ハルマゲドンにて、いつかまた

考える水星

ハルマゲドンにて、いつかまた

「あなたが友、ヴブディファールは敗死しましたよ」

コンラートがそう告げた時、季節は間も無く夏だった。次第に強まる陽光の下、撫でる風が草を食む穏やかな頃であった。

「久方ぶりに現れたと思うたら……藪から蛇とは貴様のことだ、二枚舌のコンラートよ」

コンラートの言葉の相手、ヴースヴァックスは突然の来訪、そして知らせに対しても、落ち着き払ったままであった。彼は今、木立の脇の石に腰掛けて一息ついていた。赤黒い鱗皮の鎧に身を包んだ彼のどっしりとした姿は、掴みどころなく軽薄な印象のコンラートとは対を成すようであった。

「思いがけないことというのは楽しいですよね」

ヴースヴァックスの言葉を身のこなしでもあしらうが如く、軽い旅衣をひらりとはためかせながらコンラートは歩いた。彼はまるで影から出でて来たかのようにヴースヴァックスの真後ろに立っていたのだが、その歩みで彼はくるりとなぞるようにヴースヴァックスの前に回った。その足跡が柔らかい草に僅かも残らないことが、彼の捉えどころの無さを何よりも声高に、しかし無言で伝えていた。

「雪はすっかり溶けました。風は思う様吹きました。蕾はとうとう開くでしょう。すれば、蛇も藪から出てくるというものです」

彼はそう言って笑った。その笑いは驚くほどに屈託のないものだった。

「雄牛のヴブディファールは死んだのです。オーロンサスの騎士によって。それをお知らせしようと思いまして」

そう言って、コンラートはヴースヴァックスの目の前で立ち止まった。そして、腰掛けるヴースヴァックスをじっ……と見つめた。その顔には穏やかな微笑みがあった。

「仮にも欺ける神より力を受ける者の言葉が如何程信頼に足るだろうかな。戦士は死ぬだろう。だがお前の裂けた舌から語られるとあっては、己の存在さえ疑わしいものだわ」

彼に対するヴースヴァックスは面一つ挙げようともしなかった。戦女神に誓った戦士の常として常在戦場の鎧姿のヴースヴァックスは、兜さえ脱がず、ただそよぐ下草か、或いは自分のつま先を眺めているようであった。

「不幸の知らせは真実ですよ」

コンラートはそう言うと、蛇のように目を爛々と光らせた。

コンラートが真実であると語れば語るほど、それは怪しいものであった。コンラートは虚偽と裏切り、陰謀と欺瞞を司る蛇神エリロキスと契約せし裂け舌である。その蛇の舌が語るのは、なんにつけても信が置けないというのは自明の理であった。が、戦女神ヴァハリガンに付き従うヴースヴァックスと、このコンラートとの間には、なんとも奇妙な友情があった。二人はいつからか長い付き合いであり、そして故に、ヴースヴァックスはその言葉を真実と受け取った。ヴースヴァックスとはそういう男であった。

しかし、でありながらも、ヴースヴァックスはいまだにその頭を上げはしなかった。依然として無関心のように俯いたまま、今度は彼は腰袋から砥石を取り出した。そしてそのままに言った。

「雄牛はいつか角をもがれるのだ。それより騎士とな、如何なる者が奴を斃した?」

ヴースヴァックスは大斧を研ぎながら問いかけた。それを見て、コンラートは影のようにクスクスと笑った。

「アリベルト・ジルバークロイツ。どうしてなかなか手練れの騎士と。東の聖戦にも幾度も参加したことがあるとの話。それにしても、ヴブディファールは積年の強敵でありましたよね。打ち倒した者にはやはり興味がお有りですかね?」

