第7話 段ボールと国際的アーティスト
都会の高層ビルの谷間に、段ボールの小屋がひっそりと佇む。光明院章は、今日も滑車付きの移動用段ボールに入り、ゆっくりと街を進めながら、スマートフォンを手にしていた。
ピコーン──通知音が鳴る。画面には見慣れない国際番号からのメールが届いている。件名には、
「Your Philosophy – Challenged」
章は小さな手でスクロールし、文面を読む。
“あなたの哲学、面白い。だが、個人だけでは世界を動かせない。”
– Lucas Vander, Amsterdam
章は目の前の街の光景を見渡す。高層ビル群、行き交う人々、SNSに溢れる情報の奔流……そして自分は段ボールの中。
「ふむ……欧州からだと……」
小さくつぶやきながら、章は段ボールの仮面を押さえ、自分の哲学とメールの挑戦的な文言を重ね合わせる。孤独に生きる自分の世界と、公共の場でアートを展開するルーカスの存在――まるで鏡を向けられたような感覚だった。
章はゆっくりと段ボールを押し、街角のカフェ前で立ち止まる。メールの中の言葉が頭の中で繰り返される。
「個人だけでは世界は動かせない……か」
段ボールの内側、静かな空間の中で、章は初めて自分の哲学に対して外部から挑戦が投げかけられたことを実感する。SNSを通じて、海外にまで章の段ボール哲学は届き、ついに、孤独な世界に反響が生まれたのだ。
その瞬間、章の中に微かな興奮と警戒心が入り混じる。孤高であった段ボール生活が、少しだけ外界と接続された瞬間でもある。
彼は深呼吸をし、小さく段ボールの内側でつぶやく。
「なるほど……面白くなってきたな」
滑車の音を小さく鳴らしながら、章は都市の喧騒の中を進めていく。段ボールの中での孤独と、SNS越しに世界とつながる刺激――この二つが、章の哲学をさらに揺さぶろうとしていた。
夜。都会の段ボール小屋。
光明院章は仮面をつけたまま、ノートパソコンを開いていた。
画面の向こうに映し出されたのは、ヨーロッパの街角に立つ男――ルーカス・ヴァンデル。背後には巨大な段ボールと廃材で作られたアート作品。通行人が立ち止まり、写真を撮り、笑い声をあげている。
ルーカスが笑みを浮かべ、口を開く。
ルーカス「あなたの世界は、内側に閉じている。確かに静かで、純粋かもしれない。でもね、芸術も哲学も、観衆がいて初めて意味を持つんだ。あなたはなぜ、その段ボールから一歩も出ない?」
章は仮面の奥で視線を伏せ、しかし声ははっきりとしていた。
章「私は人前で話せない。段ボールの中でしか、自分を保てない。
だが、この静けさの中でこそ世界を見つめ直せるのだ。
観衆の目にさらされると、言葉は変質する。
孤独の中でこそ、本当の哲学は育つ」
ルーカスは首を横に振り、背後のアートを指差した。
ルーカス「いや、違う。ここを見てくれ! 彼らは笑い、立ち止まり、思索し、時に涙する。
段ボールは壁じゃない、扉なんだ。
あなたの哲学は立派だが、それを分かち合わなければ死んでしまう。
人間は、独りで世界を動かせはしない」
章は少しだけ沈黙した。
外の世界に広がる喧騒、SNSで拡散された自身の姿、そして今目の前で群衆を惹きつけるルーカス。
自分の「箱」と彼の「広場」。両極の存在が、画面越しにぶつかり合っていた。
章「……だが、ルーカス。
あなたのやり方は、他者に支配されすぎてはいないか?
群衆の目が、あなたの言葉を変質させはしないか?
