第10話 初恋
今まで幾度も空を見上げてきた。
大抵、それは悲しいときや辛いときだった。
空はそこに在るだけで慰めてくれる訳でもなく、励ましてくれる訳でもない。
それでもいつも澄んでいて、魔法で空が飛べたらどんなに気持ちいいだろうと想像せずにいられなかった。
どんなに想像したところで悲しさも辛さも変わらない。
それでも、心が軽くなれたような気がして、エインゼルはいつもそうして空を飛ぶ日を夢想していたのだった。
それが今……
「……」
風防ガラスからエインゼルが見下ろす風景は、自分が想像していたものとはまるきり違っていた。そこはまだ自分が今までいたセント・ラースロー帝国のはずだったが、知らないどこかの国のように見える。
川など水色で着色した寒天のようだ。茶色で長方形にたくさん区切られているのは畑なのだろう。大きさは揃っておらず、まちまちだった。
細く長く続く道の端には小さな箱状のものが見える。家だ。大きな箱も見える。あれは集合住宅か大きな商店だろうか。
道を行き交う人や馬車はかすかに見えたが蟻のように小さかった。蟻の中には空を行くルーベンスデルファー機に気がつく者もおり、止まってこちらを見上げているような蟻が何匹かいた。
しかし、そんな風景も後ろへぐいぐいと押しやられるように流れて過ぎてゆき、前からまた新たな風景が現れる。
それはいつまでも見飽きることのない、新鮮で楽しい感覚だった。
(そうか。空を飛ぶって、こんな光景を見れることなんだわ……)
自然と微笑みが顔に浮かんだ。
(あの方も空に憧れていた……)
ロゼリア姫。
いつか魔法か何かで空を飛びましょうと言えば微笑んでくれたが、それは病弱な自分にはかなわぬ夢とどこか諦めていた哀しい笑みだった。
(エインゼル、いつか私の代わりに空を飛んでね……)
(でも空を飛ぶだけじゃだめ。素敵な人と巡り合って本当の恋をして。わたし、いつか恋をしたかったの……ここではないどこかへ……空の向こうへさらっていって欲しかったの)
息を引き取る直前に彼女が自分に縋りついてささやいた言葉が心をよぎった。
(ロゼリア様……)
恋をすることも空を飛ぶことも叶わなかった主君を思い出して滲んだ涙をそっと拭いたとき、前方のルーベンスデルファーが「エインゼル」と呼びかけた。
「この先のどこか……身を隠せる場所を見つけて、いったん着陸する」
「え?」
「空路を確認したい。さっきはとりあえず離陸するしかなかったが、やみくもに飛ぶ訳にはいかない。フェリーリラ王国への最短ルートを貴女と確認しておく必要がある」
「わ、わかりましたわ」
感傷的になってしまった自分と違ってこの人は軍人なのだ、とエインゼルは前方の操縦席にいるルーベンスデルファーを改めて見やった。
何もない空の中で自分の位置をいつも把握していなければ簡単に迷子になってしまうだろう。冷静でなければ空の戦いにだって生き残れまい。
厳しい現実と向き合い、空の戦場を幾度もくぐり抜けてきたであろう男の生き様の一端をエインゼルは垣間見たように思えた。
しばらく飛び続けていると深い森の先に険しい山があり、その裏側はなだらかな斜面と草原が広がっている場所があった。
「ここにしよう。空から追手が来ても見つかりにくい。陸からの追手がいたとしても森に足を取られてすぐには追いつけないはずだ」
ルーベンスデルファーはそう言って速度を落としながら大きく戦闘機の翼を傾け、山の裏側へゆっくりと回り込んだ。
エインゼルからは見えなかったが、ルーベンスデルファーは着陸用のランディングギアを下ろし、更にエンジンの回転数を落とした。次第に高度が下がってゆく。
それまで空中にいて体重を感じないふわふわしていた感覚が、ドシンという着陸音で地に足がついているいつもの感覚に戻った。
ルーベンスデルファー機は二度軽くバウンドして草地の上に降り立った。
プロペラが停止するのを見てルーベンスデルファーはキャノピーを開け、地上に飛び降りた。
