雨粒のバレリーナ

片瀬智子

第1話


 夏の終わり、思いがけず降り出したスコールに戸惑い、私は近くの軒先へ避難した。雨が降るなんて今日の天気予報で言ってたかな。

 数台の自動販売機を置いてるスペースに、困った人たちが雨宿りに入って来る。激しく打ち付ける雨音を聞きながら、私は空が落ち着くのを待っていた。


「……もしかして小川おがわさん?」 


 隣にいた見知らぬサラリーマンが声を掛けてきた。

 背の高い、スーツ姿の男性に知り合いなんていない……。

 ただ控えめに笑う表情を見たとき、突然過去へ引き戻される。そうだ、中学生時代に一年だけ同じクラスだった男の子だ。

「ひさしぶりだね」

「ほんと」

「すごい雨だね」

「……急に降ってきちゃって」


 以前のクラスメイトだとわかっても、大人になった今ではほぼ他人。なのに、彼は懐かしそうに話し始めた。

「前にも……小川さんと同じようなことがあったの、覚えてる?」

 実のところ、私も今それを思い出していた。

「覚えてる。確か今日みたいに、にわか雨に降られて……」


 中学の頃、この道は通学路だった。制服の私たちは毎日ここを歩いていた。

 あの日も数人の学生がこの軒下へ逃げ込んで、雨が降りやむのを待っていたのだ。

「……そう言えば、きみに聞いてみたいことがあったんだ」

 仲が良かった訳ではないので意外だった。

「あの時、きみは幸せだったの? それとも悲しかった? ずっと答え合わせがしたいと思ってた」


 私は不思議顔で彼を見上げた。

「雨宿りしてた女の子たちはみんな、きみのこと無視してるみたいだった。なのに……うつむいてたけど、きみはひとり微笑んでたんだ」

 そうだったかな。

 私は回想する。

 中学時代、家庭が複雑で私の世界は暗かった。

 家での居場所なんかなかったし、それを誰にも相談できなくて嘘が増え友達も離れていった。私は正真正銘孤立していた。


「僕は……雨が止むまでの時間、心の中で願ってた。きみが幸せになれますようにって」

 はっきりとは言わなかったけど、当時の私に友達がいないことを彼は知っていた。そっと気にかけてくれてたんだ。

 優しい男の子。自分が知らなかっただけで、本当は孤独じゃなかったのかもしれない。自然に笑みが生まれる。


「あの時、私は悲しくなんてなかったよ」

 道路で弾ける雨粒にまた目を向ける。

 中学生の私も、今と同じようにずっと雨を見ていた。激しい雨粒の弾けるさまが、たくさんの小さなバレリーナが踊っているようで。

 雨粒のダンスをうっとりと眺めていたのだ。


「ありがとう、心配してくれて」

 彼は「いや何も」と謙遜する。揺れる左手、薬指のリングが光った。

 私たちは大人になっていた。

 大丈夫。

 時計の針は進み、少しずつ強さを手に入れていく。代わりに十代の感性や儚さを手放したとしても。


 いつの間にか雨雲に晴れ間が差し、小雨に変わり始めた。

「じゃあ、先に行くね」

 きっともう出会うことのない、いつかのクラスメイトに私は手を振った。

 


 

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雨粒のバレリーナ 片瀬智子 @merci-tiara

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