結・学道は続く

 一日の講義が終わると、私と城野は正門のほうへと向かう。


「いやぁ〜、今日もよく勉強したわ! 早く帰ってメシ食いてぇ〜!」

「新婚はいいですね。私は今晩の夕食を考えるのも億劫でして」

「メシくらいちゃんと食えよ。つっても、俺もかみさんにメシは任せてるから人のこと言えねぇか!」


 そんな談笑をしていると、前を歩いていた女性がいきなり視界から消えた。倒れたのだ。


「お、おい!」

「大丈夫ですか!?」


 倒れた女性は寺山教授だった。私は駆け寄ると、すぐさま寺山教授を抱き起こした。


「城野さん、保健室ってどこですか?」

「ちょっと待て、今調べる! すぐ連れて行くぞ!」

「……いえ、大丈夫です。少しめまいがしただけですから」

「めまいって、多分過労ですよ……」


 私がつぶやくと、寺山教授は身を離して起き上がる。だけども心配だ。大丈夫と言っているけども、私には自分でその言葉を自分に言い聞かせているように見えるのだ。

 私のつぶやきが聞こえていたらしく、城野はため息をついた。


「まぁそうだろうな。寺山センセイ、ちょっと時間あるか? あんたの状況、よく考えたら結構とんでもないぞ」

「そうでしょうか……?」

「ここのキャンパスは広いですけども、大学ってある意味外界と隔離されていますからね」

「……まぁ、言われてみれば」


 寺山教授は納得したような表情を浮かべる。もしかしたら彼女は、案外自分のことに無頓着なのだろうか。


「羽岡さん、ちょっとあんたセンセイの話聞いてやって。俺、茶か何か買ってくるから」

「は、はい」


 城野はそう言い残すと、自販機の方へと走り出した。思いがけずに二人きりになってしまったが……ここは浮かれる場面でもない。まずは話を聞いたほうがいい。教職員のメンタル管理について、大学側はどう思っているのだろうかとか、色々思うところはあるのだ。講義を受ける側も、教職員のメンタルがしっかりしていないと、きちんとした勉強ができないからだ。


「寺山教授、差し支えのない範囲でいいのですが……今の仕事量ってどのくらいですか? 私たちには一日三講義、スクーリング期間中毎日ですけども、多分その講義の準備の他に研究なんかもありますよね?」

「ええ、まぁ。私は教授と言うか、『特任教授』なので……教育学部を入れて、四つの学部を兼任しているんですよ」

「仕事のしすぎですね、それは。食事は?」

「講義の準備などで、疎かにしていました」

「よくないですね……」


 教職不足という話はよくニュースになっていたので知ってはいるが、ここまで深刻だとは。口数少なくふたりでぼーっと花壇の脇に腰を下ろし、行き交う人々を眺める。ーー無言だ。城野はというと、まだ帰ってこない。ふたりでいても、特段話すことはない。寺山教授について敬服の念はあれど、いざ話す機会があるとしても言葉がでてこない。しかも彼女は無茶をしている状況だ。


 教授に無茶をさせないようにするにはどうすればいいのだろう。人手不足であるという状況は変えられえないし、彼女は『特任教授』という特別な立場らしい。


 ……と、そこまで難しく考えたのち、思考を停止させた。難しく考えるから、いけないのだ。ここはゆっくりぼーっとする時間が彼女にとって大切なのではないだろうか。


「何か話したいことがあったら言ってください。聞きますから」

「ありがとうございます」


 そう伝えると、お互い無言になる。沈黙の時間、人々の流れを見守る。足音だけが聞こえる。たまに風が吹く。山から来る心地の良い風だ。たまに視線を山のほうへとやると、緑が見える。


 誰かと一緒にいると、落ち着くのだろうか。人々がいるとはいえ、心は静かだった。


 どのくらいの時間そうしていたのか、自分でもよくわからない。私と寺山教授はただ黙って人々の往来を眺めていた。そうしているうちに、城野が戻ってきた。


「センセイ、落ち着きました? 一応茶、買ってきました」

「ありがとうございます。ですが学生にもらうわけには……」

「学生に意見を募るときもある。それがあなたの考える教職なのでは?」


 私がそう言うと、寺山教授は素直にペットボトルのお茶を受け取った。


 お茶に口を付けた後、寺山教授は明るく言った。


「ご心配をおかけしました。もう大丈夫ですよ。少し元気をもらいました」

「見ている分では大丈夫そうには見えませんけども……労働法を教えているくらいなら、労災申請をするべきなのでは?」

「自分のことにまで気が回っていませんでした」

「ダメじゃん!」


 城野が苦笑いを浮かべると、寺山教授もつられて笑う。その表情を見たとき、私は自分でも無意識に、寺山教授の髪に触れていた。


「何を?」

「あ、ああっ、すみません! 何故でしょうか。反射的なもので……」


 慌てて手を引っ込めるが、これじゃあまるで痴漢だ。女性の髪に突然触れるなんて。しかも無意識なので余計によくない。寺山教授は立ち上がると、私と城野に礼を言う。


「助けてくださってありがとうございました。明日は単位認定試験なので、頑張ってくださいね」

「単位……」

「認定試験……?」


 いけない。私と城野はすっかり単位認定試験のことを忘れていた。毎日スクーリングを受けていたというのに、この様である。

 

