涙よ、そして我らを憐れみ給え

考える水星

涙よ、そして我らを憐れみ給え

 世界は残酷であり、痛みに満ちたものである。それは遥か古の生ける神々と人の英雄の時代においても、そして高き神々の時代においても変わらない数少ないものの一つであった。痛みは世界にありふれて、常に血を流した。たとえどれほどありふれていようとも痛みは痛みであり、血を流す者たちにとって耐え難いことに変わりはなかった。

 神政領においても、つまり、オーロンサスの光の地、聖なる手の騎士団による厳格なる秩序の地、全天地聖拝会の恵みの地であっても、それは変わりなかった。むしろ、神政領においてこそ、痛みは真に普遍のものの一つであった。纏嵐の塔の高みから声の届かなくなり、罰の途絶えた時から、太陽の恵みよりも怒れる嵐の尊ばれる時代には、ただ痛みと試練だけがあり、そして如何なる報いもなかった。神の光の時代は遥かに遠く、そこには不信と棄教の時代があり、そして盲目の裁きと罰の時代だけがあった。

 神政領の中心、聖なる都にして神の砦たるストーム・バスチオンでさえ、その神聖な石積みの深みには疑念が渦巻いていた。神政領の東方辺境では特に、それはあからさまであった。血にまみれた異端者たちの言葉は力強く、流血の甘い口付けがもたらす救いに人々の心は揺らめき、そして怒れる騎士たちの剣だけがそれに応えた。粛清の時代には、如何なる迷いも罪であったのだ。迷いなどない時代はとうに過ぎ去り、故に全ての惑いは滅ぼされなければなかった。

 東方辺境において、〈真紅の草原〉と呼ばれる地域は最も血の異端の激しい地域であった。しばしばその平野には冒涜のシンボルが隠すことなく打ち立てられ、幾度引き倒されてもオーロンサスの法への大胆な挑戦は止むことがなかった。〈真紅の草原〉の最も大きな都市や砦は聖なる手の騎士団やそのサイオンによって監督され、守られていたが、世界の全てで遍く戦う騎士たちは、小さな村々や砦、小領主の土地を同じように守ることは不可能だった。彼らはせいぜい最も最低限の教育のみを受けた司祭たちの下で、現地の民兵たちと素朴な信仰心のみで邪教徒たちと戦わねばならなかった。そしてそのあまりにも哀れな防壁は、押し寄せる血の潮流に対してしばしば砂の城であった。


 そして、ある年のことであった。この年、小麦の穂が赤く染まり、その挽かれる時には血を流したので人々は大いに恐れた。汲み上げられた井戸水は鮮血の味が混じり、吹く風の中には確かに聞き取れる悲鳴があった。信仰心はますます揺らめき、騎士の中で最も心の弱い者たちがあまりの信仰の試練に狂いさえした。真紅の月はなかなか去らず、夜毎にその鬱血した姿を晒し、人々を見下ろした。のちに〈乾かぬ傷の年〉として記憶されるこの年には、神政領の各地で苦悦の神たるチェルノカーラの異端が吹き荒れ、数々の血の蜂起があった。世界は血に溺れた。

 そんな中、〈真紅の草原〉地域のとある村、ただ、川辺村として知られているとるに足りない村に、一人の乙女があった。彼女の名はクレマンス、単なる農民の娘であり、他の多くの者と同じく、無知な信仰を抱いているだけの無力な者であった。だが、川辺村がチェルノカーラの信徒に襲われ、村民が近隣の砦に逃げ込んだ時、この小娘の運命を永遠に変える出来事が起こった。

 砦には数人の騎士と、剣の団の兵士が駐屯していた。村人たちを保護した彼らは、そのまま攻め寄せるチェルノカーラの信徒たちを撃退した。だがその過程で、騎士を含む多くが負傷した。チェルノカーラに従う者たちの武器はおぞましく、彼らの教義に従って、壮絶な痛みと出血をもたらす。それらの武器によって引き起こされる事柄の中で、死は最も慈悲深いことに他ならない。負傷者たちは引き裂かれた肉の痛みに呻き、叫び、精強な騎士さえ身をよじった。血の濃い臭いが砦に満ち、生存者たちは震えた。

