5.名雲良助
話し終えるころには、すっかりマルガリータの氷は溶けてしまっていた。薄くなってしまっただろう酒で喉を潤して、ミチ先輩は「なるほどねえ」と感慨深げに何度も頷く。
「こう言ったら悪いけど、和泉んちの親御さん、結構な毒親だな」
「今話したことだけだと、そう思うかもしれませんね。でも、別に悪い人たちってわけじゃないんですよ。ただ単に俺が期待に応えられなかっただけです。現にこうやって大学に通えるだけの金もくれましたし、俺より苦労してる人なんていくらでもいますから」
「他と比べるもんじゃねえだろ、つらさってのは。子どもだろうが他人は他人! 重すぎる期待をかけるのはどうよって思うね、俺は。……まあそれは置いておくにしても、和泉の巨乳好きの源泉を見た気がするなあ」
「否定はしません。名雲さん、いい体してましたから」
面白くもないだろう話を聞いて、いつも通りに茶化してくれるミチ先輩の、こういうところが和泉は好きだ。
ぐいと一気に酒を煽る。グラスが空になったタイミングで、見計らったようにライムの乗った水が出てきた。
「ありがとうございます」
頭を下げると、バーテンダーは唇だけで微笑んだ。
「和泉が親と絶縁状態な理由はなんとなく分かったよ。それにしたってその名雲さんとやらをリスペクトしすぎだとは思うけど」
「リスペクト? どの辺がですか」
「げー、それで無自覚かよ」
面白くなさそうに唇を尖らせながら、ミチ先輩は顎先で和泉の頭を投げやりに指す。
「まず、その長髪! いかにも思い出の名雲さんヘアーだろ。下ろしたら肩まであるよな?」
「はあ、まあ。でもこれ、美容師さんが勧めてくれたからやってるだけですよ」
「ピアスもじゃらじゃらだし!」
「これはミチ先輩の薫陶を受けてのことです」
「ならよし!」
まんざらでもなさそうに頬を緩めたあとで、ミチ先輩は再度表情を引き締める。
「いやでも、それだけじゃないぞ! 体も三年間でだいぶ仕上げてきただろ」
「それこそミチ先輩に連れて行かれたボルダリングの成果ですね」
「バイだし、遊んでる!」
「最初があんなだったんで、自分はゲイなのかなって気になったんですよ。名雲さんとヤったときくらい気持ちのいいセックス、またしたかったし」
かつて名雲に幸薄そうと評された和泉の顔は、どうやら他人にはミステリアスに見えるらしい。身綺麗にさえしておけば、遊び相手には困らなかった。
大学に入って何人かと肌を重ねて、結局自分はバイだと知った。男性の力強く筋肉質な体もいいけれど、女性の柔らかく滑らかな体にも興奮する。
でも、と和泉は目を伏せながら苦笑する。
「誰と寝ても、名雲さん以上に気持ちよくはなれないんですよね……」
「最初の相手が悪すぎたんだろ。それとも良すぎたって言った方がいいか? 名雲さんとやらはよっぽどうまかったか、体の相性が良かったんだろうな」
軽い調子で呟いて、ミチ先輩は一気にグラスを空にした。
唇の端から垂れる酒を見かねて、和泉はペーパーナプキンをすっと差し出す。「ありがとう」と受け取って、ミチ先輩は人懐こく笑った。
「つまるところ、ミステリアスな和泉くんのアンニュイ顔の正体は、恋煩いだったってわけだ」
「別に恋はしてません」
「そうかあ? その割には、和泉くんは『一緒にいても、いつも違う人を探している気がする』らしいじゃないか」
からかうように突っ込まれ、ぐっと和泉は言葉に詰まる。それは和泉が、直近の元カノに振られるときに言われた言葉だ。
「なんでミチ先輩が知ってるんですか」
「壁に耳あり障子にメアリー! 別れ方には気をつけろよ、和泉くん。人の恨みは怖いぞぉ」
答えになっていないことをさらりと言って、ミチ先輩は納得がいないとばかりに目を眇める。
「つーか、そんな未練があるなら、もう一度セックスしましょうって誘えばよくね? 名雲さんの連絡先とか持ってねえの?」
「持ってません。そもそも、もう一度会えるような感じじゃなかったんで」
「どういうことだ」
興味を惹かれたのか、ミチ先輩が内緒話でもするように肩を寄せてくる。なんとなくつられて声をひそめつつ、和泉はぼそぼそと説明をした。
「金を取られたんですよ」
「んん? 恐喝でもされたか? あっ、それとも
「違います。さっき言ったとおり、名雲さんとヤったあとは俺、風呂も自力で入れないくらいくたくただったんです。名雲さんが送ってくれるって言うんで車に乗ったはいいものの、助手席でぐっすり寝ちゃって……」
「あらら。和泉くんは警戒心がないなー」
自分でもそう思う。今の和泉なら絶対しない。いくら夜通し肌を合わせていたとはいえ、名雲は初対面の、下の名前も知れぬ男だ。信用する方がどうかしている。