私はそれを恐れる。
だから私は箱の中にいる。ここでなら、誰にも歪められずに、真実を見つめられる」
ルーカスはしばらく章を見つめ、そして低く笑った。
ルーカス「哲学のために世界から逃げるのか、
それとも世界を抱きしめて哲学を磨くのか。
結局、それが俺とあんたの違いだな」
章は仮面の奥で息を整えた。
互いの主張は交わらない。
だが確かに、章の胸の奥に「ざわめき」が生まれていた。
孤独だけでは届かない何かがあるのではないか――と。
画面が暗転し、会話は途絶えた。
段ボール小屋の中に残ったのは、パソコンの冷たい光と、章の深い吐息だけ。
章は段ボールの中で、ノートに走り書きをしていた。
「孤独の哲学」をただ籠もるだけでなく、形にして街へ置く。
段ボールで“都市に穴を開ける”ような作品を。
そんな構想が、ルーカスとの議論の余韻から芽生えつつあった。
そのとき、ノートパソコンの受信音が響いた。
新しいメール。差出人は見覚えのないアドレス。
件名にはこう記されていた。
「あなたの段ボールは、記憶の器になれる」
章は思わず眉をひそめ、本文を開いた。
はじめまして。私はメキシコで活動する建築史研究者、イザベラ・ロペスと申します。
あなたの記事を読み、動画を拝見しました。
段ボールを“隠れるための箱”として使うだけでは惜しい。
私の国では、亡き人の魂を迎える祭壇にも、再生紙や簡素な箱が使われます。
それは過去と未来をつなぐ器なのです。
あなたの哲学に共感します。しかし、あなたの段ボールが「器」となれば、もっと深い意味を持てるでしょう。
もし興味があれば、一緒に試みてみませんか?
章はしばし画面を見つめた。
ルーカスの挑発的な声と、イザベラの静かな誘い。
孤独か、公共か、記憶か。
段ボールという単純な素材が、世界の各地で異なる意味を帯びていることを、章は初めて意識した。
段ボールの壁に手を触れ、彼は小さく呟いた。
「器……か。俺の箱は、記憶を入れることができるのか?」
ここから章とイザベラはメールを交わすことになる。
章 → イザベラ
イザベラさん
あなたの言葉は新鮮でした。
僕にとって段ボールは「自分を守るための壁」でしかなかった。
しかし、器という発想は考えたこともありません。
もし段ボールが記憶を入れる器になるとしたら――
それは一体、誰のためのものになるのでしょうか?
章は送信ボタンを押した後もしばらく、仮面の奥で目を閉じた。
「誰のためか」。それは彼自身の問いでもあった。
⸻
イザベラ → 章
章さん
あなたの問いは鋭い。
段ボールが器になるとき、それは「他者のため」であると同時に「自分のため」でもあります。
亡き家族の写真を入れる人もいれば、壊れた人形や手紙を収める人もいる。
大切なのは、その“箱”に宿る物語です。
孤独に生きるのも一つの哲学ですが、器としての段ボールは、他者と物語を共有するための橋になり得ます。
章さん、あなたの段ボールには、どんな物語を入れたいですか?
⸻
章は画面を見つめ、答えに詰まった。
物語。彼の段ボールには、何も入っていない。ただ彼自身が入っているだけだ。
けれど、離婚の記憶、都会の孤独、そしてSNSを介して広がってしまった彼の存在――それらもまた、箱に刻まれた物語なのかもしれない。
⸻
章 → イザベラ
僕の段ボールには、失われたものが入っているのかもしれません。
家族との時間、居場所、未来への展望……
だから僕は、外の世界から身を隠した。
でも、それを「物語」と呼べるのなら、誰かに見せるべきなのでしょうか?
⸻
イザベラ → 章
それは見せるべきです。
あなたが隠すことでしか守れなかったものも、誰かに見せることで癒されることがあります。
メキシコの祭壇もそうです。死を隠さず、むしろ飾り立てて語り継ぐ。
章さん、あなたの段ボールは祭壇にもなれる。
あなたの失われたものを、記憶として可視化してみてください。
⸻
章は深く息をついた。
「祭壇」――その言葉は重く、しかし確かな道標のように響いた。
段ボールの中に、自分が失ったものを入れ、可視化する。
それは痛みをさらけ出す行為でもある。だが同時に、再生への一歩になるかもしれなかった。
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