 クレマンスは負傷者の手当てを手伝っていた。だが、苦痛の叫びは彼女を戦慄させ、生々しい傷口は年若い彼女に吐き気を催させるには十分であり、ぞっとする臭気が鼻を衝いた時、彼女は幾度か嘔吐した。

結局、負傷者たちの傷はあまりにも深刻で、ぎざぎざの忌まわしい切り口は震える手で不格好に巻かれた包帯や不慣れな指が塗った軟膏ではあまりにも手に負えず、溢れ出す血を止めることはかなわず、痛みに満ちた死をやや長引かせる程度の効果しかないことが分かってきた。

 既に血まみれになった包帯に包まれて、床に横たわり、或いは壁にもたれて叫び、泣く者たちを前にして、クレマンスは深い無力感と悲しみを感じていた。もはや息も絶え絶えになりながら、それでも苦悶の呻きさえ押し殺している騎士のそばに跪いた時、それは一層強くなった。

 騎士は腹と腿に深い傷を負っていた。錆びたのこぎりで抉られたかのような傷からは、永遠にジュクジュクと血が湧き出している。それはさながら呪われた泉だった。これらの傷が、自分たちを守るために払われた犠牲であることを理解した時、彼女の心を痛みが貫いた。その痛みは深く深く、負傷者たちの感じていた苦痛に勝るとも劣らぬほどだった。そして、慎ましく騎士に寄り添いながら、いつしか彼女は涙を流していた。

 血に腫れた月の赤い光が照らす夜だった。砦の窓から差し込む月光は零れる涙の雫を照らし、紅玉に変えた。一滴の美しい宝石はそうして騎士に落ち、砕けた。

 そして、奇跡が起きた。騎士は、自身の身を蝕む激痛が、次第に和らいでいくのを感じた。あれほどまでに身近だった死は、少なくとも今、その暗い戸口の裏側に引き返していた。騎士の傷は癒えていた。痛みはなく、甘い快癒の喜びだけがあった。

騎士は打ち震えた。それは痛みのためでなく、歓喜のためであった。神の光が遠のいて久しい時代、もはや裁きさえ存在せず、それを記憶する最後の者が絶えてから遥かの日において、これは彼が初めて味わった恩寵であったのだ。

 一方、クレマンスもまた、知らぬ感覚を味わっていた。それは、啓示であった。遠く、微かではあるが、確固たる啓示。それは神の言葉であり、それは救いであった。そしてその夜、砦で負傷に喘ぐ者たちは、最も死に近づき、その貪欲な口の半ばにあった者でさえ、皆全て癒された。


 その日、砦にいたものは全て、その奇跡に心酔した。そして、その奇跡の信奉者となった。噂は、赤い暗闇に覆われていた〈真紅の草原〉全体に野火のように広がった。痛みに苦しむ人々が、クレマンスの下を訪れた。また、クレマンスも人々の間を渡った。そして人々は、違わず、そして残らず、癒しと救いを味わった。その傍には常にあの騎士があり、彼は付き従う人々の中で最も忠実な者であった。

 啓示は、救いを広めることを求めていた。それは〈真紅の草原〉において、いや、世界において、何より求められていた。救い、救い。慈悲を、慈悲を! クレマンスは、〈我らの乙女〉と呼ばれるようになった。或いは、〈涙の淑女〉とも。クレマンスは生ける聖人となったのだ。


 だが、〈真紅の草原〉の騎士達や司祭は、この奇跡、そして祝福、救済を、疑念の目で見ていた。この怪しげな一団は、あまりにも大胆であった。最も忠実で敬虔な騎士や司祭が垣間見ることさえ叶わなかった奇跡を、その囁きの一片さえ聞くことの叶わなかった言葉を、一介の農民が宿すとは? なんという冒涜、欺瞞であろうか。途絶えた神の、オーロンサスの言葉を騙る! 罪という言葉では形容できぬほどの罪!

