第4話 段ボールと僧侶
翌朝、章は温泉宿の小さなデスクに向かい、ノートパソコンを開いた。
段ボールに囲まれた空間で、メールを確認し、資産状況や取引を整理する。
画面に表示される数字の羅列も、彼の段ボールの箱庭では心地よく響く。
「よし、午前中でこれだけ片付ければ午後は自由だ」と、章は小さく呟いた。
仕事を終えた後、章は例の自作段ボールに身体を滑り込ませる。
滑車を使い、都会の喧騒を転がり抜け、山間にある滝へと向かうのだ。
都会のビル群から一転、緑と水の音が耳に心地よい。段ボールの中でも、水の匂いが微かに伝わる。
滝の前で段ボールを止めると、章は背中にカメ甲羅型の段ボールを被り、深呼吸をする。
冷たい水のしぶきが飛び散る中、彼はゆっくりと心を整える。
「段ボールの中で生活する自分と、この自然の中での自分……どちらも、俺自身なのか?」
哲学的な問いが、滝の轟音にかき消されるかと思えば、また胸の奥で反響する。
水に打たれながら、章は思考を巡らせる。
発泡スチロールの充と話したこと、段ボールに守られた生活の安心感、資産家としての自立……すべてが混ざり合い、心の奥で整理されていく。
「守るだけでは生きていけない。けれど、守らなければ俺は崩れてしまう」
水の冷たさが、逆に彼の思考をクリアにしてくれる。
滝の轟音の中、段ボールの甲羅を背負った章が水に打たれ、思考を巡らせていると、ふと滝の脇に人影を見つけた。
黒い僧衣に身を包んだ男が、ひっそりと滝に立っていた。その姿勢は凛としていて、どこか周囲の自然と一体化しているようだ。章は一瞬息を呑む。
「……あなたも、修行に来たのですか?」章は段ボールの中から問いかけるように声を出す。
僧侶はゆっくりと頭を上げ、澄んだ声で答えた。
「武蔵野小路 安寧(むさしのこうじ あんねい)。比叡山より参った。貴殿は……段ボールで来られたのか」
章は内心、驚きつつも滑車で段ボールを少し水辺に近づける。
「ええ、私の世界はこれで守られているのです」
「守ることと、動くことは違う。箱の中に閉じこもっても、世界は流れ続ける」と安寧は静かに言う。
章は水に打たれながら考えた。
「守られる安心と、流れる世界……どちらを取るか」
安寧は微笑み、滝の水滴が朝日で光る様子を指差す。
「見るがよい。水は形を変え、音を変え、常に動く。しかしその本質は変わらぬ。貴殿の箱もまた、守りであり、動きである」
章は段ボールの中で、心の中の何かが震えるのを感じた。
「箱の中にいても、動くことを忘れてはいけない……か」
安寧はゆっくりと滝に身を浸し、章もまたその水に身を委ねる。
段ボールの中と外、守るものと流れるもの、その境界線が、章の中で静かに揺れ動いていた。
滝行を終え、章は段ボール甲羅のまま水を切り、安寧と共に小さな護摩堂へ足を運ぶ。
安寧が静かに声を発し、章もそれに倣う。
安寧の声
「諸行無常、諸法無我、涅槃寂静……
欲に執らわれるもの、心に囚われる者よ、
流れる水のごとく、時は移ろい、形は変われど、真理は変わらず」
章も続いて口ずさむ。
「守ることと、流れること、
段ボールの内も外も、心の形もまた、空に過ぎず」
安寧が続ける。
「執着を捨てるとは、放棄ではない。
手放すことで、はじめて行動と自由が生まれる」
章の胸に、静かに言葉が染み渡る。
「箱の中で守られつつも、動くことを忘れぬ……
執着を手放し、ただ今に集中すること……」
二人の声が護摩堂の中に響き、滝の水音と交じり合う。
章は段ボールに守られながらも、自分の心の奥に流れる世界を感じた。
それは、動きと守り、自由と制約、孤独と繋がりの均衡のようなものだった。
そのまま2人は座禅をしながら語りあう。