けれど、散々泣いて抱かれて甘やかされた当時の和泉は、警戒心というものをすっかりなくしていた。一晩ベッドをともにしただけで、名雲に親しみを抱いて、心を寄せてしまう程度には物を知らない馬鹿だったのだ。
「車が止まったと思ったら、コンビニでした。ホテルに行く前もマイペースに中華を食べていたような人ですから、またどうせ朝メシでも欲しくなったんだろうなって、不思議にも思いませんでした」
苦々しく和泉は語る。
今でも覚えている。穏やかにタイヤが回る音と、名雲の鼻歌。あの車には音楽ひとつ掛かっていなかったから、余計に音が強く記憶に残っている。
コンビニの駐車場で、名雲は上着を脱いで、和泉に掛けてくれた。
『名雲さん……? どうしたんですか』
呼びかけると、和泉の腿の辺りを探っていた名雲の手が、ぴくりと跳ねた。
『起こしちゃった? ごめんね。寝てていいよ』
『どこですか、ここ……?』
『コンビニ。腹減っちゃってさあ。和泉くんも何かいる?』
『俺はいいです』
ぼんやりと返事をすると、名雲は取り繕うように『そっか。分かった』と笑った。
あとになって思えば、上着を掛けるだけならわざわざズボンのポケットに手が触れるはずもないので、名雲はあの時、和泉の通帳を探していたのだろう。
なぜ和泉が通帳を持っていることを名雲が知っていたのかは分からない。川に飛び込もうとする直前に和泉が通帳を眺めているところを見たのかもしれないし、行為の最中に洗いざらい喚いていたときに、うかつにも自分で教えてしまったのかもしれない。今となっては、どうでもいいことだ。
とにかく、名雲の挙動不審な様子に気づくこともなかった和泉は、そのまま呑気に駐車場で寝入ってしまった。
「……そんなこんなで、俺が寝てる間に、名雲さんは俺の口座から堂々と金を抜いていきました。帰り際、札束を見せつけて手を振ってましたよ」
――じゃあな、おバカなガリ勉お坊ちゃん。これは迷惑料でもらっていくから。
一言一句、声のトーンまではっきりと覚えている。投げ渡された通帳が胸にぶつかったときの痛みも、乱暴に走り去るエンジンの音も、皮肉っぽく歪んだ名雲の表情も、忘れられる気がしない。
経緯はどうあれ、どん底の気分だった和泉を救ってくれた相手に、手酷い裏切りを受けたのだ。怒りと失望とやるせなさで、死ぬ気もすっかり失せてしまった。
「今思うと、通帳とカードを返してくれただけまだ良心的でしたね。コンビニの引き出し上限額が五十万円だったのが幸いでした」
「そういう問題じゃねえだろ。名雲、最悪だな! いたいけな和泉になんてことするんだ!」
さっきまではさん付けをしていたのに、話を聞いた途端にミチ先輩から名雲への評価は地に落ちたらしい。我がことのように怒ってくれるミチ先輩が面白くて、思わず頬が緩む。
「俺が散々名雲さんに迷惑かけたのは本当ですから。それに、盗られた分を補填しようと思ったのがきっかけで、色々賞にも挑戦するようになりましたし。巡り巡って良かったですよ」
「ああ、小説の新人賞だっけ? 和泉は文学部だもんな。すげえけど、良くはないだろ」
「まあまあ。名雲さん、もしかしたら金に困ってたのかもしれません。そこは恨んでないんですよ、本当に」
断りもなく取っていったことは恨めしく思うけれど。
「恨めよ、そこは。金に関しちゃ貸し借りはきっちりしなきゃダメだぞ。仮に本当に名雲が金に困ってたとして、和泉の金を取っていい理由にはならないし――」
ぶつくさと呟いていたミチ先輩の声が、不意に何かを思い出したかのように止まる。
「……待てよ。金に困ってる名雲? 和泉の会った名雲ってまさか、名雲
「先輩の知り合いにもいるんですか、名雲さん」
和泉の実家は隣の県にある。三年前、名雲が乗っていた車のナンバープレートも地元のものだったし、土地勘もあるように見えた。名雲というのは珍しい名前ではあるけれど、まさか同一人物ではないだろう。
そう思ったのに、ミチ先輩は難しい顔をしてスマホを取り出すと、何やら写真のフォルダを漁り始めた。
しばらくして目的の写真を見つけたのか、ミチ先輩の指がぴたりと止まる。
「和泉の金取った名雲って、ひょっとして、こいつじゃないか?」
爽やかに整った顔に、鍛えられた体。お手本のような泣きぼくろが色っぽい、長身の青年だ。
見せられた画面には、和泉の記憶に棲みついて離れない男が映っていた。ただし、和泉が知る名雲とは似ても似つかない、毒気のない笑顔とともに。
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