偽りの婚約破棄令嬢は、真実の恋を胸に空の彼方へと旅立つ
ニセ梶原康弘
第1話 告げられた婚約破棄
「ロゼリア・アスティラーファ! 偽りに満ちたそなたとの婚約を、余はここに破棄する!」
己の言葉が絶対であり正義であると言わんばかりの傲慢な声が広間に響く。
セント・ラースロー帝国の皇子ランスロットは顎を上げ、破棄した相手を「どうだ」と見た。
突然の宣告に、周囲にいた皇族の関係者や大臣達はどよめいた。顔を硬直させ、何事かと皇子を見つめる。
彼等にもこの婚約破棄は事前に知らされておらず、青天の霹靂だったらしい。
衆目を浴び、フフンと気障に前髪を掻きあげたランスロットに向かって、婚約破棄された令嬢が弱々しく声を上げる。
「そんな……突然何をおっしゃるのです」
震える両手を握りしめて気丈に聞き返したのは年の頃、一六くらいの嫋やかな美少女だった。つややかな黒髪が背中で頼りなげに揺れている。長い睫毛で覆われた貝紫の瞳が狼狽でしきりに瞬いていた。
「ほう……こう言われても思い当たることなど何もないとまだシラを切るつもりでいるか」
ビクッと少女の肩が跳ね上がり、真っ青な顔で下を向いた。思い当たることがあるのだ。きらびやかなシャンデリアの下で、居並ぶ重臣や貴族たちは困惑した顔を互いに見合わせる。
突然の婚約破棄宣言……とはいえ、皇子が乱心したと思う者はいなかった。
もともと、この皇子は軽薄な言動と我儘な素行で日頃から宮廷内でも持て余されていたのだ。
まだ在位中の父王がいるにもかかわらず「余」と自称し、国政にも好き勝手に口出しし、政務官や大臣たちを困らせている。父王はいずれ一国の王位を継ぐ身だからと思っているのか何も言わない。
しかし、まさかこんなことを突然言い出すとは……人々は困惑するばかりだった。
喝采どころか賛同する声もあがるはずがない。
「なんだ、皆、余の宣言に不服でもあるというのか!」
苛立って叫んだ皇子をさすがに見かねたのか、一人の侯爵が「ランスロット殿下」と進み出た。
「どのような事情にせよ、公然たる場でそのようなことを申されましては……こちらの姫君があまりに気の毒ではありませんか」
「ハッ、知ったことではないわ」
ランスロットは鼻で笑った。彼は、臣下などと言うものは自分の決めたことに異など唱えずただ従えば良いのだぐらいにしか思っていない。
「それに、婚約破棄するのには正当な理由がある。皆の者に申し聞かそう」
もったいぶった言い回しでランスロットは周囲を見回した。
「そもそもこの女はフェリーリラ王国から余の婚約者として参った令嬢、ロゼリアではない!」
「え……?」
「こ奴は顔形の似た影武者の侍女だ」
「なんと!」
人々はどよめいた。遠国の令嬢を偽った侍女は衆目を浴び、思わず下を向く。
「本物のロゼリアはもともと病弱、このセント・ラースローへの道中で亡くなっておったのだ」
「本当ですか!?」
「ああ。それを隠し、こ奴は己をロゼリアと偽っておったのだ! おおかたそのまま成りすまして寵愛を得ようなどと企んでおったのだろう。残念だったな。それに余は真実の愛を既に見つけておるわ!」
芝居がかった所作でランスロットが手を上げると、群衆を掻き分けて一人の淑女が静々と進み出た。
「皆の者、紹介しよう。余の新たな婚約者、アリストゥスだ」
現れたのは、胸元の大きく空いたドレスの令嬢だった。煉瓦色の髪、黄ばみを帯びた蜜色の肌。そして色香の漂う妖艶な顔立ちをしている。明らかにこの美貌で皇子を虜にしたのが丸わかりだった。
「セント・ラースロー帝国の皆さま、お初にお目に掛かります。ランスロット殿下に見初められ、この宮廷の末席に加わることを許されました、アリストゥス・フリーデンタールと申します……」
微笑みだけで大抵の男が落ちてしまいそうな程の色気だった。
だが、ルビーのように真っ赤なその瞳の中に悪魔を一匹飼っている。
