4.やられた側が決めていい
一度、二度。感触を教え込むみたいにくっついては離れる唇は、三度目になると種類の違うキスを仕掛けてきた。
キスに交えて、誰にも触れられたことのない場所を触られても、不思議なくらい嫌悪感は覚えなかった。想像の中ではなんとなく女性の体に欲を向けていたものだけれど、自分が同性の体にも興奮するたちなのだと、初めて知った。
あっけなく追い上げられて、湯船の中で身を捩らせる。
ようやく唇が離れたときには、和泉の肌はすっかり名雲と同じ熱さになっていた。肩で息をしながら、和泉はぼんやりと名雲を見上げる。
「気持ちよかった?」
問われた和泉は、夢見心地で浅く頷く。あれほど緊張していたはずなのに、今はすっかり体があたたまって弛緩していた。
「……人に触られるのって、気持ちいいんですね」
独り言のように呟くと、名雲はおかしそうに喉を鳴らした。そんなことも知らなかったのかといわんばかりの嘲りのこもった視線を向けられたけれど、頭がふわふわとして、気にもならない。
「体、あたたまったね。そろそろ後ろも洗おうか」
「後ろ……?」
首を傾げる和泉を手招き、名雲はくるくるとシャワーヘッドを外していく。剥き出しになったホースの先端に、何やら奇妙な道具を取り付けた名雲は、椅子に腰掛けるなり、自分の膝の上へと和泉を座らせた。
「これ、何ですか」
「アナルプラグ。先っちょからお湯が出るように、穴が空いてるやつだよ。そのまま入れたら痛いでしょう?」
「入れるって、どこに……?」
「ここ」
怯む間もなく、名雲はシリコン製のそれを、ためらうことなく和泉の尻の間へと押し付けてきた。
「きれいにしておいた方が、お互い気持ちよく楽しめるじゃん?」
腹の中にぬるいお湯が入ってくるのが分かる。間もなくして便意を感じ始めた和泉は、慌ててその場を去ろうとした。
「あのっ、すみません。俺、トイレに――」
「ここでしていいよ。どうせ何回か洗うからね。後で掃除もしておくから安心して。職業柄っていうのかな、俺、そういうの別に気にならないから。二日絶食してたなら、ろくに中身も入ってないだろうし」
「な、中身って……!」
「和泉くん、死にたいんだろう。なら、別にいいじゃん。どれだけ恥ずかしくても、死体になればどうせ
そういう問題ではない。けれど、抗議をするだけの余裕もなかった。ぐるると腹の奥が蠢く音がする。立とうとする和泉を、名雲は逃がしてはくれなかった。
背を丸めても便意は消えない。焦りと羞恥で、息がどんどんと浅くなっていった。
とうとう我慢の限界を迎えた和泉は、全力で名雲を突き飛ばすと、隅で小さく身を縮こまらせる。二度、三度と、体内に入った湯が音を立てて漏れ出した。他人に排泄を見られる羞恥に耐えられなくて、和泉は必死に両腕で己の顔を隠す。
「う、うぅ……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ、見ないでください」
「恥ずかしいんだ。かわいいねえ」
うっとりと名雲が呟く。こいつは変態なのだと、その声音だけでも理解せざるを得なかった。
でもそれ以上に変態なのは、人に見せてはいけない姿を見られたというのに、泣きたいくらいにほっとしている己の方だ。和泉の出来がどれだけ悪かろうが、どれだけみっともない姿を見せようが、名雲はきっと気にしない。たった一瞬でそう分からされてしまって、何もかもがどうでもよくなった。
一度醜態をさらしたあとは、何度同じことをされても気にならなかった。尻の中を洗い終えると、名雲はさっと和泉の体を洗い流して、いかにも優しげな微笑みを作る。
「お疲れ様。きれいになったね。えらい、えらい」
バスローブを着せてもらって、子どもみたいに褒められる。
上辺だけの言葉だ。なんなら馬鹿にするような響きさえ含まれている。分かっているのに、誰かに褒められるのなんて何年ぶりだろうかと思った瞬間、ぼろりと涙があふれて落ちた。
「あ、あぁ……っ、うっ、ひ、……っぐ」
「あらら。大丈夫?」