 直ちに騎士と司祭による軍勢が組織された。邪悪を滅ぼす準備はできていた。厳粛なる隊列は、異端と最も恐るべき虚偽を振り撒く一団を目指した。

 だが、騎士たちが遂に辿り着いた時、そこに見たのは、邪悪な魅惑と悍ましい詭弁によって人々を従える詐欺師ではなく、あまりにも素朴な娘であった。それを取り巻く人々もまた、純粋な信心によって付き従う穏やかな群れであった。騎士たちは、暫し混乱した。

 その時であった。実に間の悪いことに、二つの集団が介する場に、また別の集団が現れた。それは、チェルノカーラの信徒の、大規模な一団であった。自らを鞭打ち、かきむしり、引き裂き、剝がし、痛みと流血の歓喜に浴する者たち。しかし彼らの様子は普段とは違っていた。彼らは皆武器を下ろし、血に汚れながらも、その病的な笑いは微かだった。

 騎士たちは彼らを見るや、素早く武器を構えた。それが呪うべき邪教の徒にして、滅ぼすべきてきであったからだ。しかし血の一団は、騎士たちが見えていないかのように、クレマンスたちの方へ向かった。

 そして、流血神のしもべたちの中から、彼らの頭目らしき者が歩み出た。彼の両腕の皮は綺麗にそぎ落とされ、剥き出しの上体は無数の生傷が重なり合い、その瞼は切り取られて、取りつかれたような瞳は常に見開かれていた。

 彼はクレマンスに、自分たちがかつては〈真紅の草原〉に住む者たちであったと語った。彼らはオーロンサスの法に従って生きていた者たちであったと。しかしある時、遂に痛みに屈し、その潮流に身を委ね、その先の喜びと救いに、チェルノカーラの偉大な慈悲に、光を見た者たちだと。そして彼らは問うた。救いを広める者よ、貴様は我らにもその救いを見せられるか? 或いは、かつての者たちと同じように、貴様も我らを否定するか?

 騎士たちは口々に罵った。異端者に死を! 赦しなどない! 罪に堕ちた者には罰を! 全ての罪には、ただ死のみを与えよ!

だがクレマンスは違った。彼女は不思議な感情を感じていた。それは、本来彼らに到底与えらえるはずのないもの、つまり憐憫であった。〈我らの乙女〉は、傷そのもののような彼らに、憐れみを感じていた。

 クレマンスは、螺旋状に切り裂かれた男の手を取った。彼女の瞳にはまた、知らずのうちに涙の雫が現れていた。それは堕ちたる者たちへの悲しみ、そしてそれによる痛みから来る涙であった。

 一滴が苛まれた手に触れた時、どこまでも深い血の霧は晴れた。幾重にも重ねられたカミソリのような痛みの奥で脈打っていた喜びは過ぎ去り、そして深い後悔が去来した。もはや、彼はただ血にまみれた、ただの男であった。全ての傷は閉じていた。甘い、甘い赦し。果てない、優しき慈悲の抱擁。

 かつてのチェルノカーラの信徒は、深く跪いた。尊き乙女の眼前に。彼に従っていた全ての者たちも、その安らぎを目の当たりにして跪いた。最も困惑したのは、騎士と司祭たちだった。彼らにとって、慈悲も、赦しも、未だかつて考慮したことさえない言葉であった。それは、彼らの知る法にはない。しかし眼前に、それは起こってしまった。

 何人かの騎士が呟いた。異端だ、と。しかしそれは空虚な呟き、口にした者でさえ、その言葉を相手にしなかった。誰かが叫んだ。神を讃えよ! 声は呼応した。オーロンサスを讃えよ! 彼の新たな時代を讃えよ! 新たなる法の言葉を、慈悲を、赦しを、愛を! その場にいた誰もが、叫び、神と、〈我らの乙女〉を賛美した。

 そして今や、〈真紅の草原〉に留まらず、東方辺境全体に、新たな教えは広まりつつあった。〈我らの乙女〉と、彼女の啓示は万人の歓喜に迎えられ、多くの都市と砦がそれを受け入れた。最も頑固な騎士や司祭であっても、これを異端と断じるのを躊躇い、かつて血に下った者達でさえ、新たな癒やしに続々と集った。人々は語った。沈黙の時代、裁きの時代は終わり、慈悲の時代が、赦しの時代が始まるのだと。神の沈黙は、まさにそのためにあったのだ。オーロンサスは新たな言葉を真に悟る者を待っていたのだ。天空の嵐は、日輪は、大いなる慈悲を伴って遂に帰還するだろう!


