第3話 段ボールと発泡スチロール

光明院章はその日の朝、目を覚ますと、ふとつぶやいた。

「……そうだ、温泉に行こう」


疲れを癒やすためでもあり、段ボール生活にちょっとした「非日常」を取り入れたかったのだ。もちろん段ボールに入ったまま、である。



移動用段ボールに潜り込み、滑車を漕いで駅へ向かう。改札を通るときは一瞬だけ段ボールから顔を出す必要があったが、すぐに段ボール仮面を装着。駅員は何も言わず、ただ苦笑いで見送った。


特急電車の座席に段ボールを収め、章は中で小さくガッツポーズをした。

「ふふ……車窓を眺める必要なんてない。俺には段ボールの壁がある」



温泉地に着くと、宿の玄関に移動用段ボールごと転がり込む。受付の人が目を丸くするが、章は中から声を張った。

「チェックインお願いします! 一人です!」


恐る恐るスタッフが手続きを済ませると、章は段ボールごと部屋に案内された。部屋に入ると、まず畳の上で段ボールから身を起こし、深呼吸する。

「ふぅ……やはり和室は落ち着く」


いよいよ温泉へ。

章は脱衣所で服を脱ぎ、しかし最後まで段ボール仮面だけは外さない。


そして背中に自作の「甲羅段ボール」を装着していた。

普通の段ボールでは湯に溶けてしまうから、表面には防水の樹脂を塗り、縁には透明のビニールを丁寧に貼り込んである。これで、どんなに湯気が立ち込めても段ボールはしっかりと形を保つ。