なんで自分が泣いているのかも分からない。分からないまま泣きじゃくる和泉の体を、名雲は優しく抱きしめてくれた。
ベッドの上に横抱きで運ばれて、名雲のふかふかとした胸筋に顔を埋める。あたたかくて、ほっとして、気づけば涙とともに言葉が滑り落ちてきた。
「くるしい、んです」
「何が苦しいの」
「分からない。分からない……っ」
東大なんて行きたくない。浪人なんてしたくなかった。友だちが欲しかった。休みの日に遊んでみたかった。恋だってしてみたかった。服にも髪にも気を遣って、普通の高校生になってみたかった。なれないまま、二十を越えた。もう二度と子どもには戻れない。二度と手が届かなくなったものが、眩しくて惜しくて憎らしくて仕方がなかった。
中学も高校も予備校も全部嫌いだ。みんな嫌いだ。苦しい。つらい。疲れた。逃げたい。どこかへ逃げたい。もう嫌だ。
堰を切ったように話し出した和泉の言葉を、名雲は一度だって遮ろうとはしなかった。
「帰りが、お、遅くなっても、母さんは夜食を作って待っててくれる。予備校の講義だって、高いのに、一番いいものを父さんは受けさせてくれる。ぜんぶ、俺のためって、分かってるんだ。でも……っ」
それが苦しい。自分のためにしてくれたことだと分かっていても、望んでもいないことを感謝しないといけないことが苦しい。拒めないことが苦しい。苦しくて苦しくて、息ができない。だから死にたかった。死ねば楽になれると思った。
泣きじゃくる和泉を冷めた目で眺めながら、名雲は一言「いいんだよ」と呟いた。顔を上げると、名雲はうつろに微笑みながら、言い聞かせるように言葉を足した。
「いい子じゃなくていい。全部親の期待通りになんて、できるもんか。相手がどういうつもりでやってようが、何を感じるのかは、全部やられた側が決めていい」
名雲はぽんぽんと和泉の背中を叩く。
「恨みたいのに嫌いきれないのは、つらいよな。でも、どれだけ汚いことでもさ、せめて心の中で思うくらいは、許されるんじゃないの。……そうじゃなきゃ、あんまりじゃないか」
美しく作られた微笑みは、瞬きの間だけ、暗く歪んだ顔に変わった。疲れきった老人のようにも、泣き出しそうな子どものようにも見える、奇妙な表情だった。
名雲のことなんて何にも知らないけれど、胡散臭さに満ちたこの男の中で、その表情だけは、どういうわけか嘘がないように思えた。
「ひ、う……っく、ああぁ!」
誰も分かってくれなかった和泉の心を、名雲だけは分かってくれた。そう感じた瞬間、和泉は声を上げて泣いていた。
後から考えれば、初対面の人間と心底分かり合えるなんて、そんなことがあるわけない。それでもそのとき、名雲の言葉で和泉はたしかに救われた。
「な、ぐもさん……っ、名雲さんっ、う、……っく、……触っ、て……ください。続き、したい。何も、考えたくない。教えて……」
震える指を名雲に伸ばす。
顔なんて涙と鼻水でぐちゃぐちゃだっただろうし、ストレスで痩せた体は見られたものではなかったはずだ。それでも名雲は、困ったように目を細めるだけで、和泉を拒もうとはしなかった。
教えてもらったばかりのキスをしながら、和泉は名雲の頭に手を回す。指で探って髪をほどいて、風呂に入っている間も乱れなかった名雲の髪を、衝動のままに解きほぐした。
名雲の髪がさらりと落ちる。和泉の視界を隔てるように、束の間、世界から隠してくれる。
「かわいそうに」
掠れた声でぽつりと呟いたきり、名雲の口数はめっきり減った。
名雲の弾んだ息と、理性を飛ばした自分の声が、淫らに絡んでひとつになる。
自分を捨ててからっぽになったところに与えられる快楽は、息が止まりそうなほど心地よかった。なるほどたしかに小さな死と呼ばれるのも分かる気がすると、あとになって思った。
水をもらって、少し眠る。起きたらほんの少しだけ話をして、またなだれ込むように名雲とふたりで抱き合った。
空が白み始めるころになると、名雲は色んなもので汚れた和泉をいやに手馴れた様子で世話してくれた。不思議に思って尋ねると、「介護には慣れているから」と短い言葉が返ってくる。その横顔が妙に沈んで見えたから、それ以上踏み込んで聞く気にはならなかった。