 この熱狂はやがて、神政領の中心、ストーム・バスチオンに届いた。実に憂慮すべきものであった。熱狂の渦から遠く離れた地では、〈我らの乙女〉の奇跡はいつかのように疑念を持って受け止められた。騎士たちは憤り、司祭たちは困惑した。物事は普段と異なっていた。異端は即刻殲滅されるべきであり、浄化のため騎士団の軍が派遣されるのが常であるが、これまでにこのような経験はあまりにも少なかったのである。彼らはオーロンサスの法に従っていることを謳っている。最も高位の聖職者たちはこの出来事の解釈に激論を交わした。騎士たちは怒りに剣を研いだが、一方で、再び神の声が戻ったのであれば、それが如何なる言葉を述べていようと、受け入れるべきではないかと言う者もいた。混乱がストーム・バスチオンの上層を覆った。しかし最終的に、一つの決断が下された。それは今までにない、慎重なものだった。

『早急に調査するべし』

これがその決断であった。つまり、異端なのであれば即刻断罪しなければならないし、これが新たな時代の始まりであるというのならば、それを確認し、すぐにでも従わなければならない。どちらにせよ、判断を誤れば、ストーム・バスチオン、神政領の中枢こそが誤れる者たちとなってしまうのである。このため、聖なる手の騎士団と全天地聖拝会は、解釈のために高位の聖職者団を同伴した騎士団の軍を東方辺境に向かわせ、その実態を確認、そして判断がつき次第それに基づいた行動を現地で行う、と決められた。こうして、ストーム・バスイオンから、今までになく疑念に満ちた軍の隊列が出発したのであった。

 この決定は、すぐに東方辺境の各地にも届いた。いつ如何なる時も、ストーム・バスチオンで定められた決定、そして行動は、神の法に従う者たちに伝令されなければならない。だがその内容は、こうであった。

『〈我らの乙女〉とその一派は許されざる異端。執行の団既に発てり』


 それからの出来事は、東方異端として記憶されている。ストーム・バスチオンからの使者、実際にはそれを装った陰謀の蛇神エリロキスの信者たる裂け舌どもであった。言葉は歪められ、偽りの死刑宣告を受け取った東方辺境の騎士達は、即座に〈我らの乙女〉に共感する者たちを攻撃した。当初は彼らに共感的な姿勢を見せていた騎士や聖職者たちも、判断を決めかねていた者たちも皆、この伝令を受け取るや容赦ない粛清に乗り出した。執行の団が到着する前に全ての罪と穢れ、異端を焼き尽くさなければ、自分たちが断罪されることになると悟ったからである。だが、あくまで〈我らの乙女〉を信じた騎士や聖職者たちもいた。彼らはストーム・バスチオンこそ異端に堕ちたと断じ、そして騎士達の同士討ちという凄惨な光景が繰り広げられた。民衆の多くは救いを信じ、東方辺境では内戦が荒れ狂った。そして東方辺境に到着し、この惨状を目の当たりにした「執行の団」-実際にはまだ調査と解釈の段階であったストーム・バスチオンからの軍-は、与えられた任に基づき、このような争乱を引き起こした〈我らの乙女〉は異端であると判断したのである。絶望した民衆たちが彼らを襲撃するということが幾度かあったのも、この判断を決定付けた。

 聖戦が始まれば、所詮力の差は歴然であり、東方辺境においてその勢力は燃え広がるのが早かったのと同じに、急速に消えた。

だが〈真紅の草原〉においては、〈我らの乙女〉の奇跡を実際に目の当たりにした人々の信念と決意は堅かった。この地は一丸となって、あくまでストーム・バスチオンの暴虐に立ち向かうと決めたのである。この地の人々は、騎士も聖職者も全ての民兵たちも、一つの大要塞に集い、そこを決戦の地と定めた。また、要塞はかつての名から〈淑女の護り〉へと改名された。

