U.S.エスケープ 東京コンビニ夜

五平

ハリウッドスター、日本のコンビニチャレンジ

ホテルの裏口からこっそりと抜け出し、日本の夜の街に溶け込む。湿った空気が肌に心地よい。ネオンサインが瞬く中、俺はただの観光客を装って歩く。心臓は高鳴っていた。普段は一歩外に出れば、群衆とパパラッチに囲まれる。だが、ここは違う。誰も俺を見ない。見向きもしない。俺は心の底から安堵する。


目指すは、この国の「コンビニ」という名の聖域。自動ドアが開き、店内の冷気が俺の顔を撫でる。白々しい蛍光灯の下、俺は身構えた。視界の端で女子高生がスマホをいじり、カップ麺を吟味するサラリーマンが通り過ぎる。誰も俺に気づかない。いや、本当に誰一人として、俺の顔も、存在も、その価値も認識していないのだ。


俺は確信する。この国の人々は、俺の演技力を試しているわけでも、サプライズパーティーを仕掛けているわけでもない。彼らは本当に、純粋に、俺のことを知らないのだ。俺が、アカデミー賞にノミネートされたジョン・スミスだということを。


俺の心は奇妙な安堵感に満たされた。それは、何年も失っていた、自分の存在がただの「人」であるという感覚だった。


商品棚を物色する。おにぎりのパッケージを手に取る。俺の主演映画『ブラックホール・ダイブ』で、宇宙空間の食糧を開発する役を演じたばかりだ。この完璧な三角形の塊は、まるでその映画の小道具のようだ。俺の脳内では、妄想が暴走し始める。おにぎりが俺に語りかけてくる。「食べなさい、この星の味を」と。


レジに並ぶ。店員は若い男だ。彼は、俺の顔をまるで初めて見るかのように、何の情報も持たないかのように見つめている。そして、淡々とバーコードをスキャンし、合計金額を告げる。


「380円になります」


淡々とした声。それは、俺がこれまで聞いてきた、何百もの「あなたに会えて光栄です」という言葉よりも、ずっと心地よかった。彼は、俺のキャリアや名声とは無関係に、ただ目の前の客として俺に接している。その事実に、俺は心の奥底で涙が溢れそうになった。


俺は現金で支払い、店を出ようとした。その瞬間、店員が小さく、しかしはっきりと呟いた。


「ありがとうございます」


その言葉は、まるで俺という存在を、何の名声にも縛られない、ただの一人の人間として認めてくれたように感じられた。


この日本のコンビニは、俺にとって最高の楽園だった。誰も気づかない、誰も知らない。その徹底した無関心が、俺の心を救ってくれたのだ。外に出ると、夜風が吹き抜けていく。それは、まるで新しい人生の始まりを告げる風のように感じられた。

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