「立てる? 和泉くん」
立てない、ときちんと声にできたかどうかも疑わしい。頭の中がふわふわとして、それなのに体は泥のように重くて、最高なのに最低な気分だった。
「そろそろチェックアウトの時間だから、シャワー浴びないと」
「はい……。すみません」
「何のすみませんなの、それ。嫌な口癖だね」
くすくすと笑いながら、まどろむ和泉をいとも簡単に抱き上げて、名雲は風呂場の扉を開ける。脱衣所に踏み込んだところで、名雲はふと何かを思いついたかのように顔を上げた。
「見てごらん、和泉くん」
名雲の指先を辿って視線を横に向けると、そこには大きな鏡があった。
映っているのは、髪を乱した精悍な男と、その男の腕にしどけなく身を預けているひょろっちい男。和泉の髪は汗で張り付き、泣き腫らした目は充血していた。貧相な体には、乾いた体液の名残があちらこちらに付着している。
見た瞬間、一気に顔が熱くなった。
「汚れちゃったね」
嘲るように名雲は呟く。恥ずかしくなって、考えるより前に謝罪の言葉が口をついて出た。
「……すみません」
「謝ること、何もなくない? 俺はただ、見せたかっただけ。みっともない自分を見るとさあ、自分だって思いたくなくなるだろ」
何を言いたいのか分からない。答えを求めるように、和泉は鏡に映る自分たちをじっと見つめた。
鏡の中で、名雲は憐れむように微笑んだ。
「よかったね。いい子の君はもう死んだ。ここにいる君は、ただの汚れた残骸だ」
ああそうだ。ここに来る前、名雲は和泉を殺すと言った。ヤケになった挙句にこんなことをしている自分は、間違いなくもう、親の望む良い息子ではない。
いい子で不出来な和泉家の長男はもういない。いい子でい続けなくてもいいのだ。
そう思った瞬間、また涙がぶわりと滲んできた。
「ありがとう、ございます……」
「だからそれ、何のお礼なの? お礼を言うならこっちの方だよ。気持ちのいい死に方、ちゃんと覚えた?」
「はい」
「そう。なら、もう苦しい死に方はやめておきな。全部嫌になったら、また今日みたいに死ねばいい。そうしたら少なくとも、最低な一日は終わるから。毎日その日を生きることだけ考えてたら、そのうち時間なんて過ぎていくよ」
その言葉には、ただの他人に掛けるにしては、奇妙なくらい実感がこもっているように思えた。
「名雲さんも……死にたいって思ったこと、あるんですか」
おずおずと尋ねてみると、名雲は思いもかけないことを聞かれたとばかりに、ぱちぱちとまばたきをした。
そして束の間、名雲はその瞳にぞっとするような冷たさを覗かせる。
「……さあ。あるかもね。でもそれは、和泉くんには関係のない話だ」
鏡越しに視線が絡み合う。口元は笑っているのに、名雲の目はちっとも笑っていなかった。
敵意のこもった視線の奥にあるものにあえて名前をつけるとすれば、侮蔑とか憎悪とか、そういう類の感情になるのだろう。けれど、和泉にはなぜ名雲がそんな顔をするのか分からなかった。名雲とは、今日まで会ったこともないはずなのに。
逃げるように視線を落とした先で、名雲の鎖骨が目に飛び込んできた。
今にも飛び立ちそうなポーズで翼を広げる、自由な鳥のタトゥー。けれど何かが足りていない。
(……ああ、風切羽がないんだ)
わざとそうしたのか、それともデザインの問題なのか、そこには空を駆けるための一番大切な羽根が欠けていた。先ほど風呂場で見たときに、違和感を覚えたのはそのせいだろう。
こんなにも自由に見える名雲でさえ、その体に飼っているのは、空を飛べない鳥なのだ。そう思ったら、わけも分からず虚しくなった。
「行こうか」
すっと顔を背けて、和泉を抱えた名雲は歩き出す。
鏡の自分が遠ざかる。ぼんやりとこちらを見つめる惨めな男は、やがて湯気に隠れて見えなくなった。
その日、たしかに和泉優は死んだのだろう。
鳥を体に刻んだおかしな男に、優しく丁寧に殺された。
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