座禅の静寂の中、段ボールの小屋のような箱に包まれた章は、背中を伸ばして呼吸を整える。安寧は隣で背筋を伸ばし、目を閉じたまま静かに問いかける。
「章よ、あなたは守られた箱の中で世界を動かす。だが、自由とは何か?」
章は段ボールの中で指を組み、低く答える。
「自由とは、守られながらも思考と行動を阻まれないこと。箱は制約だが、私を整理させる装置でもある」
安寧が微笑む。
「装置か。面白い。人は器具や形に縛られると、逆に内面が顕在化する。箱に入ることで、あなたの心は明確になるのだな」
ここで二人の間に、心理的共鳴が起きる。段ボールに守られた章の神経系は、外界の刺激を遮断され、感覚が内側に集中する。その集中状態が、安寧の静かな呼吸と微細な動作と同期する。視覚・聴覚・触覚の入力が減少したことで、二人の脳波はα波・シータ波に傾き、深い共感と哲学的直感が生まれる。
章は続ける。
「守ることで自由になる。制約の中に秩序を見出すのが私の生き方です」
安寧は頷く。
「制約と自由の相互作用……それはまさに、物理的な箱が生む心理的反応のようだ。あなたの箱は、外界の雑音を遮断し、思考の回路を活性化する触媒だ」
科学反応的に言えば、
• 感覚遮断による内省の促進(心理学的効果)
• 身体感覚と呼吸の同期による深部集中(神経科学的効果)
• 哲学的言語による認知フレームの変化(認知科学的効果)
これらが同時に起きることで、二人は一見相反する存在(段ボール人間と僧侶)でありながら、座禅空間では認知・思考・感情の共鳴を経験する。まさに、物理的に異なる存在が“哲学的化学反応”を起こす瞬間である。
座禅の静寂が続く中、章はさらに声を低くして語った。
「安寧さん、私は箱の中でしか世界を理解できない。外の世界は騒がしく、言葉は届かない。箱こそが私の自由です」
安寧は目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。
「章よ。箱の中の自由は確かに快適かもしれぬ。しかし、それは自己の殻に閉じこもった自由だ。真の自由は、制約の外で思考し、行動する勇気にある」
章は眉をひそめる。
「それは幻想です。外に出れば、他者の視線、社会の常識、予期せぬ出来事――すべてが私を縛ります。箱の中こそ、私が自分を保てる場所なのです」
安寧は静かに笑った。
「なるほど、だがその殻はあなたの思想を狭めるかもしれぬ。自由を守るために閉じこもるのか、それとも閉じこもることで自由を得るのか……その違いを考えよ」
二人の議論は熱を帯び、静かな座禅室の空気が微かに震える。哲学と生活論、自由と制約、外界と内面――対立する二つの価値観がぶつかるたび、章の心拍が速まる。彼の段ボールの中での身体感覚は、討論の緊張に呼応するかのように微かに揺れた。
章はついに拳を握り締め、低く呟いた。
「……わかりました、安寧さん。ですが私は、まだ外に出る勇気を持てません。私には箱が必要なのです」
安寧は深く頷き、静かに言った。
「ならば、その箱の中でこそ、己を磨き続けよ。しかし忘れるな、外には別の世界があることを」
章は立ち上がると、自作の段ボールの仮面を手に取り、背中に背負うカメ甲羅タイプの段ボールに滑り込む。滑車で床を押し、段ボールを転がして座禅室を出る。光が差し込む外界の廊下を、段ボール越しに感じながら、章は自分の世界へと戻っていった。
段ボールの中に守られ、都市の喧騒を避けながらも、心の中には安寧との討論の余韻が残る。外界には出られなくとも、箱の中で得た哲学的刺激は、確かに章の内面を変えつつあった。
都会の高層ビルの谷間に、段ボールで組まれた小屋が見える。そこが、光明院章の帰るべき場所だった。
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