そして周囲に人がいないことを確かめると翼の上に乗り、エインゼルを抱きかかえて降ろしてくれた。
今まで異性に抱きしめられたことはおろか親しく話したこともなかったエインゼルはひたすら緊張して顔を赤くしたが、ルーベンスデルファーの方は意にも介していない。
「大丈夫か?」
「……は、はい」
芝生の上に下ろされたエインゼルは水筒を渡されて一口飲むと、そこでようやく人心地ついたように息を吐いた。
地上に降りてみると、魔法を使ってしまったことで自分が衰えてしまったことが実感できた。立ち上がるのにもふらつき、気怠い疲労感がずっと身体に残っている。どれくらい自分の生命を削ってしまったのだろう。
だけど、それと引き換えにこの翼と……そして希望は蘇ったのだ。
そう思うと後悔はなかった。
「初めて……空を飛びました」
「空を飛んだ感覚は気持ち悪くなかったか?」
エインゼルは黙って首を振り、ルーベンスデルファーは少し驚いた顔になった。
この異世界の空では気圧差による空酔いや飛行機の機動による加重圧をほとんど感じないと彼自身感じていたが、こんな少女ですらそうだとは思っていなかったのだ。
だが、これから過酷であろう空の旅を覚悟している彼にとって、それは有難いことだった。
何も知らないエインゼルが初飛行を語る。
「不思議な気持ちでした。不安とワクワクを一緒に感じた気がします」
「俺はもう数えきれないほど空を飛んできた。だが練習機に乗せられて初めて空を飛んだ時の興奮はよく覚えている。だから、その気持ちは俺にも分かる」
「……」
エインゼルが微笑むと、その時のことを思いだしたらしいルーベンスデルファーも少しだけ顔を綻ばせ応えてくれた。
だが、そんな感慨に浸っていつまでものんびりしてはいられない。彼はエインゼルの傍に早速地図を広げた。
「さっき飛び立ったセント・ラースロー帝国首都ペストブルダがここ、そして今いるのはおそらく北西のここらへんだ」
ルーベンスデルファーは地図の一角を指で示した。
「ここからずっと北にある貴女のフェリーリラ王国の首都まで目指すとして最短コースはこうなる」
ルーベンスデルファーは地図に置かれた指をそのまま上へとなぞる。セント・ラースロー帝国の領土を抜けた先には隣国ゾルアディウス公国の国境があり、その一角を掠め、地図の空白部分を突っ切った先にフェリーリラ王国首都ロロハンゲルがあった。
エインゼルは悲しそうに「無理ですわ。西へ大きく迂回して海沿いに行きましょう」と首を振った。
「何故だ? 二倍以上の飛行距離がかかるぞ」
「国境に大きな森と険しい山岳地帯があるのです」
「ドイツ空軍の誇る戦闘機メッサーシュミットBf-110は、険しい山などものともしない。高度8千メートルまで飛行出来る」
「飛行機の話ではないのです」
訝しんだ顔をするルーベンスデルファーへエインゼルは告げた。
「この世界の空は……龍が支配しているのです」
「龍?」
思わず聞き返したルーベンスデルファーへエインゼルはうなずく。
「見たことはありませんか? 確かに彼等は滅多に姿を現しませんが年に一度くらい、戯れに降りて来ることがあります」
ルーベンスデルファーは顎に手を当てた。
思い当たる節はあった。
落雷によってこの異世界に跳ばされてきた時、雲の中にいる自分の機の遥か彼方に何か巨大で大きなものがうごめているのを見たことがあったのだ。
「それ」はしばらくの間、自分を監視しているように見えたが、ふいに影も気配も消えてしまった。
もしかすると、それこそが彼女の云う「龍」だったのかもしれない。
「先ほどの高さで飛ぶくらいなら彼等は襲って来ません。空を騒がせない限り……だけど、空の高みにはいつもどこかに龍が遊弋しており、その空域を脅かすものには容赦しないと聞きます」
「貴女は何故、それを知っている?」
