BAD GIRLz – 常世譚 –

松園 宗

第一話 矢の行方

 イヤホンを耳にねじ込んだ。

 ボリュームを上げれば上げるほど、胸の奥でざわめく鼓動を押し込められる気がした。


 風が制服の裾をはためかせる。

 屋上の鉄柵を越えて、私は小さく息を整える。


 ——心臓がうるさい。

 聞きたいのは音楽じゃない。ただ、全部の音を塞いでしまいたかった。


 一歩、前へ踏み出せば、すべてが終わる。

 そう思うと、少しだけ楽になれる気がした。


 けれど、それでも胸の奥には残っていた。

 弓道が好きだ、という気持ち。

 その想いさえなければ、私はもっと軽くなれるのに。


 ⸻⸻⸻


 私は弓道が大好きだった。

 矢をつがえ、弦を引き、的を射抜く。

 その一連の所作は舞のように美しく、自分が流れの一部になれるのが嬉しかった。


 指の皮が破れて血が滲んでも、夜は鏡の前で所作を繰り返した。

 的にあたるかどうかより、姿勢が正しいかどうかが大事だった。

 努力が形になるのが嬉しくて、それだけでよかった。


 中学からひたすら練習を続けた。上手くなりたかっただけ。

 けれど気づけば、全国大会の常連校に進み、上級生の記録を超えてしまっていた。


 最初は先輩も同級生も「すごい!」「頼もしいね!」と笑ってくれていた。

 でも、その笑顔は次第に冷たくなっていった。


 団体戦。

 私が弓を引くたびに、隣から小さな舌打ちが聞こえる。

 唇を動かさないのは、審査員に気づかれないためだろう。


「はぁ……」

 ため息。背中に突き刺さるように重い。


 矢筋が揺れる。放った矢は白布に外れて突き刺さる。


「ほらまた外した」

「団体戦だと全然当てないんだよね」

「個人戦だけで目立ちたいんじゃない?」


 違う。わざとじゃない。……ただ、怖かった。

 私だけが的を射抜けば、余計に差が広がる。

 そうなったら、もっといじめられる。

 だから、手が震えてしまう。その震えが的を外す。


 その震えは、団体戦のたびにひどくなっていった。


 ⸻⸻⸻


「裏で顧問に媚びてるんだって」

「先生に気に入られてるから全国出られるんでしょ」


 根も葉もない噂はすぐに広がった。

 スマホを開けば、いつの間にかグループチャットから外されている。

 部室の矢筒やづつには落書き。靴箱には紙くずを詰められていたこともある。

「集合時間だけわざと伝えられない」こともあった。


 部活内のいじめはすぐにクラスにも広がった。


 笑って話しかけても、返事は返ってこない。

 椅子を引けば、わざと音を立てて距離を取られる。


 居場所なんて、どこにもなかった。


 でも、家では笑顔を作った。

「行ってきます!」と明るく声を出す。

 弟が「姉ちゃん、今日も練習?」と聞けば、「うん、頑張るよ」と返す。

 母は「今日はあなたの好きな唐揚げも入れておいたよ」と弁当を渡してくれる。

 両親は私を誇りに思っていた。


 ——だから言えなかった。

 いじめられていることも、大好きな弓道部から逃げたいことも。


 玄関のドアが閉まった瞬間、私は深く息を吐いた。

 これからまた、あの視線と声に耐えなくちゃいけない。


 ⸻⸻⸻


 高校3年生の春。

「大原、次の主将はお前に任せたい」


 顧問のその言葉は、私にとって死刑宣告だった。


 先生は、きっと私を信じてくれていた。

 その善意はわかる。だけど、それが重すぎた。


 これ以上いじめられるのは耐えられない。

 でも断れば、両親に何て言えばいい?


 胸が潰れそうで、息ができなかった。

 その日の部活を終えた私は、退部届を顧問に差し出した。

 俯いたまま、震える声で「お世話になりました」とだけ言った。顧問の反応を見ることもせず、振り返って職員室を出る。


 気づけば、足が勝手に屋上へ向かっていた。


 鉄柵をよじ登る。風が強くて、視界が滲む。

 イヤホンから流れる音楽だけが、私を支えていた。


 ——消えたい。

 ——いなくなりたい。

 ——でも、怖い。


 そんな矛盾を抱えたまま、弓道具も通学用バッグも抱えたまま、一歩を前に出した。


 ……その瞬間。


 音楽も、風の音も消えた。

 足元の感覚がふっとなくなる。

 体の重さも、息をする感覚も遠のいていく。


 視界が真っ白に弾けた。

 私は、そのまま何も感じなくなった。

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