13.幸せの青い鳥(完)

「えっ」


 それはいったいどういう意味だ。

 ぽかんと名雲を見返すと、名雲はますます居心地悪そうに目を伏せた。


「や、別に、変な意味ではないんだけど。俺は、後腐れだらけな方だから」


 妙に早口に紡がれた言葉は、上擦って震えているように聞こえた。目が腫れているせいで分かりづらいけれど、よく見ると頬にわずかに赤みが増している気がしないでもない。

 ごくりと唾液を飲み下す。まずは体だけの付き合いでも構わないと思っていたけれど、名雲はそれ以上のことを考えてくれているのだろうか。変に期待して痛い目を見たくはないけれど、含みのある言葉を聞くと、嫌でも期待してしまう。


「名雲さんは、そういう付き合いしかしないのかなって思ってました」

「別にそういうわけじゃない。ただそういうことを考えられるほどの余裕がなかったってだけだよ」

 

 そういうこととはどういうあれなのか、自分が言い出したくせして分からなくなりそうだ。同じことを思ったのか、こほんと小さく咳払いをして、名雲は和泉に問い返してきた。

 

「俺のことじゃなくて、和泉くんはどうなの」

「えっ、俺はその……大歓迎です。後腐れ、大好きなので!」

「何それ。後腐れがないのがいいって言ってなかった?」

「今変わりました。すみません」

「別にすみませんはいらないでしょ」

 

 互いに探り探り進める会話は、笑ってしまうくらい不自然だった。和泉と名雲は、しばらく目を合わせると、示し合わせたように同時に笑い出す。


「『一発ヤらせろ』なんてはっきり言うくせに、名雲さんは意外と回りくどい言い方をするんですね。分かりやすく言ってほしいです」

「言えるほどまだはっきりしてないから聞いたんだよ。……でも」

「でも?」


 先を促すと、名雲は悔しげに目を逸らして言い捨てる。


「大人になってから誰かの前で泣くのなんて、初めてだった。こんな面倒ごとにしかならないようなやつに、好き好んで関わろうとしてくれたのも……」


 胡散臭い笑みで隠されていない素の表情は、ただの拗ねた子どものようだ。皮肉っぽく笑っているより、全然いい。そう思ったときには、うっかり言葉が口から滑り落ちていた。


「――好きです、名雲さん」


 あ、と口を押さえたけれど、言ってしまった言葉は飲み込めない。まあいいやと開き直って、和泉はそのまま言葉を続けた。


「こういうのも一目惚れに入るんでしょうか。三年前からずっと好きでした。俺と付き合ってください。今なら家と授業料もついてきます」

「そこは金銭的に対等になるまで待ちますって言うところじゃないの」

「生憎俺は良い子じゃないので。使えるものは何でも使います。負い目を感じてくださっても結構ですよ」

「悪い男になったね」


 呆れたように呟く名雲の手を取り、両手でぎゅっと握り込む。たじろぐ様子に、ますます鼓動が早くなった。

 

「悪い男は嫌いですか」

「いや、俺も別に善人じゃないし」

「なら、俺の恋人になってください。好きになるのはそれからで大丈夫です。好きになってもらえるように、俺、頑張りますから」

「好きになってもらうも何も――」


 眩しそうに和泉を見つめて、名雲は曖昧に言葉を濁した。いまいち煮え切らない態度ではあるが、少なくとも悪いようには思われていないはずだ。好意の匂いを嗅ぎ取って、和泉は天にも昇る気持ちで天井を振り仰ぐ。

 カーテンから覗き見える空は、月明かりに照らされて濃い藍色に染まって見えた。

 羽を切られたインコのギィを思い出す。空に向かって飛ぼうとして、飛べずにそのまま落ちてしまった可哀想なギィ。

 空が見たいなら見せてあげればよかった。うまく飛べないなら、落ちても大丈夫なように場を整えてやればよかった。羽が生え揃わないなら、その分和泉が羽の代わりに助けてあげればよかった。


「名雲さんは俺の青い鳥です。風切羽には、俺がなりますね」

「……うん。よく意味が分からないかな。独特な告白をするんだね、和泉くん」


 さすが文学部と、さっきまで知りもしなかったくせに、名雲は知ったような口を叩く。そんな名雲をよそに、和泉は肌に刻んだ羽根を指先で辿った。

 意味は自分だけが知っていればいい。髪もピアスも刺青も、すべて自分のためにやったことだ。

 いつの間にやらトレーラーは終わっていた。静かになったパソコンをぱたりと閉じて、和泉は布団に潜り込む。


「寝ましょう。明日もきっと、いい一日になりますよ」

「ご機嫌だね」

「それはもう」


 直前の行為で疲れていたのだろう。電気を消すと、ほどなくして隣のベッドからは名雲の寝息が聞こえてきた。規則正しい静かな寝息に耳を傾けながら、生きてみるものだなあ、なんてしみじみ思う。

 親に指定されたものではない大学に通うこと。髪を染めること。友だちと遊ぶこと。ピアスを開けて、タトゥーを入れること。男と寝ること。誰かに惹かれること。首を吊った人間を助けること。

 そしてその人とともに暮らして、暫定ながら恋人になること。

 どれもこれも、昔だったら想像すらつかなかったようなことばかりだ。けれどそれらすべてに、和泉なりの意味がある。生々しい経験として、たしかに自分を形作っている。

 目を閉じた先で、和泉は橋の上で佇む浪人生の自分を夢に見た。

 ひょろっちくて、絵に描いたようなガリ勉男だ。自分の気持ちすらろくに主張できなかった弱く幼い自分が、みぞれ混じりの風に吹かれながら、橋の上で背を丸めていた。家に帰りたくないだなんて、今思えば笑ってしまうくらいどうでもいい悩みだ。それでも当時の自分にとっては大問題で、死を考えるには十分な理由だった。

 昔の自分と横並びになるようにして、和泉はかつての視線をなぞるように川を覗き込む。

 きらきら、きらきらと、手を伸ばしたくなるような澄んだ煌めきがそこには見えた。息が白く変わる寒さの中で、その静かな光がどれほど魅力的に見えたか、三年経った今でも忘れていない。

 苦しかった。泣きたかった。でも、その苦しさ以上に嬉しいことも、忘れられない出来事も、この瞬間の先にたくさんあると知っている。今はもう、そこに飛び込みたいとは思わない。飛んで落ちたらもったいないと、思えるようになった自分が誇らしかった。

 きらきらと青空を写して水面が煌めく。気づけばいつの間にやらみぞれは止んで、雲間から青い空が見えていた。

 差し込む光に惹かれるように、和泉はふっと顔を上げる。隣には、先ほどまでいた三年前の自分は影も形もなくなっていた。代わりに見えたものは、鮮やかな水色の羽を持つ小鳥だ。


「ギィ……?」


 一匹の青いインコが、空を気持ちよさそうに飛んでいた。風を切りながら、小さな翼を優雅に広げて羽ばたいている。

 くるりと和泉の頭上で旋回した鳥は、そのまま雲間を目指すように高く高く上がっていった。

 太陽の方向へと消えていったギィを見るともなしに見つめながら、和泉はそっと口の端を上げる。


 生きていくのだ。この先もきっと、やりたいことをやりながら生きていく。

 夢の向こう側から名を呼ぶ声が聞こえる。目覚めとともに崩れる夢には背を向けて、和泉は清々しい気持ちで目を開けた。

 今日も一日が始まる。一日一日、重ねていく。


(了)

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ブルー・バードに風切羽を あかいあとり @atori_akai

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