風と鴉
考える水星
風と鴉
今より昔、何百もの戦争が起こる前、しかし何千もの戦争の後の時代、ある一体の使徒がいた。そのものは、血狂いの戦神、女神ヴァハリガンの写し鏡にして僕(しもべ)、虐殺の姉妹と呼ばれる使徒の一体であった。名をヴァラグゴアといい、屍山血河の戦には常に真っ先に現れることから、『先触れの』ヴァラグゴアと呼ばれていた。彼女は他の虐殺の姉妹と同じように女神の濡羽色の髪を持ち、しなやかな人間の女の体を持ち、半身は鴉であった。そして見上げる背丈をしていた。
常に戦いと死を求める虐殺の姉妹は、女神ヴァハリガンの庭である『ハルマゲドン』の、その中にある『永遠の戦場(いくさば)』で、女神に迎えられた戦士たちの魂と共に終わりなき戦いに浴している。だがヴァラグゴアは、時折魂の領域から人間界に飛び立って、力強い定命の戦士に戦いを挑むことを好んだ。そして惨めに戦った者は足の鉤爪と鋭い牙で八つ裂きにして食い殺したが、よく戦った者には名誉ある死を与えた。それは彼女の慈悲であった。
また、同じ時代、ある一人の戦士がいた。春なく夏なく、暮れる秋と厳しい冬に閉ざされた遥か北のボレアリスからやってきた若き戦士は、その名をヴィンドルといった。彼は山から吹き下ろす暴風のような力で立ち塞がる者を軒並み粉砕し、彼の戦鎚は『楯砕き(たてくだき)』と呼ばれた。またある時、彼は知られぬ遍歴騎士との決闘の末に、彼自身も打ち砕くことのできない聖盾に出会った。ヴィンドルは長く厳しい戦いの果て、持ち主の騎士を打ちのめした後に、未だ傷一つないその盾を拾い上げ、『不撓不屈(ふとうふくつ)』と名付けて自身のものとした。それ以来、『楯砕き』と『不撓不屈』を振るうヴィンドルは大いなる賞賛と畏敬、そして羨望と嫉妬の的であった。彼の歩むところはどこでも、挑戦者たちの打ち砕かれた頭蓋骨が白い道を形作り、そして『骨の道の主』にあやからんと、その血濡れた白骨の石畳を辿り、ヴィンドルに追従する者も数多く現れた。ヴィンドルはそんな者たちには注意を払わなかったが、その沈黙が、かえって彼の信奉者を増大させ、忠誠を誓う者たちは日に日にいや増すばかりだった。
ある時のことである。いつものように荒野を彷徨っていたヴィンドルは、自身の背後でぞろぞろと列をなす戦士たちに目もくれず、新たに現れた挑戦者の頭蓋を叩き割っていた。挑戦者は今日で三人目であり、この無謀な者は、鴉の羽飾りを髪に着けた、女神ヴァハリガンの祝福を求める女戦士だった。
女は善戦した。ヴィンドルの防御を巧みにかい潜り、彼女の槍を突き立てて、彼の胸甲にいくつかの傷を付けさえした。しかし最後には、彼女は膝をつき、その頭をヴィンドルの分厚い鉄靴が踏み砕いた。新たな勝利に追従者たちは歓声を上げ、盾を打ち鳴らしたが、やはりヴィンドルは無関心のまま、女から価値ある戦利品を手に入れようと亡骸を探っていた。この場合は、女の血まみれの髪飾りが適当に思われた。微かな祝福、そして人の祈りと情念が込められたそれを彼は自身の首飾りの一部にするつもりであったのだ。
しかし、ヴィンドルが今まさに髪飾りに手を伸ばした瞬間、女の髪飾りが突然に激しく火を噴き上げた。否、女の亡骸そのものが炉の石炭のように燃え上がっていた。
伸ばした手を逆巻く炎の舌に舐められて、慌ててヴィンドルは手を引っ込め、そして後ずさった。ばちばちと、枯れ木をくべた焚火のように遺骸は勢いよく焼けている。そして、やにわに空が薄暗くなった。見上げると、晴天の空はいつの間にか黒雲のような鴉の群れに覆われていた。辺りはすっかり、何千もの羽ばたきとさえずりの喧騒に包まれた。そこにいる者の誰もが、最も鈍い者でさえも「何ものか」の到来を予見した。
空気が、鍜治場のように赤熱した。渦巻く熱風が剥き出しの肌を見境なく焼いた。鴉はひときわ激しく鳴いた。燃える死体は、ますます高く燃え上がった。そして、そのかがり火のような炎の渦から、『先触れの』ヴァラグゴアは現れた。次元の壁を破る魂の、万雷の叫びを伴って。
女神の娘、戦の乙女、恐ろしき虐殺の姉妹は死すべき者たちの世界にその漆黒の翼を広げて現れた。その足の鉤爪は、熱された鉄のように赤い女の魂をしっかと掴み、そして容赦のない深紅の瞳は彼女の両の手の剣よりも激しく燃え立って、確かに視線を足元の哀れな定命の存在―ヴィンドル―へ降り注がせていた。ただもうそれだけで、生半(なまなか)な者は恐怖で魂まで焼かれてしまっていただろう。
