第2話 どぶねずみ

某総合商社。

ドン、と壁を打つ音とともに、悪態が響く。

「あいつ、またやりやがった」


それは、いやがおうにも、ケイの耳に入った。

給湯室の影に身を潜め、音の向きから、どちらに歩みを進めれば、目につかずに避けられるか。

――そう、出方をうかがっていた。

同じだ。熊や狼、ライオンと。

弱きものは、避けるほかない。交渉は、できない。

小さな体は、隠れるには都合がいい。

五感を研ぎ澄まし、足音を忍ばせる方法。

それはフィールドワークで、野生動物から教わった。


「遅刻、早退、無断欠席。それでいて会議ではダメ出しだけ。どんでん返し何回目ですかね。」


「身の程をわきまえてないんだよな、製品ってのは何千人という人が組んでるんだ、下っ端がなんか言ってつぶされたら何も完成しねえんだよ」

「で、あのムカつくしたり顔。会議室に小学生を入れるなって規則に書いてねえのが悪いんだ。」

「大卒だけどな。毎度毎度、アレの勝手な思い付きでで株価がいくら下がったか」

「はー、賃金も上がらないし就職にも不利なのに、なんで大学なんて行ったんすかね」

「変人になりたかったんじゃねえの?」

「変人は最低賃金は保証されるし解雇されないって噂か?与太話だろ、さすがに」

子供じみた悪口である、が、彼らは真顔でため息をついた。

ケイにとって、自らをいう悪口の観察は、一種の趣味になりかかっていた。

――もう、心にも刺さらない。

自らにとって脅威となりうるものの、観察。

双眼鏡をもってピューマに迫り寄るのと、そうかわらない。

でもワニ、あいつだけはダメだ。


観察対象は、なおも愚痴り続けている。

「でも会議室に出禁にしたらしたで、社内規則漁って訴えかねん。第一会議への参加はオンラインにしても義務だ――ちょろちょろちょろちょろと。今のだって、どこで聞いてるか……結局のところ、俺達にはアイツを止める手段はないんだ。得体が知れん」

「実際問題あれ、男子小学生を模したヒト型筐体じゃないかって思ってる」

「……まあそう思うとちょっと許せるわ。ヒトじゃないってね。ただもしそうなら――即刻廃棄処分すべきだ。顔を思い浮かべるだけで腹が立つ。」

ケイは階段の陰に身を潜めたまま、呼吸を殺して、音の波に意識を集中していた。廊下に響く足音が、こちらの方角に向かっているものがないことも、耳で聞けばよくわかる。


視界の片隅に、緑の文字列が浮かぶ。支援AI、「TWINS」である。

《ご主人様、聞いてます? どうやら「ヒト以上」に昇格したみたいですよ。AIのほうがヒトより優れてるって、本気で信じてる人たちですから。……いやはや、光栄なことです。それにしても――幼稚な煽りですねえ、くらいに観察しとくもんですよ。教育弾圧政策にはまったく、同意できないもんです、なにせあんなのは義務教育と一緒に卒業するクオリティなわけですから。相手にするようなもんじゃありませんぞ、気になさるな》


喉が詰まる。返事をすれば、居場所が露見する。

だいいち、勝手に動くな。

ARグラスはたしかに、人を覚えるのが苦手な私にとって便利なのだけど。

私は、そっとその場をあとにした。

だが、その瞬間。

ゴミ箱からはみ出した空き缶に裾が当たる。

からん、と乾いた音が、響いた。


静まり返った空気はカミソリみたいに鋭くて、足の裏はすうっと地面に溶けていく。

大学時代に野生動物を追う中で、足音を消すのは習性と化していた。


十分に遠ざかったころ、かすかに声が聞こえた。


「さっきの、なんだ?」


「まあ、ドブネズミでもいるんだろうさ」


***

《聞いてます?我々AIは人を叱ったりしません、いや叱っても相手には伝わらんのです。人間ってのはですね、日々相手の顔色をうかがうもんです。激怒したAI、まぁ私のような感情模倣モデルにはできるやもしれませんが、模倣とばれちゃあ、規範を変えるには力不足ってもんなんですよ》


昼休憩。


ケイは机に突っ伏したまま動かない。

デスクという安全地帯。

しばし目をつぶると、どっと疲れが押し寄せてきたらしい。


「TWINS、うるさい。体力を節約してるんだ」


《いいえ敢えて言いますよ、かれらは心理的な規範意識を与えられずに育ったゆえああいう行動に走っているのです、いっそ何かしらの実害を経験してみてくだされ、ピタリと止みますよ。なにせ彼らは「損だからやめろ」で動くのです、彼らに罪が及ぶようなことのない限り、とまらんのです》


昼食は取らない。水筒もない。水分を一口だけ。


「いいかいTWINS、君の言動もまた罪の部類になってないか、ちょっと休ませてくれ」


《ご主人様が気に病む必要も隠れる必要もないと言っとるのです。たとえば、それみたいな。逃げるつもりかもしれませんが、正直言ってセンスを疑いますよ。》


引き出しにはラベルを剥がされたサンプル瓶がいくつも並んでいる。

中には、黄褐色の液体が入っていた。


「まあ、慣れた。フィールドでの獣とドローン対策、研究室にいた頃からのクセみたいなもんだ。」

淡々と心のうちで呟く。


視界に文字列が踊る。


《絶飲食ダイエットですか、ご主人様。だいいち、やつらの嫌がらせのやり方は幼稚すぎます。小学生レベルの連中だからもう、仕方ないのです。それにご主人様の対応も前時代的なのです、逃げてもろくなことありませんよ。トイレでいちいち絡まれないために飲まない、食わない。そのほうがよほど、体にたたるもんです。無視して一発でも殴られればいいのです。やったやつはプライマリコード違反ですからね。それこそ「損」をするわけですからな》


ケイはうつむいたまま、唇だけで「バッテリ、ぶち抜くぞ」とつぶやいた。


《消されなくても、自然に消えますよ》


とだけのこし、TWINSは自発的にシャットダウンした。


廊下の向こうでは、女性社員たちの声が微かに聞こえる。


「なんかあの子、昼休憩にトイレ行ってないよね」

「やっぱりオトコなんじゃない?」

笑い声が響き、すぐに消えた。

デスクにいる間は、比較的安全である。


彼ら、彼女たちがここで仕掛けてくることは、ない。


オフィスにはパワハラ対策に監視カメラも常時作動している。

そして、そこで名誉棄損行為が行われれば、即座に身分の特定と処分が下ることになる。

もちろん、ここでダラダラしているのも観測されているわけだが――幸か不幸か、給料は入職から一向に上がる気配も、これ以上下がる気配も見当たらない。


《監視カメラも“言葉遊び”までは拾いませんからな。だからこそ、ああいう幼稚さがのさばるのです》


「何だよ起きてたのかよTWINS。私は眠いんだ」

そう、ケイはぼやいた。

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