 うっかり忘れていた単位認定試験。寺山教授は何事もなかったかのようにかっこよく颯爽とその場を離れる。彼女は本当に強いのだろう。ただ、無理をしすぎなところは心配ではあるのだが……。と、人道的な事件だったとは言え、人のことを心配している場合でもないことに気付かされた私たちも、急いで帰って勉強することにした。


 テスト勉強なんてするのは何十年ぶりだろうか。小・中・高の試験と違うところは、暗記とは違うのだろうということくらいしかわからない。入試は論文だったし、試験も論文だ。どんな問題が出るのか、正直さっぱりわからないので勉強のしようもない。とりあえず、講義を受けたところのテキストーーテキストと言っても教科書ではなく、文献なのだがーーに目を通すくらいしかできない。


 明日の試験は三講座分だ。結構きついし、何よりも試験に向けた勉強をしていなかったことが問題だ。だけどもよく考えたら、寺山教授は講義だけではなく試験問題も作成し、その答案にも目を通すのか……。大変この上ないな。本当に頭が下がる。これは迂闊に単位を落とせないぞ。勉強にも気合が入る。

 そんな感じで夜食のカップ麺を食べながら試験勉強するのだった。


 そして迎えた単位認定試験当日。今日は大学校門前で城野と待ち合わせる。


「おっはよ〜、羽岡さん。どうよ、調子は」

「体調はいいのですが、どんな問題が出るのかが予想つかずで」

「そりゃ誰もがそうだろうな。ま、俺らは最善を尽くすのみよ! 単位落としたら嫁さんに叱られるからな、俺は」

「ははは」


 そんな談笑をしつつ、いつもの階段教室へと入る。今日の座席はしていされているので、学籍番号の示されている席へと座ると、最後の一押しと言った感じで本に目を通す。


 一応重要箇所を再確認するが、どのような問題が出るのか皆目検討がつかないところが難しい。


 そうこうしているうちに、寺山先生が入室した。試験官もするのか……。本当に大学というのは人手不足なのだな。


「机の上は筆記用具と時計、学生証だけ置いてください」


 そう言われて本をしまうと、試験前の緊張感に覆われる。寺山教授が紙を一枚配る。どうやら試験問題と答案が一枚になっているものらしく、余計に試験問題の想像がつかなくなる。パニックになりそうな寸前、チャイムがなった。


「試験を開始してください」


 紙を表にすると、問題に目を通す。まずは創作文学基礎。問題はーー「あなたの思う理想の自分とは何か」。


 いや、ちょっと待て。これは創作文学というか、哲学なのでは……? ぽかんとしている場合ではない。制限時間はあるのだから、さっさと考えなくてはいけない。しかも問題文が短い分、記述するスペースは広い。どうしたものだろう。私の思う理想の自分とやらを、紙面にぽつぽつと書き記していく。理想の自分……果てしなく難しい難問だ。五十代にもなって、小学生の作文のようなこの問題、寺山教授はなぜ出題したのだろう。そんな気持ちを乗せながら。


 一限目の試験は疲れたが、チャイムが鳴ったときにはなんとか書き上げることができた。そうは言いつつも、大学の試験というのはこういうものなのか。暗記ではなく、即興性が必要だというのは、かなり難易度が高い。しかも今まで自分が得た知識の発表だ。


 同じ調子で二限目、三限目と試験を受け、終了時間にはすっかりくたくたになっていた。


 試験終了後、城野と教室の外の広場で待ち合わせると、反省会だ。


「どうでした?」

「どうもこうも……採点するほうも大変そうだなとは思った」

「それは同意見ですね」


 寺山教授より年上だからこういった意見を持つのだろうか。自分の単位認定も心配だが、寺山教授の過重労働も深刻である。


「ま、お疲れ様会を兼ねて、食堂にでも寄っていきましょうよ」

「いいですね。……ん?」


 キャンパス内を歩いていると、ふと掲示板に目が行った。


『助教職募集』


「城野さん、助教って大学教授の手伝いとか、補佐をする仕事……ですよね?」

「ん? ああ、そうだな。へぇ、うちの大学、助教募集してるんだ。やっぱ人手足りないんだな。寺山センセイこき使いやがって」

「……助教……か」

「どしたの、羽岡さん。確か助教職は、大学卒業は必須条件だぞ」


 考えていたことを悟られたようで、私は肩をすくめた。やはり城野とはいい学友なのかもしれない。


 夢というもの。私はしばらくの間、そのようなものとは無縁だったのだろう。だけども今、明確な『目標』ができた気がする。大学に入学したとき、私は少し甘い気持ちであった。大学というところへ行ってみたい。独り身が寂しいので、学友がいればーーそんなふわふわした生半可な気持ちであった。


