち上がらない。

剛は腕を組み、にやりと笑った。「怖い話ってさ、結局後から笑えるから面白いんだよ。ほら、インストールボタン押せば完了だろ?」

沙羅は眉を寄せた。彼女は画面に表示された利用規約を律儀に読み、スクロールしている。それは不安を薄めるための儀式のようでもあった。

梨奈は静かに椅子の背にもたれ、コートの裾を指でいじっていた。何かを思案しているらしく、口元に浮かぶ微かな線が読めない表情をつくっている。

僕の指は止まっていた。マウスを握る右手がわずかに震えているのがわかる。胸の奥に冷たいものが落ちるような予感があった。それは恐怖や嫌悪とは違う、もっと深い、何かに根ざした非存在に触れるような予感だった。

その瞬間、健太が言った。

「さあ、行くぞ。ルールは簡単。最後までクリアしたら何かがもらえるらしい。クリアできなければ……まあ、面白い体験ができるって話だ」

彼の言葉には、向こう見ずな自信が籠っていた。僕たちはいつもそういう彼に連れられていく。危険だとわかっていても、彼の勢いに抵抗できないのだ。

結局、僕たちは同意した。六つのヘッドセットが並び、画面の冷たい青色が部屋を満たしていく。

夜7時。初めてゲーム内に入った瞬間、外界の音は薄く消え、スクリーンの向こう側の世界が濃密に立ち上がった。ドット絵で描かれた廊下は、距離感が狂うような錯覚を与える。床はきしみ、蛍光灯は不規則に点滅し、壁のペンキは剥がれかけている。効果音は意図的に不完全で、耳に残る高音が微かな不安を呼び起こした。

画面の隅にはプレイヤーリストがあり、そこには、僕たち六人の名前が並んでいた。

しかし、篠原剛のアバターだけが表示されていない。

僕は漠然とした不協和音のようなものを感じた。他の五人のアバターは確かにそこにいる。健太、悠真、悠太、梨奈、沙羅。すべて見慣れた名前と顔の輪郭だ。

「おかしいな。健太、剛の接続、どうなってる?」

悠真の声が画面共有越しに冷たく響いた。

健太は眉を寄せてモニターに顔を近づける。画面のブロックノイズが彼の顔の輪郭と重なり、表情が一瞬歪んで見えた。

「あれ、繋がってるはずなんだけど……って、俺のほうじゃねぇわ。剛、返事しろよ」

チャット欄に「篠原剛:入るつもり」という文字が一瞬流れたように見えた。僕がそれを確認しようと視線を下げた瞬間、スクリーンの色調が歪み、チャットログが一瞬だけ赤く滲んだ。ノイズに紛れて、微かな音声がヘッドセットから届く。

「……助けて……」

それは風に紛れたような、かすれた声だった。僕は直感的に剛の声だとわかった。胸の奥で何かが音を立てて崩れるような感覚が走る。これは単なるゲームの演出かもしれない。恐怖を煽るための音声演出。しかし、その声は僕たちが共有している記憶のどこかに直接触れているようだった。剛の笑い声、彼の酒の匂い、彼の些細な癖。そうした断片が、脆くも確かにそこにあった。

「ふざけんなよ」

健太は半笑いを浮かべたが、その瞳は確かに揺れていた。「演出だろ。演出じゃなきゃ、俺が怒る」

だが、画面が進むにつれて「演出説」は崩れていく。病棟の奥にある診察室のドアが開き、机の上に一冊のファイルが置かれていた。クリックするとファイルが開き、生々しいカルテが表示された。黒いインクで丁寧に書かれた欄にはこうあった。

患者番号001:篠原剛 ― 死亡

僕の血の気が一気に引いた。モニターの冷たい光が、世界を一層陰鬱に見せる。ページをめくるアニメーションはあるはずなのに、指先は硬直し、僕は呼吸を忘れた。詳細な記録が並ぶ。心停止の時刻、解剖図に付された注釈、最後に何らかの音声波形の切り取り。そして、ページの最後に赤い文字が浮かび上がった。