「隣国ゾルアディウス公国から余を恋い慕ってこの帝国へ参じた彼女こそ、正当な妃にふさわしい。少なくとも、亡霊を偽ったそこの女よりはな」
指をさされた偽令嬢は恥じ入る様に俯いている。
しかし、その佇まいには気品があった。並み居る諸侯が偽者と気づかぬほど、公共の場に姿を現していた彼女はいつも物静かで礼儀正しかった。
人々は二人を見比べ、ようやく気付いた。
ランスロットは艶麗なアリストゥスに心変わりし、この婚約者が邪魔になったのだ。
おそらく皇子は婚約者を乗り換える為の口実を密かに探らせたのだろう。
そして、彼女の偽りを知ってこれ幸いとばかりに衆目の中で婚約破棄を叩きつけたのだ。
「申し開きようもございません。お許しください……」
フェリーリラの令嬢を偽った少女はドレスの中で膝を曲げ姿勢を低めると、蚊の鳴くような声で自分の正体を明かした。
「私の本当の名はエインゼル。ロゼリア様が亡くなる前に承った遺言を受け、偽りの身で殿下にずっとお仕えしておりました」
「下賤の身で余に仕えておったなどとは不敬極まる。さっさと失せろ!」
「はい……仰せのままに。ですがその前にひとつだけお願いがございます」
怒声を浴びて退場するだけの偽令嬢は、思うことがあって必死に声を絞り出した。
「お願いだと?」
眉をしかめたランスロットの前でエインゼルは膝まづいた。土下座せんばかりの恰好で。
「ロゼリア様はフェリーリラ王国の為にと、病弱な身を押して殿下にお仕えするおつもりでした。本当に心からお仕えしようとされていたのです……」
亡くなった主人を思い出したのだろう、その声は途中から涙混じりになった。
「嘘をつけ。会ったこともない余との結婚など、最初から嫌がっていたに違いあるまいが!」
「本当です! ロゼリア様は殿下と寄り添ううちにきっと愛を育くむことが出来るだろう、私頑張るからと……そのように申しておられました」
エインゼルは必死に弁明した。
「水の枯れたフェリーリラ王国は、セント・ラースロー帝国との交易で供給される水なしでは生きてゆけません。政略結婚であることは殿下のご承知のはず。病弱でも美貌と言われたこの身で殿下に愛していただけるなら喜んで、とロゼリア様は仰って……」
「黙れ! 死んだ者の戯言を今さらどうやって証明出来る。嘘で塗り固めた綺麗ごとなら幾らでも並べられるわ!」
「ランスロット殿下、お願いです信じて下さい! ロゼリア様はご自身が亡くなることで殿下の御不興を買うのをひどく懼れていらっしゃいました。自分のせいで母国フェリーリラが水をいただけなくなることになったらと。私はもうロゼリア様がいたわしくて見ていられなくて。だから私が代わりになりますと申し上げて……」
そこまで言ったエインゼルは恥も外聞もなく床に額を擦りつけ、涙ながらに懇願した。
「お願いです殿下。私などどのように処されてもお恨みいたしません。ですが、どうかロゼリア様の為にもフェリーリラへ今まで同じように水のお恵みをお願いいたします……」
「は? 何をふざけたことを。ここまで余を愚弄しておいて」
ランスロットはせせら笑い、傍らのアリストゥスも蔑みの笑みを浮かべた。皇子の嘲笑に二、三の従者が同じように笑う。他の人々は目を逸らし、黙り込んでいた。
「お願いです。亡きロゼリア様のお気持ちをどうかお汲み下さい……この通りです……」
「断る。余が見出した真実の愛に比べ、下賤の身でなんと図々しい願いごとか」
「お願いです……お願いです……」
「くどい!」
足元に這いつくばり、泣きながらなおも必死に取り縋る偽令嬢にランスロットはカッとなった。怒りに任せて彼女を蹴ろうとする。そのとき。
鋭い銃声がして、ランスロットの足元が爆ぜた。
皇子は凍ったように硬直する。
「だ、誰だ! 誰が余を撃った!」
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