 だけど今は少し違う。寺山教授のような、尊敬に値すべき人間の手伝いをしたい。この気持ちは邪まなものだろうか? 邪な気持ちだけではないだろう。どちらかというと、純粋な……。


 恋だの愛だのというのはわからない。だけどもただ、手助けがしたい。もしかしたらこれも『人助け』。


 そう思ったところで、私は自分の下の名前を再確認した。


 私の名前は『羽岡太助』。これも何かの運命なのだろう。


 スクーリング期間はつつがなく終了し、試験もクリア。単位もなんとか取れてはいた。しかしながら、大学卒業までの道のりは険しかった。最低でも四年間、独学で勉強を続けていかなくてはならなかったし、毎年暑い中だけだとはいえ何時間もかけて通学もしなくてはならない。だけども、寺山教授はもちろん、城野とも知り合えたことは、人生の大きな財産だと私は思う。


 一年目の試験終了日、私は城野と連絡先を交換して別れた。それ以来、たまに都内で会ったり、スクーリングや公開講座などにもともに出席したりしていた。城野もありがたい存在だ。随分気楽に知り合ったとは言え、友人関係をこんなに長く続けてくれているなんて。


 寺山教授は、相変わらず大変そうだった。だが、彼女はさすがだと言うしかない。なんと倒れた本人である寺山教授自身が労働法の論文を書き、『大学の自治』の名目で労働環境を改善したのだ。


 城野も女性だの何だのとか最初は言っていたけども、世の中には強い女性はいるのだろう。ただ、強いがゆえに人に頼れないことも多い。特に男性社会だったら余計にそうだ。


 私はそんな彼女の論文を、二年生のとき論文検索エンジンで目にした。内容は「学生に意見を聞くことの重要性と傾聴、教師のメンタル不調について」であった。講義でやっていたことが文章に明文化されていて、私は人のことながら嬉しかった。やはり、少しは人に頼ったり仕事を分担することを知ったほうが強くなれるのである。


 そして今日、私は大学を卒業する。我ながら四年間でよく卒業単位を取得できたなと思う。これも真面目に勉強したからなのだろうが、結局は寺山教授がいてくれたからこそだろう。


 恋愛については結局何もわからないままだ。私はただ、教授の講座を受けられて、彼女の元気そうな姿を見られるだけで十分だったから。問題と言うならば、彼女の「働かされすぎな面」ではあったのだが……それも改善できたようで何よりだ。



「羽岡さん、ちっす」

「どうも」


 今日は卒業式。私も城野もスーツだ。城野の見慣れない姿に、私は少しだけ噴き出しそうになる。彼はもともと会社員ではなかったからだ。そんなことを言ったら失礼ではあるのだが。そういう私も同じである。


 卒業式会場である場所にはたくさんの学生が集まっている。その場所に寺山教授の姿もあった。


「おい、寺山教授だぞ! 言う事あるだろ」

「いや……特には」

「あんたの意見はどうでもいい。寺山教授!」

「あっ、城野さん!」


 城野は私を連れて寺山教授の前に出る。私はどことなく恥ずかしく、緊張した。


「ほら、羽岡さん!」

「あ、あの……」


 これはあれだろうか。よく学生が卒業のときにやる、告白というもののお膳立て……。私が困っていると、いつも無表情だった寺山教授が笑顔で言った。


「四月からよろしくお願いします。羽岡助教」

「まだまだ未熟ではありますが、どうぞよろしくお願いします」

「その笑顔はずっるいわ〜……。マジ頑張れよ、ふたりとも!」

「今日の主役は卒業生ですが?」

「かぁっ〜、そういうところだよ。寺山センセイ」


 城野はもちろん、寺山教授も相変わらずだ。結局この感情が恋愛感情なのかの判断は、大学が勤め先にもなると余計に難しいことになるだろう。しかし、男女ともに働いている職場だったら、余計な外野の茶化しなどお呼びでないのだ。


 そうは言いつつも、独身である私はどうすればよいのか……。これは今後の課題ではある。ともかく、私の春は卒業と同時に始まったばかり。この先どうなるかなんてことは、私自身にもわからない。


 ただ堅実に、日々を邁進していくのみーー学術、いやこれはすなわち『学道』というもの。


 私はまだまだ道の途中だ。



                                 【了】

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恋は学ばず、愛を助け 浅野エミイ @e31_asano

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