第二話 見知らぬ天井

 鼻をくすぐるのは、畳の青い匂いと、かすかな油の香り。

 目を開けると、木のはりがむき出しの天井。枕元の小さな行灯がゆらゆら揺れている。見覚えのない景色に、胸がざわついた。


「……ここ、病院……?」


 自分でもおかしな言葉をつぶやいた。

 そのとき、静かでやわらかな声が返る。


「ここは宿ですよ。あなたは外で倒れていたのです」


 赤い着流しに長い黒髪、丸眼鏡をかけた女性が、障子しょうじの影に座っていた。

 湯呑をこちらに差し出す仕草は落ち着いていて、冷たさはなく、不思議な安心感を伴っていた。


 差し出された湯を口に含むと、白湯の温かさが喉に落ちて、ようやく心臓の鼓動が少し緩んだ。


「……ありがとうございます」


「飲める元気があるようで、安心しました」


 彼女はそれ以上急かさない。ただ、次の言葉を待つように静かにそこにいた。沈黙に背中を押されるように、私は名を告げる。


「……大原おおはら伽耶かやです」


「伽耶さん。よいお名前ですね。私はろくと申します」


 六——数字のようで、人の名のようでもある。不思議な響きが、やけに心に残った。


 その時、腹の虫が鳴った。慌てて布団に潜り込む私に、六は何も言わず立ち上がり、盆を持って戻ってきた。

 湯気の立つ粥の匂いに、胃が自然に反応する。さじを口に運べば、驚くほど優しい味が広がった。


「……おいしい」


「それはよかった。無理せず、少しずつ召し上がってください」


 粥なんて何度も食べたことがあるのに、こんなに美味しく感じたのは初めてだった。六は静かにこちらを見ていた。その眼差しは冷たくはないけれど、底知れぬ深さを含んでいるように思えた。


 六の視線が、布団の脇に置かれた黒い袋に向けられる。


「……その袋、不思議な造りですね。麻でも絹でもない、見たことのない布です」


 私は一瞬ためらったが、やがて口を開いた。


「これは……弓道の道具が入っています」


「弓……やはり」

 六は小さく頷き、袋の傍らに置かれた矢筒に目を移す。

樟脳しょうのうの香りがしますね。丁寧に扱われてきたことが伝わってきます」


「あ……はい。大事にしていましたから」


 胸の奥が熱くなる。弓道がまだ自分の一部であることを、この見知らぬ人に肯定された気がした。


 けれど、次の瞬間、屋上での記憶が蘇り、言葉が喉に詰まる。

「……私、屋上で……柵を越えて……音を消したくて、一歩……」


 声が途切れると、六は責めることなく、ただ首を振った。


「今は語らなくて大丈夫です。ただ一つだけ——今夜はひとりで外に出ないと約束してくださいますか?」


「え? あ……はい」


「ありがとう。それで十分です」


 六は行灯の火を低くし、布袋を差し出した。中には乾いた葉が入っている。鼻に近づけると、苦みと甘さが混ざった香りが広がり、胸のざわつきが少し和らいだ。


「香です。枕元に置けば、よく眠れるでしょう」


 私は頷き、布団に身を沈めた。虫の声、行灯あんどんの芯がはぜる音——すべてがやけに鮮やかに響く。スマホは圏外。けれど、もうどうでもよかった。


「六さん……私、何がどうなってるのか……」


「大丈夫。今は気にせず、ゆっくり休んでください」


 車の音も、電車の音も聞こえない静かな夜。私は眠りへ落ちた。



 ⸻⸻⸻



 朝、鳥の声で目を覚ます。障子の向こうに冷たい朝の光。六は変わらず座していた。

 戸口を開け、一歩外に出る。冷たい空気が肺の奥まで流れ込み、思わず足が止まった。


 目の前に広がった光景に、私は言葉を失った——

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