コンラートは問うたが、ヴースヴァックスは素っ気なかった。

「斃れた者は負けたのだ。そして敗者は弱いのだ」

そして彼は立ち上がると、手にする斧を軽く振ってから背に負った。その時一陣、風が吹き、緑の匂いは辺りに色濃く立ち込めた。その風が吹く先へ、ヴースヴァックスは一度遠い目を向けた。そうしながら、彼は無意識のうちに、兜のひさしの欠けた部分をなぞっていた。

「アリベルトとな。そ奴が本当に、ヴブディファールを討ち果たしたというのなら……」

彼はそこで暫し、黙した。だが、やがて、意を決したように言った。

「案内するが良い、その男のところまで」

ヴースヴァックスの言葉を受けて、コンラートは手を叩いて喜んだ。その様はまるで無邪気な子供のようであった。

「わざわざ私に伝えに来たのだ、どうせ引き合わせるつもりであったのだろう。如何なる魂胆かは知らぬが、どうであれやってやろうではないか」

「仰せのままに」

変わることのない不機嫌そうな声色でそう告げるヴースヴァックスに、コンラートは恭しくお辞儀をしてみせた。


 暫くして、二人は駆けていた。コンラートを先導に、獣道を、寂れた街道を、或いは全くの原野を。身軽なコンラートを追うヴースヴァックスは鎧と武器とその他に身につけた大小の諸々とを併せて人一人分ほどの重さは確かにあったが、にも関わらず、彼は野馬のように走り、尚且つ僅かの疲れも見せていなかった。

 そして、花蹴飛ばし藪蹴散らし倒木を飛び越えながら、草木の匂いを纏った風のように、昼巡り夜巡り目まぐるしく変わり過ぎ行く景色を目の端に捉えて駆けながら、ヴースヴァックスはヴブディファールについて考えていた。思えば彼とはもう幾分か古い知り合いであったのだ。そう考えるうちに、いつしか彼は景色と溶け込むように、過去について思い出し始めた。


 彼はそもそも、決闘者の類であった。つまり、戦女神ヴァハリガンの戦士の内でも、特に強者との一対一の戦いを何より好み、得意とする手合いの者である。名うての騎士、恐るべき鞭導者、技量高き西の剣士、或いは人ならざる怪物……それがなんであろうとも、求めるはただ強きことのみ、それ以外には何一つ厭わず挑みかかり、その首を勝ち取ってきた。彼は戦士団に属することもせず、単身で世界を巡り、ただ斧のみを友として、時に雇われ、或いはただ戦場に飛び込んで、勝利と戦いを得ていたのだ。

 そんな頃であった。ヴブディファールと出会ったのは。この男もまた、ヴースヴァックスと同じように、単身で世界を旅するヴァハリガンの戦士であった。しかしながら、この雄牛兜の戦士は、それ以外ではヴースヴァックスとは正反対の男であった。ヴブディファールとは、屍山を築き、血河を流す、その言葉に尽きる者であり、それこそを神に適う良きことにして尊きこととして、また無上の歓喜を見出すような者でもあった。故に彼は暴力を嵐のように振り回し、敵陣真っ只中に飛び込んで、無数の雑兵を殺し尽くすのが無上の喜びであった。

 二人は同じ戦場にて見えた。それが彼らの初めてであった。時にヴースヴァックスは敵将めがけて斬り進み、ヴブディファールは軍勢そのものを貪るように破壊し尽くしている最中だった。身につけた鴉の羽によって、お互いがヴァハリガンの戦士であることは一目で分かり、また互いに歴戦の手練れであることもすぐに分かった――ヴースヴァックスはかつて仕留めた黒竜の皮を身に纏っていたがため、ヴブディファールはドゥウェラーから奪われた精巧な二振りの戦鎚を振り回していたがために。そこで生まれた好奇の故だろうか、戦いの終わった後、二人はいつもの孤独を解いて、共に彼らの得た勝利を祝った。そしてその晩、二つの魂は分かち難い友となったのだ。