この頃、〈真紅の草原〉には流言が飛び交っていた。その多くは権力欲と異端に駆られたストーム・バスチオンの騎士と聖職者たちが、オーロンサスの言葉を認識しながらも無視したという内容であった。これらの流言もまた、エリロキスの蛇舌たちによって広められたものであったが、無知に狂信を併せ持った人々の耳には、全てが真実として響き、迫る軍との戦いを避けられないものとした。人々は語り合った。〈我らの乙女〉が伝える言葉こそ、その救いと奇跡こそ真実である。かつての神の家は長き沈黙の果てに、堕落に屈したのだ! 正しきは我ら、オーロンサスは我らにあり! 彼の法は我らにあり! 嵐は迫る異端者を悉く打ち滅ぼすだろう!

 そんな中で、〈我らの乙女〉ことクレマンスは、着々と戦争の迫る中で不安と動揺を感じていた。遥か遠く、司祭の説教の中でしか聞いたことのないストーム・バスチオンが自身に異端を宣告したというのは信じ難いことであった。神の啓示を受けたとはいえ、所詮は農民の出の年若い小娘。信者たちが祭り上げたような決然たる神の使徒はそこにはいなかったのである。

 だが、彼女のそばには未だ、あの日の騎士がいた。彼は依然として忠実なクレマンスの支持者であった。言葉少な、寡黙な騎士は他の熱狂的な信者たちのように声を張り上げることは少なかったが、常にそばで彼女を護り続けていた。その姿を見て、またその揺るがなさを見て、クレマンスは〈我らの乙女〉たる決意を固めた。このところ、彼女の頭に響く啓示の声は依然として遠かったものの、この争乱にあってますます力強くなっていた。


 やがて、ストーム・バスチオンからの軍は〈真紅の草原〉に到着した。東方辺境全体を包んだ動乱によって、彼らの鎧は戦に汚れ、異端に対する憎しみは燃え盛り、神の法と秩序への冒涜者への怒りは猛り、偽の伝令が伝えた執行の団は今や現実となっていた。一方、〈我らの乙女〉に付き従う者たちもその知らせを受けて、〈淑女の護り〉から出陣した。〈真紅の草原〉全ての人々を集めた軍は、寄せ集めではあったが、壮大で、聖戦の誓いに満ちていた。そして彼らを、〈我らの乙女〉は鼓舞し、率いた。

 会戦は濁り川を挟んだ平野で行われた。川の対岸に布陣した〈我らの乙女〉の軍は渡河するストーム・バスチオンの軍を迎え撃ったが、騎士団の最精鋭で構成された軍団は重たく、そして、怒りに満ちていた。浅く広い濁り川を彼らは文字通り嵐のように突き抜けると、その先に待っていたのは殺戮だった。

最も強力な祝福で防護された戦士たちはオーロンサスの裁きとして、異端の軍を斬り伏せた。それに対抗し得るのは同じくかつてストーム・バスチオンに仕え、そして今は道を違えた〈真紅の草原〉の騎士たちだけだったが、彼らの数は少なく、壮絶な戦いの前に多くが討死した。また、戦闘司祭たちはそして彼らの聖なる怒りをオーロンサスの雷として振るい、無防備な民兵たちを焼き焦がした。そして装甲された馬に跨った騎士たちが突撃を果たした時、ついに軍は潰走した。真の聖戦軍の前に、寄せ集めの狂信者たちは虚しく散った。濁り川には無数の躯が流れた。

 それでも〈我らの乙女〉と残存兵たちはなんとか逃げ切り、〈淑女の護り〉に籠城して最後の抵抗を試みた。だが、攻囲戦は迅速かつ無慈悲で、〈淑女の護り〉の名も虚しく、壁は崩れ、城門は破られ、ついに軍が要塞内に雪崩れ込み、中庭で最後の守備隊と衝突した時、無慈悲な虐殺が行われた。もはや抵抗の意思を失った者も、逃げ延びようとした者も、最後の抵抗をしようとした者も等しく斬り伏せられた。神の怒りが至る所で轟いた。死の嵐は吹き荒れたのだ。