『彼はゲームを開始した瞬間に消失した』

文字は静かに、しかし重くそこに置かれていた。僕の胃は鉛のように冷たく、手の先がしびれる。いったい誰が、何のためにこんなことを──。思考が断片化し、言葉にならない。

ヘッドセットから再び雑音が入り、それが人の声のように聞こえた。低く、震えるような声で「……助けて」と。僕は確信した。あの声は剛のものだ。現実の彼の存在は確認できないが、声だけは確かにあった。それはゲームの音源なのか、それとも剛という個人の断片が画面の外側で叫んでいるのか。境界は曖昧だった。

「止めろ。今すぐ止めなさい!」

沙羅が立ち上がり、キーボードを叩いた。彼女の指先は白くなり、頑なに画面を閉じようとする。だが反応はない。ウィンドウはフリーズし、エスケープキーは無効化されていた。それがゲームのルールなのか、あるいは単なるバグなのかはわからない。

重要なのは、その次の瞬間だった。

画面に大きく赤いノイズが走り、カルテの文字が滲み、まるで血が散るようにスポットライトが広がった。プレイヤーリストの剛の名前が崩れ落ちるアニメーションが流れ、剛の欄が突然消えた— —表示されていたはずの名前が、ただ無に還ったかのように消失したのだ。

「剛!」

僕は叫びそうになったが、声は喉の奥で詰まった。現実のスマホは鳴らない。チャットのログに何かが書き込まれた痕跡もない。だが、僕たちの胸には不確かな穴が空いた。昼間の彼の笑顔、食事での何気ないしぐさ、夜道で見せた唐突な優しさ。それらの記憶が一列に並び、ひとつの線として断ち切られた感覚だった。

その夜、僕たちはそれぞれに現実とスクリーンの境界を見定めようとした。健太は冗談を並べ、悠真は冷静さを装い、沙羅は手早くログファイルを解析しようとしたが、どれも空回りする。梨奈は無言で椅子にもたれ、瞳の中に揺れる光を閉じ込めていた。僕はただ、画面の中央に残された黒い空白を見つめていた。

ヘッドセットの外側では、建物の廊下を掃除する音、遠くで談笑する声、そして校舎の時計が淡々と時間を刻んでいた。外の世界は何事もなかったかのように回っている。しかし僕たちの中にはすでに、取り返しのつかない出来事が刻まれていた。誰かが欠けること。それがただの欠席とは異なること。消失という言葉が、僕たちの語彙に破壊的な新しい意味を加えた。

最後に、画面に小さな白い文字が浮かんだ。

『参加者は全員、最後までプレイする義務があります』

その短い文は、命令であると同時に、沈黙の押し付けでもあった。空気はさらに冷たくなり、六人の呼吸が微かに見えるような錯覚に陥る。僕は自分の指先を見つめた。ペンを持つように無意識にその指先が動き、誰かの名を書き留めようとしていた。だが紙はここにはない。書くべきではないのだと、僕の潜在意識の中の何かが囁いた。

窓の外はすでに暗く、街灯の輪郭がぼやけ始めている。夜の深まりとともに、僕たちの選択肢は狭まり、残された時間は逆に重くなっていった。目の前にはまだ終わりのない廊下が続いているように見えた。一歩を踏み出すか、立ち止まるか。もう自分の意志だけで決められるものではない気がした。

僕たちは無言のまま、もう一度画面を見た。黙り込むことが、ある種の合図のように機能した。剛の影はまだどこかにあるのかもしれない。あるいはもう、どこにもないのかもしれない。どちらが真実であるにせよ、サークルルームの外の明るさと、画面の暗さが同じ時間軸の上で隣り合うことを、僕は初めて恐ろしく感じた。

僕たちはその夜、誰一人として帰ることができなかった。サークルルームの二段ベッドの上段と下段に分かれ、それぞれが眠りにつこうとした。しかし眠りは浅く、夢の中でも廊下の木目や、白いカルテの紙の端がちらついた。朝が来て、窓の外の世界が再び日常の色を取り戻すまでの間に、何かが確実に変わっていた。変わったのは世界ではなく、僕たち自身の存在の回路だ。日常という枠組みがいつ破れるかはわからない。それを教えてくれたのは、一通の招待状と、消えた男の名前だった。

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