 以来、得物のみを道連れとしていた二人は連れ合いを得た。そして多くの戦場を渡った。血生臭い風を伴って歩く二つの死は、とにかく対照的であった。ヴースヴァックスは寡黙であったがヴブディファールは大言を好み、そしてヴースヴァックスは倒す相手の何よりも強きを求め、ヴブディファールはその数を求めた。

 長く連れ添うほどにその違いは克明となり、彼らはしばしば衝突した。しかしその度に、それ故に、彼らは互いに惹かれ合い、そしてまた、互いを称え合った。

 それでも二人の間には、共に似通う部分があった。いやむしろ、多く相反するからこそ、彼らは最も似通っていたのだ。彼らの技量は拮抗しており、ヴースヴァックスはあくまで一対一の戦いを熱望しながらも、相応しき首に至るまでの道を開くためならば、流血と虐殺に並ぶ者なく。ヴブディファールは隔てなき殺戮と破壊に渇いていたが、あえて立ち塞がる者がいたならば、この上ない決闘者として如何なる強者もそれを降した。そして無論、二人は、大鴉の母にして不敗の戦乙女なる女神、熾烈なるヴァハリガンの篤き信仰者であった。

二人の間に最も深い裂け目が生まれたのは、皮肉にもその相似のためだった。それは、遥か北の地、ボレアリスの峻厳にして凍てつく山々を越えた先にある、咆風高原でのことだった。

 咆風高原、その広大なる草地を支配する人馬たちの言葉でユルクリュルトとも呼ばれ、人馬は馬体に人の身を持つ勇猛なる遊牧の民である。その帝国の既に塵となって久しくとも、古に平地を脅かした彼らの武勇、猛威はますます盛んであった。故に、そこは戦士たちの巡礼の地として、確かに相応しかった。

 この頃既に黒竜のヴースヴァックスと雄牛のヴブディファールとしてその名を轟かせていた彼らの到来は、好戦的なユルクリュルトの民からも大いなる挑戦として受け止められた。果てには、カラユイルド族を筆頭とする氏族連合とのたった二人での全面戦争にまで発展した。カラユイルド族は、かつて偉大な帝国を築きし伝説的な血統に連なると言われ、誇り高く、高原でも特に武威で知られる氏族であった。それが率いる数百の勇者と戦うとは、まさしく恐るべきことであった。

テペシの石丘にて繰り広げられたこの凄惨なる戦いは、最終的にヴァハリガンの徒の勝利で幕を閉じた。カラユイルド族の男たちはその勇壮なるが故に皆討死して、他の多くもまた屍を晒した。僅かに生き延びたのは手持ちの矢弾を撃ち尽くす以前に逃げ延びた臆病者ばかりという結果であった。斧は勇士の骨に刃こぼれし、鎚は数多の死に朱で濡れた。連なる死骸に鴉たちは集って大いに宴し、そして人馬の諸族でさえも偉大な戦士たちを讃えた。それはヴースヴァックスとヴブディファール、二人の最も偉大な戦いの一つであった。

 だがしかし、戦いの最中にこそ、二人の終わりの原因があった。戦の終盤、ヴースヴァックスはカラユイルドの族長、即ち人馬の最も勇壮なる戦士でもあるアクバルクと激しく打ち合っていた。族長アクバルクは強大な薙刀を手に、一歩も引かぬ構えであり、ヴースヴァックスをしてさえ苦戦させるものであった。そしてその雄大な体躯から繰り出される乱打の一つが遂にヴースヴァックスを捉え、彼の兜のひさしを砕き、彼を大地に突き倒した。

 とどめを刺さんと猛然と突っかかるアクバルク、さしものヴースヴァックスも死を覚悟し、それでも尚大斧を構えようとする、その刹那であった。恐るべき突進の前に、突如としてヴブディファールが立ち塞がった。肩には未だ人馬の腸を引きずり、血染めの形相のヴブディファールは、右手の戦槌で薙刀の一撃をどうにか受け止めると、左手の戦槌で反撃を叩き込んだ。力んだ顔に渾身の一発を叩き込まれたアクバルクはのけぞったが、しかし倒れなかった。アクバルクは激怒し、そのままに怒りの矛先をヴブディファールへと向けた。