 老いも若きも殺された。異端の者には死のみが与えられた。そして、〈我らの乙女〉も、その壮絶の中で茫然と祈りの言葉を唱えているところを捕らえられたのだった。


 クレマンスは今、無数の死体の転がる中庭に引き出されていた。殆どの騎士たちは〈真紅の草原〉全体の断罪のために要塞を後にし、クレマンスに裁きを下すための少数のみが残っていた。哀れな乙女は今、震えていた。その口からは、ぼそぼそと単純な聖句が抑揚なく漏れ出している。娘は最早気が触れているようだった。

 死、死、死。そこには死だけがあった。切り裂かれ、焼かれた無数の亡骸。その中を、屈強な騎士に連れられて、茫然自失の娘は歩いている。クレマンスはその大罪のために、ストーム・バスチオンまで連行し、その道中においては人々に憎むべき大悪の姿を晒して見せ、そして処刑するのが良かろうという判断がなされたのであった。

 中庭を半ばまで歩いたところで、彼女は何かに躓き、倒れた。無理矢理引き起こされた彼女が前を見ると、そこには厳格な騎士たちが待っている。彼らの目は一様に憎しみに燃えて、許されざる大罪人を見つめている。

 彼女は困惑した。何故彼らは私をそんな風に見つめるのだろう? 私はただ、人々に救いをもたらしたかっただけであったのに。神の啓示に従っただけであったのに。

 その時、「見よ」と隣に立つ騎士が言った。見よ、この惨劇を、と。これが、お前のもたらした破滅なのだ。人々を惑わし、妄言を吐き、怪しげな妖術を用い、そうしてあまりにも多くが斃れた。この死は全て、お前がもたらしたのだ、と。

 撒き散らされた臓物、濃い血の臭い。死の悍ましい全て。時は夜、赤き月はまだあった。そして彼女を照らしていた。その中で彼女は、一つの躯に気がついた。それは、ついさっき、彼女が躓いたものであった。

 それは、かつての騎士、クレマンスが最初に癒し、それからずっと彼女に付き従った、あの寡黙な騎士だった。そのはらわたは今や剥き出しに溢れて、右腕は無惨に切り落とされて彼の足元に転がり、鎧はひどく破損して、空虚な目がその下から空を見つめていた。そこで彼女はようやく正気に戻った。そして、全てを理解した。彼女を慕った全てのものは死んだ。慈悲もなく、救いもなく、赦しもない。全てが死に絶え、それは彼女の責任である。

 口から流れていた聖句は止んだ。まるで喉を詰まらせたかのようにクレマンスは嗚咽し、えずいた。娘の小さな心臓は一瞬死んだかのように止まった後、速足で鼓動を打ち始めた。誰もが死んでいる。誰もが死んでいる。罪にまみれて。彼らの死肉を月が無情に照らしている。もはや取返しもつかず。

クレマンスの瞳から雫が流れた。それは、もはや嘆きようもない果てない絶望から零れ落ちた、たった一滴の砕けた心の欠片であった。雫はあの日のように、騎士の上に落ちた。だが死した騎士はもはや死んだままであった。もはや狂気もない。薄氷に落とされた石、そして薄氷こそは、クレマンスの心であった。

 その時、突然に啓示の声は、はっきりと聞こえた。殺戮の最中、鳴り響く鐘のように叫び、それでも依然として不明瞭だった啓示は、彼女をどこまでも突き刺し、砕いた痛みを通して、今ようやく届いた。


 それは哄笑であった。震え、身悶えし、その中で響き渡る哄笑。遥かな痛みと血の先で轟く哄笑。笑いし黒龍、血を流す神、痛みに愉悦する者、チェルノカーラの哄笑であった。全ての痛みの救い主。どこまでも高らかに、歪み、狂い、叫ぶ笑い声。永遠の帳の向こうから届く壊れた笑い。

 最初から、オーロンサスの言葉などなかったのだ。沈黙の時代は変わらず沈黙の時代であったのだ。全ての奇跡も、言葉も、それはかの神のものであったのだ。血を流す月の眼差しの下で起こった奇跡が、どうしてそうでなかろうか? 慈悲も、救いも、全てはかの神のものであったのだ。彼女の心に痛みの宿った、その時から。

