出版業界の評論家 第4章 読者の無関心
「文化の保存に執着しても、読者は結果だけを見て評価する。」
――杉村洋介(出版評論家)
その言葉は鐘の音のように章の冒頭を揺らし、記録の調子を決定づける。ここで描かれるのは感情の衰退ではない。市場が選んだ冷徹な基準と、それに抗うことのできなかった文化側の脆弱さである。
深夜、画面の光を頼りに読書を続ける誰かの指先が、滑らかにスクロールを繰り返す。星の数が増減し、短い通知音が小さく響くたびに、別の読者の手に新しい作品が渡る。アルゴリズムは滞在時間や感情の揺らぎを即座に測定し、次の候補を差し出す。作者名は意識の端に追いやられ、評価を決めるのは即効性のある快楽だけだった。
街の書店を歩けば、紙と接着剤の甘い匂いがかすかに漂う。しかし棚には見慣れぬ装丁の書籍が並び、帯に印字された短いコピーが選択を左右する。かつて表現の厚みを求めてページを繰った読者は減り、決断は一瞬で下される。指先はためらわずに本を戻し、売り場の空気は速く入れ替わっていった。
オンラインの拡散はさらに苛烈だった。タイムラインに流れるのは断片的な言葉だ。「最高」「続きが気になる」「作者誰?」。国籍も経歴も関係なく、刺激そのものが市場を支配した。ひとつの作品が夜のうちに燃え上がり、翌朝には別の作品に取って代わられる。読者の胸の高鳴りは、過去の厚みよりも新しい刺激を欲した。
その過程で、日本語の文体が持っていた湿度や揺らぎは薄れていく。行間に沈む季節感や、会話の間に忍ぶ呼吸は削ぎ落とされ、効率的な展開が主流になった。擬音は統計的に再生され、感情の高まりは予定調和のように配置される。長い時間をかけて熟した語感は、即時の消費に席を譲った。
作家は自室でそれを眺めていた。机の上の原稿用紙には書き直しの跡が残り、指にはインクの匂いがつく。若い作家が古い比喩を込めた一節を友人に送れば、「眠くなる」という短い返答が返ってきた。その一行が創意を削り、彼に悟らせた――読者は「効率的な面白さ」を望んでいる、と。
編集会議の場でも数値が支配する。ページビュー、購入率、読了率。グラフが赤く伸びる作品を称える声に押され、物語技法や情緒の厚みを擁護する発言はか細くなる。引用された古典の一節も、若い層の好みを示すデータの前では効力を失った。コーヒーの苦みだけが、議論の余韻として舌に残る。
レビューは審判となった。「面白ければ誰でもいい」。その短い文が繰り返されるたび、文化保存の理念は霞んだ。古参の読者が嘆きを寄せても、それは懐古趣味として処理される。新しい世代は迷わず即時の刺激を選んだ。生き残る道は、文体を変えるか、市場を去るか。選択は残酷なほど単純だった。
だが言葉を変えるのは容易ではない。長年の表現は皮膚のように体に馴染み、剥がそうとすれば裂ける。ある作家は過去作を思わせる語り口で新作を発表したが、「懐かしいけど今は違う」と切り捨てられた。編集者もまた問う――保存とは誰のためか。守ろうとする対象はどこにあるのか。答えのない問いは机上で回り続けた。
杉村は観測を重ねる。
「保存は目的ではなく手段である。読者と対話し、変化の中で価値を示さねば、保存は独りよがりの祈りに過ぎない。」
章の末に残るのは、紙に染みた匂いと、スクリーンを埋め尽くす新作の速度の対比だ。無関心は罰ではない。ただの事実だ。読者が評価するのは、積み上げた理念ではなく、いま目の前にある結果だった。
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