 ヴースヴァックスは茫然として、地に伏したままに目を見張った。それは信じられない光景だった。戦いが自分の手から離れていく。先程まで自身が対峙していた良き戦士が、決着を迎えぬまま、別の戦士-友たるヴブディファールと戦っているのだ。

「決着を迎えぬまま?」その時、ヴースヴァックスの中で、今まで知りもしなかった自身の内なる声が、嘲笑した。「お前は既に負けたのだ、ヴースヴァックス。そしてお前の友にして、宿敵たるヴブディファールがお前を助け、栄光に死す代わりにお前の命を救い、アクバルクと戦っておるのだぞ」

内なる声は、意地悪くそう告げた。その事実は、ヴースヴァックスをひどく傷つけた。彼が深く誇りを置いていた、そして喜びを抱いていた決闘の場において、彼はついに敗北し、でありながら介入者によって命を救われたのだ。

壮絶な戦いの果てに、ヴブディファールはアクバルクに勝った。獣の如き雄叫びの末、その兜で雄牛さながらに頭突きをしたヴブディファールは、そのままアクバルクの頭蓋を割ったのだ。その様を、ヴースヴァックスはどうすることも出来ずに眺めていた。そして勝利の後、もはやまばらになった戦場で、ヴブディファールは振り返り、ヴースヴァックスに血まみれの手を差し出して、笑った。ヴースヴァックスの耳には、それは呪わしい嘲笑であった。黒竜は雄牛に負けたのだ、彼が誰にも負けぬと自負していた、一対一の戦場で。彼は差し出された手を無視して、そのまま無言で立ち上がった。その態度に、ヴブディファールはやや怪訝な顔をしたが、何も言わなかった。俯いた顔は兜に隠されて、ヴブディファールには、ヴースヴァックスの表情は見えなかった。憎悪と恥辱に満ちたその表情は。

戦いの終わり、彼らは習わしに従って戦利品を堆く積み上げて、火を焚いた。二人は互いのかがり火を積んだ。それは双方の健闘を讃えるためであり、ヴースヴァックスはヴブディファールの、ヴブディファールはヴースヴァックスの戦利品を積んだのだ。そしてヴースヴァックスは、アクバルクの見事な鎧と武具が自らの手によってヴブディファールのかがり火に積まれた時、強く歯を噛み締めた。空を焦がす二つの火柱が躍った時、ヴブディファールの炎の方が高く燃えるのを見て、ヴースヴァックスは拳を握り締めた。いつも、ヴースヴァックスの戦利品はヴブディファールのものよりも少なかった。しかし、その質は勝るとも劣らぬと考えていた。その誇りも、砕け散った。ヴブディファールはいつもと変わらぬ豪放な笑い声をあげ、自らの屠った敵の数を語りつつ、ヴースヴァックスの戦いをも讃えた。炎に照らされた輝ける笑みは、誰が唯一の勝者であるかを、雄弁に物語っていた。

翌日、ヴースヴァックスは一言も交わすことなく、ヴブディファールのもとを去った。二人は対等であるが故に友であったのだ。そして、ヴースヴァックスにとって、彼らはもはや対等ではなかった。彼が歩き去る時、ヴブディファールはその真意を悟りはしなかったが、彼の行動は理解した。だから、ヴブディファールは、立ち去るヴースヴァックスの背に、ただ一つの言葉を送った。

「黒竜よ、良き戦士よ、そして友よ、さらば!」

ヴブディファールは、終ぞヴースヴァックスの真意に、気が付きはしなかった。


 気が付けば、ヴースヴァックスは東方のさる村の目前にいた。すぐそばには、読み取れぬ表情をしたコンラートがいる。それだけで、彼は大体を察した。目的地に着いたのだ。アリベルトのいる場所に。