温泉宿の脱衣所で一瞬ためらったが、章は覚悟を決め、ゆっくりと湯船へ足を踏み入れた。

湯が膝を、腰を、胸を包んでいく。


「ふぅ……段ボールごと温まる……最高だ」


湯船に浮かぶ章の姿は、まるで甲羅を背負った巨大なカメのようだった。

他の客がちらりと視線を寄こすが、誰も声をかけない。声をかければ現実を直視することになってしまうからだ。


章は甲羅の内側で目を閉じる。外のざわめきは遠く、段ボールの壁に遮られて自分だけの小宇宙が広がる。

背中を温泉に浮かべながら、彼は呟いた。


「段ボールは、どこへ行っても僕を守ってくれる」


湯気の中で、その言葉だけが泡のように消えていった。


湯から上がると、畳の上で浴衣を着て、ビールと枝豆を堪能する。もちろん浴衣の上からも段ボール仮面は外さない。

「やっぱり旅はいいな……。そして、どこに行っても段ボールは俺を守ってくれる」


温泉宿の夕餉処。

木の格子に囲まれた広間には、浴衣姿の客が笑い声をあげている。

その中で、ひとつだけ異様な席があった。


段ボール。

厚手の加工を施した箱に身をすっぽり収め、仮面まで段ボール製。

光明院章は、外の視線を遮断しつつ、箸を器用に操って夕食を口に運んでいた。


「……やっぱり、温泉旅館の味噌汁は違うな」

段ボールの奥でつぶやく。

周囲の客は、ちらちら視線を送るものの、誰も声をかけない。

慣れっこなのだ。都会で段ボールに入って暮らす男がいると、噂は広まっている。


章がほっと一息ついたその時。

ぎゅっ、ぎゅっ、と妙な音が近づいてきた。

発泡スチロール同士が擦れあう、不快とも愛嬌ともつかない音。


「失礼します」


そう言って、目の前の席に座ったのは――真っ白な発泡スチロールの仮面をかぶった人物だった。

身体も箱もすべて発泡で覆われ、まるで冷蔵用のコンテナが人間の形をとったようだ。


章は箸を止めた。

「……あなたは?」


発泡の仮面が、きしむように動いた。

「私は発泡スチロール人間。断熱と軽量性を兼ね備えた者だ」


章は思わず、鼻で笑った。

「断熱?軽量? 雨に濡れたらどうするんだ。水を弾けない素材なんて、長生きできんぞ」


発泡は即座に反撃する。

「雨に濡れて崩れる紙よりはマシだろう。お前の家など、一晩でドロドロだ」


二人の間に、見えない火花が散った。

茶色の段ボールと、白い発泡スチロール。

温泉宿の食堂で、謎の素材論争が始まる。


発泡スチロール人間が、湯気の立つ鍋を見つめながら言った。

「なあ、段ボール。お前はなぜ、そこまで紙に執着する?」


章は仮面の奥で目を細める。

「紙は軽い。再生され、また巡る。――それは人の生にも似ている。崩れ、また形を変えて循環する。俺はその不完全さに安らぐのだ」


発泡は鼻で笑うように、甲高い音を立てた。

「再生?循環? 所詮は使い捨てだ。脆く、弱い。俺は違う。断熱性に優れ、長く形を保つ。保存する、守る、それが存在の証明だ」


章は盃を置き、言葉を投げる。

「だが、お前は壊れたときどうする?発泡は修復されず、ただ埋め立てられる。再び世界に戻れない。永遠にゴミとして残るだけだ」


発泡は一瞬黙り込み、それでも反撃する。

「それは“残る”ということだ。存在し続けることが価値だろう。お前の段ボールは燃やされ、灰になる。どこにも痕跡を残せない」


「痕跡を残すことが、生きる意味だと?」

章は低く問い返す。

「俺は違う。たとえ燃え尽きても、灰はまた土に戻る。目に見えなくとも、世界の循環の一部になる。それが生きる、ということだ」


発泡は盃を握りしめ、震える声で言った。

「俺は……消えたくない。形を保ちたい。この白い身を壊されたくない。だから発泡を選んだんだ」


章はしばらく黙ってから、小さく笑った。

「消えることを恐れるのは、人間そのものだな」



発泡はここで自己紹介をする

「俺は西園寺 充(さいおんじ みつる)だ。資産家であるが発泡に囲まれていないと落ち着かない」


章も資産家であるが

「資産があるのに、どうして俺たちはこんな格好をしてるんだろうな」


発泡の白い面を被った充が、箸を止める。

「金はな、人と交わるための“切符”だ。だが俺たちは、その切符を持っていても改札を通れない。……俺は、人前に素顔を出すと声が出なくなる」


章は小さく笑った。

「同じだな。俺も段ボールの中じゃ饒舌になれるのに、外じゃ息が詰まる。金を持っていても、人の社会では呼吸ができない」


充は湯気を仰ぎながら、ぽつりと呟く。

「段ボールと発泡。お前は循環を信じている。俺は保存を信じている。だが結局……俺たちが求めてるのは、“消費されない自分”じゃないのか?」


章は湯豆腐を口に運び、少し考えてから言った。

「そうかもしれん。世間は俺たちを使い捨てにしようとする。離婚して、会社からもはみ出して……けど、資産があれば一応は“消費されない”で済む。俺たちは箱に隠れることで、その感覚を守ってるのかもしれない」


充は深く頷く。

「資産も箱も……どちらも“見えない壁”なんだ。俺たちが人と向き合わずに済むための。けどな、章。俺は最近思うんだ。資産も、発泡も……結局は崩れる。そうなったとき、俺たちの声はどこに残るんだろうな」


章は酒を飲み干し、段ボールの角を軽く叩いた。

「残す必要なんてあるのか? 俺たちの声は、この箱の中で鳴っていれば十分だろう」


充はじっと章を見つめる。

「……いや、いつかは出なきゃならんのかもしれん。箱から出て、資産からも離れて。そうでなきゃ、“存在した”って証明にはならんのかもな」


二人はしばし黙り、ただ宿のざわめきと器の音を聞いていた。

外では観光客の笑い声。

だが二人は、自分たちの「世界の外側」をまだ信じられずにいた。

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