 風が吹き、千切れた旗を揺らめかせた。風は叫んでいた。月は充血した目のように見降ろしている。その中でクレマンスは笑った。引き裂くような笑いだった。それはチェルノカーラの哄笑であり、心砕けた者の悲鳴、そして安らぎであった。もはやその二つの眼からは、涙は流れなかった。代わりにそこからは、夥しい血が流れ出した。赤い奔流は頬を染め、全身を赤く汚し、それでもなお溢れ、地に流れた。

 騎士たちは恐ろしいことが起こっているのに気がついた。いつの間にか、〈淑女の護り〉の燻る廃墟の上空は赤黒く染まっていた。その空に向けて、渦巻く空に向けて、哄笑は高く高く響いている。空からは猛烈な勢いで血の雨が降りつけた。要塞に散らばる無数の亡骸が、八つ裂きにされ、焦げた、死した骸たちのその全てが、顔を歪めて笑い声を上げている。身をよじり、震え、叫びながら。痛みのもたらす喜びに打ち震えながら。

「魔女を殺せ! その魔女を殺せ!」

騎士の一人が叫んだ。一時は呆気に取られていた騎士達だったが、彼らは気が付いたのだ。ここで止めなければ何かが手遅れになるということに。ひょっとすると、もう手遅れかもしれないということに。

クレマンスの近くにいた騎士は素早く剣を抜き、その刃を振りかぶった。だが、次の瞬間、彼の鎧の隙間から血が噴き出し、彼は絶叫した。彼は剣を取り落として地に倒れたが、なおも身悶えた。まるで生きながらに燃やされているかのように、彼は叫び、転げ回った。耐え難い絶叫と共に彼がその兜を脱ぎ捨てた時、その顔は千々に切り刻まれ、その傷の上からさらに千の裂傷が刻まれつつあった。

 すぐに他の騎士たちも同様になった。彼らの体は千に切り刻まれ、切り刻まれた上で、なおも切り刻まれる。それは血の雨粒の一つ一つに満たされたチェルノカーラの祝福であった。無限の痛みの祝福、終わりなき流血の愛、喜ばしき苦悶の渦。

 周囲に騎士たちの悲鳴が響く中、クレマンスの体にも、無数の傷が現れていた。それはかつて彼女がその涙と共に癒してきた無数の痛み、その傷であった。そして傷口から血は流れに流れ、小川は交わり偉大な一つの流れとなっていく。途絶えることない血の渦の中から、茨のような棘が伸び、彼女の体を縫うように貫き、巻き付いた。それは聖なる象徴だった。痛み、救いへと至る痛み、魂の安らぎへと至る痛み、魂を壊す痛みの。

 死者たちは今や不可思議な力によって立ち上がり、その苛まれた姿のまま跪き、クレマンスを取り囲んでいた。〈我らの乙女〉よ、と死者たちは叫び、手を伸ばす。〈我らの乙女〉よ、〈我らの乙女〉よ。我らの慈悲、我らの憐れみ。涙よ、聖なる涙よ。我らに痛みをもたらし給え。そして救いを与え給え。その様はまさしくかつての日の再現だった。だが〈我らの乙女〉はもはや肉の傷を癒さない。彼女は魂を救うのだ。クレマンスはもういない。痛みによって祝福されし乙女よ、茨の淑女にして、血の涙を流す者よ。人々は讃美歌を歌った。それは風に混じる悲鳴だった。そして血の奔流は要塞を包んだ。




 他の騎士と司祭達が〈淑女の護り〉の廃墟に戻った時、そこからクレマンスは消えていた。要塞の死体は皆安らかにその瞼を閉じていた。それはもはや脅かされることのない眠りであった。騎士と司祭たちは黙って要塞の廃墟を浄化し、完全に破壊した。〈真紅の草原〉もまた騎士たちの手によって完全に抹消され、もはや地図にも残っていない。〈東方異端〉は終わった。この時からである。時折、血を流す者たちの夢の中に、ずたずたの一人の騎士を従えた、血の涙を流す乙女が現れるようになったのは。乙女はいつも微かに微笑み、そしてチェルノカーラの祝福をもたらした。彼女を崇める人々はいつしか彼女を、〈我らの乙女〉と呼ぶようになった。

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