 長いこと浸っていたようだ、とヴースヴァックスは思った。当然のことでもあった。それは彼の心に刺さる棘であったのだから。彼にはアリベルトを倒す必要があった。そして、ヴブディファールよりも、自身の強きことを示す必要があったのだ。あの日の苦々しい敗北に、いつまでも蝕まれぬために。

 しかしながら、改めて目的地たる村を眺めて、ヴースヴァックスの胸には、一抹の疑問が浮かび上がってきた。

「奴が、騎士アリベルト・ジルバークロイツが、ここにいるというのか?」

 その問いは順当であった。何故ならば、目前に見える村は、寒村とまでは言わずとも、到底栄えているとはいえぬもの。騎士団の修道要塞がある様子もない。ひとかどの騎士が屯するにはあまりにも不釣り合いであった。

「私は嘘をつきます、確かにね。それでも、不幸の報せは事実なのですよ」

それは含みのある言葉であった。

 コンラートに先導されて、ヴースヴァックスは村を進んだ。昼日中、農民たちは忙しく畑で働き、人はまばらであったが、ヴースヴァックスに気が付いた者はその厳めしい鎧姿に恐れをなして逃げていった。その者どもをヴースヴァックスは気にも留めなかった。ただ、村境にある無数の墓標が彼の目を引いた。

「この近くで、最近戦があったのか」

ヴースヴァックスはコンラートに問いかけたが、彼は意味ありげに微笑むばかりだった。

 やがて、コンラートは立ち止った。そこは村の小さな広場であり、そして小丘の上にある教会へと続く道のふもとであった。ヴースヴァックスはコンラートの顔を見たが、彼はただ頷き、そして見返した。その表情は相変わらず読み取れない。しかし僅かに微笑んでいる。そして道を指し示した。

 ヴースヴァックスは丘を登った。教会の前に辿り着くと、動転した様子の村人が数人と、教会の主であろう司祭がいた。村人はヴースヴァックスを見ると声を張り上げ、「あの男だ!」と指差した。司祭はヴースヴァックスに対して、経典を振り上げながら異教徒を糾弾する文言を発していたが、ヴースヴァックスの拳で顎を打ち砕かれてからは、地に伏してピクリとも動かなくなった。そして彼はそのまま、教会の扉を蹴り壊し、中へと入った。

 内部は、幾つもある採光窓によって照らされて、ほのかに明るかった。礼拝の席が並び、祭壇にはオーロンサスの姿を象った十字の聖像が掲げられている。そして最前列の席には、一人の男が座っていた。入り口からは頭しか見えなかったが、彼がアリベルトであることは、もはやヴースヴァックスには明白であった。

 と、男は立ち上がる素振りを見た。当然である。このような狼藉を騎士が見過ごすはずはない。ヴースヴァックスは斧を構えた。緊張と興奮、好敵手と対峙する時にはいつもあった、喜ばしき高揚を全身に感じながら。

 故に、男が立ち上がり、そして向き直って、ヴースヴァックスの前に全身を晒した時、ヴースヴァックスは、衝撃と、そして脱力を感じた。

 彼の目の前に立つ男は、途方もない不具であった。左脚が付け根から欠損し、その代わりを左手の杖でどうにか果たして立っている。極めつけには、男の両目には布が巻かれ、それは彼が盲目であることを示していた。

 ヴースヴァックスは目を疑った。目の前に立つボロボロの男。これが、名うての騎士たるアリベルトであるというのか。しかし、男の腰には剣が下げられ、その鞘には開かれた右手の印、つまりは聖なる手の騎士団の印が刻まれている。それは、男が騎士であることを、或いはかつてそうであったことを、無情に示していた。

「貴様は何者だ」

ヴースヴァックスは男に問いかけた。闖入者が迎えた相手に問いかける、それは奇妙な図であった。その時、いつの間にか背後にいたコンラートが、そっとヴースヴァックスに耳打ちした。