「セント・ラースローの空軍が創設されたとき、空を支配しようと戦闘機隊が何度も出撃して、壊滅したのです。命からがら還って来た人達がさっき申し上げた彼等の『掟』を次第に解き明かしていったのです」
「……そうか」
「それに」
エインゼルは国境を越えた先の地図の大きな空白を指差した。
「ここは龍の棲まう国。私たちは『龍の棲みか』と呼んでいます。低空であろうと地上であろうとここに立ち入って還って来た者はいません。だから地図も空白なのです。ここは彼等にとって侵すことを許さない聖域なのです」
「だから迂回するしかない、ということか……」
「はい」
「だが、それで間に合うのか? フェリーリラ王国はもう水の供給が断たれたことも知らされている頃だろう」
エインゼルは俯いた。急ぐあまり危険を冒して水宝玉を届けられなかったらフェリーリラはそのまま滅びるしかない。
だが、だからといって二倍以上も遠回りしたコースを辿って間に合うとは到底思えない。
「……」
黙って唇を震わせたエインゼルの瞳から涙が盛り上がり、それは頬を伝ってポロリ……ポロリ……と零れ落ちた。
ルーベンスデルファーはそれを黙って見つめた。
(ランスロット殿下、どうかロゼリア様の為にもフェリーリラへ今まで同じように水のお恵みをお願いいたします)
(水が絶たれてこれから苦しむ母国へなんとか水を……そんな気持ちだけで私はこれを盗んでしまいました)
本来なら外交も政治も分からない、剣など持ったこともない無力な少女なのだ。
それなのに、必死に苦難に立ち向かい、生命まで投げ出して……
(ほら、貴方の翼……希望の光……これならきっと飛べますよね)
思い出したとき、彼の心に何かが叫んだ。
お前はこの少女の願いに命を賭けて応えなければならない、と。
この少女の勇気に応える者にだけ、異世界の空を駆ける資格があるのだと。
「……」
ルーベンスデルファーは、心に炎のような熱いものが宿り、それが次第に滾ってゆくのを感じた。
「エインゼル、貴女が愛機『ジルヴァー・シュトライプ』に生命を与えたとき、俺が何と言ったか覚えているか?」
「?」
エインゼルは、ルーベンスデルファーの顔を見上げる。その顔は一見、穏やかだった。
「貴方が授けてくれたこの翼に掛けて誓う、必ず貴女と水宝玉をフェリーリラ王国へ送り届けると……俺はそう言った」
「はい」
「そこに、どんな障害や困難があろうともこの誓いは変わらない。一刻も早い救いの手を待っている貴女の国のために、必ず乗り越えてみせよう」
「ルーベンスデルファー……まさかこのまま北に……真っすぐに?」
「俺を信じてくれ」
エインゼルは思わず目を見開いて彼を見た。
おそらくは無数の戦いをくぐり抜けた歴戦パイロットが、己の誇りを懸けて同意を求めている。
その顔は彼女を真剣に見つめていた。
「はい……」
思わず頬を紅潮させて彼女がうなずくとルーベンスデルファーは初めて笑いかけた。自分の想いが通じてくれて嬉しい、というように。
(あっ!)
エインゼルの胸に痛みが走る。
それは彼女が生まれて初めて感じた、「快い心の痛み」だった。
(ちょ、ちょっと待って!)
「では行こう。急がなければ……」
狼狽するエインゼルの心の中など気がつくはずもなく、そう宣言したルーベンスデルファーは草地の上でうずくまったエインゼルを優しく抱きかかえて愛機へと歩き出した。
エインゼルの顔はこれ以上ないくらい真っ赤に染まった。
(でも空を飛ぶだけじゃだめ。素敵な人と巡り合って本当の恋をして。わたし、いつか恋をしたかったの……)
ロゼリアの言葉が唐突に心の中に蘇り、エインゼルは狼狽した。
(待って! ロゼリア様は確かにそう仰ったけど。でも今はそんなときじゃ……!)
(一刻も早くフェリーリラへ水宝玉を届けなきゃいけないのに、わたし……)
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