「彼こそがアリベルト。アリベルト・ジルバークロイツです」

ヴースヴァックスの耳に響くその声は、愉悦に満ちていた。だが、彼の目はアリベルトの姿に釘付けになって、コンラートがどのような顔をしているかまでは分からなかった。

「雄牛のヴブディファールは、勝てぬまでも、アリベルトに手酷い傷を負わせたのですよ。彼は死ぬと思われていたのです……それならばどれほど幸運だったでしょうかね。しかし、深手を負い、ながらも彼は生き延びたのです。戦いの後、この村に運び込まれ、治療の末に脚を失い、高熱によって視力を失いながら。哀れなるかな、彼はもはや騎士としての任を果たせぬ体になってしまったのです。教導騎士としてさえも」

コンラートはそう告げると、ポンとヴースヴァックスの肩を叩いた。

「さあ殺しなさい! 幸いにして、敵は手負い。容易い相手でありましょうね。彼を殺し、あなたの強さを証明するのですよ……」

コンラートは笑った。密やかな、それでいて高らかな笑いであった。そのまま、コンラートの気配は影のように引いていき、再び教会内にはヴースヴァックスとアリベルトだけとなったことを、ヴースヴァックスは悟った。

「ヴァハリガンの下僕か」

唐突に、かつての騎士は問うた。だが、ヴースヴァックスは答えに窮した。彼は強き敵を求めて、ヴブディファールを倒した者を求めてやってきたのだ。しかし眼前にあるのは壊れかけた哀れな一人の男。かつてがどうであれ、今や敵ともなり得ない。そのような相手を前にして、堂々と名乗りを上げることなど出来るだろうか? そのような、恥ずべきことが。

しかしながら、ヴースヴァックスが逡巡する内に、アリベルトは返答を待たず、言葉を続けた。

「異教徒に名乗る故は無し」

そう言って、アリベルトは剣に手を伸ばした。その手は哀れに震えていた。だが、それが恐れによるものではないと、ヴースヴァックスには分かった。もはやままならぬのだ、ただ剣を抜く、たったそれだけの行為でも、これまで何千としてきた行為でも。こわばった腕には、引き攣った指には。

 それでも彼は剣を抜いた。迷いなく。震える手で。そして構えた。ようやっと、保持しているだけの剣の刃を。何が彼をそうさせるのだろうか。彼に何ができるというのか。

窓からの光が、立ち塞がろうとするアリベルトを照らした。その時、唐突にヴースヴァックスは見た。アリベルトに、そのかつての姿を。それは鈍色に煌めく鎧に身を包んだ騎士であり、厳しき神オーロンサスに、己を誓った戦士であった。彼は誓いをした。その時に、もはや人たるを捨てたのだ。かつての名を捨て、心も捨て、ただアリベルト・ジルバークロイツとして、忠実なる神の兵士となって。それは信仰である。如何なる姿になろうとも、彼は神の眼差しを忘れず、そして彼の誓いを忘れなかった。ヴースヴァックスは深く理解した。この男はヴブディファールを討ったのだ、と。

もはやヴースヴァックスの心は決まった。彼に迷いはなかった。彼の前にいるのは、一人の好敵手、神に捧げるに相応しき戦いの対手、騎士アリベルト・ジルバークロイツである。そして、ヴースヴァックスは、戦女神ヴァハリガンの戦士にして決闘者である。為すべきことは一つであった。

戦士はその足で、一歩踏み込んだ。騎士は剣を構えたままに、動かない。戦士はさらに一歩を踏み込んだ。騎士は未だ動かない。戦士が次の一歩を踏み込んでも、盲目の騎士は動かなかった。間合いであった。

ヴースヴァックスは斧を振った。一切の容赦なく、無慈悲で、正確で、確実な、これまでに幾つもの猛者を葬り去ってきた一撃、その至高のものであった。それは、或いは、かつてのあの日に、テペシの石丘で、放たれるべき一撃であったのかもしれない。

瞬間、騎士は動いた。彼は杖で自らを支えながらも、片手で斧の刃を受け止めようと、剣を傾けた。ほんの僅かの動作。しかし、その刹那の内に、ヴースヴァックスは無数を見た。アリベルトが戦ってきた数々の戦い。その中で一際輝くものがあった。ヴースヴァックスは見た。アリベルトとヴブディファールがどのように戦ったのかを。ヴブディファールの戦鎚が、どのようにアリベルトの骨を砕いたか、そして最後に、彼の剣が如何にして雄牛の心臓を穿ったか。ヴースヴァックスには、古き友の最期の咆哮、その満足げな死の吐息に至るまでが聞こえた。

振るわれた大斧の分厚い刃は、枯れ枝のようにアリベルトの剣を叩き割った。そしてその勢いのままに、騎士の命までも両断した。一瞬の内に、戦いは決した。だが、ヴースヴァックスは、まるで一昼夜を戦い通したかのような感覚を味わっていた。鎧の下は、大量の汗に濡れていた。騎士は勝利する気でいた。たとえそれが不可能であったとしても。その意志、覚悟は、虚勢などではなかった。

「良き戦い、良き敵であった」

ヴースヴァックスは静かに呟き、その亡骸に背を向けた。


 教会の外に出ると、そこにはコンラートがいた。彼は、穏やかな笑みを浮かべながら、ヴースヴァックスを待っていた。

「如何だったでしょうかね、旧友との再会は」

そこにはいつもの揶揄う調子はなかった。

「奴を妬みはしない」

ヴースヴァックスは言った。

「奴は良き敵と戦い、散った。そして私もまた、強き者と戦った」

そう言いながら、彼は天を見上げた。

「だが悔いはする。ヴブディファールは強くなっていた。かつて共にいた時よりも。そしてそれは……」

ヴースヴァックスはそこで言葉を切った。そして、見上げた眼差しを足下に向けると、兜のひさしの欠けた部分をなぞった。

「私とまた戦うためだったのだと思う」

ヴースヴァックスはそれ以上の言葉を言わなかった。彼は、かつての日を、最後の別れとなったかつての日を思い出していた。今ならば、ヴースヴァックスには、ヴブディファールの想いが分かった気がした。ヴースヴァックスをアクバルクから救い、そして代わりに屠った時、ヴブディファールが何を思っていたのかを。そして別れて以来、ヴブディファールが何を思ってきたのかも。彼は笑った。ヴブディファールの愚かさと、そして彼自身の愚かさを。ヴブディファールはきっと、アクバルクを打ち倒した自身の戦いぶりが情けなかったから、ヴースヴァックスの機嫌を損ねたに違いないと考えていたのだ。そしてまた、ヴブディファールがヴースヴァックスをアクバルクから救ったのは、ただこう思っていたからなのだ。「この男と、もっと一緒に戦っていたい」と。そして今ならば、それがヴースヴァックスには分かった。彼もまた、同じ思いであったから。

 その時不意に、ヴースヴァックスは肩に手が触れるのを感じた。それは、熱く、血に濡れた、分厚い手。あるはずのない手であった。彼があの日に、拒絶した手。

 思わず振り返ると、視線の先、教会の鐘楼に、一羽の鴉がいた。大柄なそれは、真っ黒な視線を、じっとヴースヴァックスに向けていた。

ヴースヴァックスは、そっと見えない手を取った。そこにはまだ、微かな暖かさがあるような気がした。鴉は、微かに頷いたように見えた。

「友よ!」

ヴースヴァックスは斧を掲げた。ヴァハリガンの永遠なる戦場、ハルマゲドンに向かうであろう、古い友への、手向けとして。

「ハルマゲドンにて、いつかまた見えん!」

鴉は高らかに鳴いた。そしてそのまま、遥かなどこかへと、飛び去っていった。

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ハルマゲドンにて、いつかまた 考える水星 @mercuryman

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