「人間よ、死すべき者よ、そして我が前に立ち、なお恐れない猛き戦士よ!」
ヴァラグゴアは叫んだ。それは人間の娘の声と鴉の鳴き声を混ぜ合わせたような、ひどくがやがやとして耳障りで、しかし不思議に透き通った威厳のある声だった。
「お前に告げよう、私が告げよう、お前の死すべき定めを、お前の死すべき肉体を、血の栄光で飾ってやると!」
ヴァラグゴアは高らかに告げると、足に掴んだ女の魂を焼き尽くして女神の待つ『ハルマゲドン』に送り、そしてゆっくりと地面へ舞い降りた。湾曲した、鴉というよりはむしろ鷲に似た巨大な爪が地面を抉り、大地は身震いして微かに震えた。
それは明確な死の挑戦だった。ある者にとってはこの上ない栄光の、またある者にとっては恐ろしい破滅の。終わりなき戦いへの栄誉の門、或いは終わりなき呪いへの暗い穴。そしてそれはヴィンドルへと向けられていた。その場にいる誰もが、息を吞んだ。
だがヴィンドルの答えは、誰にとっても予想外のものだった。
「丁度いい!」
彼は声を張り上げて叫んだ。
「丁度いい!」
彼はもう一度叫ぶと、その場を取り囲むように並んで、自然と闘いのサークルを形成していた自身の信奉者たちを見回した。
「ここには数多の戦士達―少なくとも自身を戦士だと主張する輩どもがいる。しかしお前たちがお前たち自身の価値を証明するところは一度も見なかった。つまりだ!」
ヴィンドルはそこで一度息を吸い込むと、兜の下から獣のように唸り、笑った。
「丁度いい機会だとは思わぬのか?」
一瞬、墓場よりも静かな沈黙が訪れた。そして、ヴァラグゴアがヴィンドルの言わんとするところを察し、怒りの咆哮を上げようとした時には、沈黙は戦士たちの野蛮な鬨の声にとって代わられていた。
たちまちに、武器が煌めき、叫び声がこだまし、こすれ合う鎧の金音が鳴り響いた。彼らがチャンピオンとして崇める男の前で己の力を証明するために、彼らは我先にとそれぞれの得物を掲げて唸りを上げる虐殺の姉妹へと向かっていった。そしてそれを、焚きつけた張本人であるヴィンドルは一歩下がって冷静に眺めていた。
しかし、混沌の時間は意外に短かった。何故なら、勢い勇んだ戦士たちは怒れるヴァラグゴアの手で、次々に血祭りにあげられていたからだった。
ある者は燃える剣で真っ二つにされ、炎上する二つの肉塊となった。ある者は巨大な体躯に踏み潰され、或いは強靭な鉤爪で骨を掴み砕かれ、八つ裂きにされていた。最も勇猛な者たちが、この世ならざる力を持つ使徒の前に血を流しながらなすすべもなく斃れていくにつれ、威勢の良かった戦士達も勢いを失い、立ちすくみ始めた。辺りはすっかり血の池となり、湯気を上げる臓物の小山がそこかしこに積み重なって、焼けた肉と焦げた血と共に吐き気を催す悪臭を放っている。上空では鴉が饗宴に心を躍らせて歌っている。そして殺戮の絵画の中心で、ヴァラグゴアは怒り狂い、憤激し、激昂し、彼女の雪白の裸体を、艶やかな羽毛を、鮮烈な血で染め上げていた。
「その程度でよかろう!」
その時、ヴィンドルが歩み出た。地獄の如き惨状を前にしても、ヴィンドルはあくまで落ち着き払っていた。彼が声を上げた時、ヴァラグゴアは剣に突き刺した男の、装甲に覆われた腹を食い破り、そのはらわたを食い散らしていた。
しかしヴィンドルが歩み出たことで、ヴァラグゴアは貪っていた男の残骸を投げ捨てた。彼女の煌めく双眸は今や完全に、彼女が名誉ある死に値すると考えた男を見据えていた。
彼女は走り出した。鱗の生えたその脚で、鉤爪で濡れた地面を抉りながら。ヴィンドルはただ、立ち、彼の手の中で彼の『楯砕き』を一度回し、そして『不撓不屈』を力強く構え、迫り来る戦争の化身を迎え撃った。
血、死、炎。その中で彼らは戦った。鴉は嵐のように渦を巻き、荒廃と殺戮の歌を奏でた。雲も風も、今ばかりは歩みを止め、時さえも流れるのを忘れた。運良く生き残り、そしてその場に留まり続けたヴィンドルの追従者は、全てを破壊する虐殺の姉妹と、恐らくは人間の中で最強のチャンピオンとの戦いを見た。それは仮に神々の戦いのあったなら、その縮図とはこうであろうというようなものだった。強者の、城すら砕くような戦鎚が、ヴァハリガンの娘を打つたび、炎が踊り狂った。殺戮の齎し手(もたらして)が、人の背丈ほどもある二本の燃える剣を振るい、その重たい刃が『不撓不屈』の表面を襲う度、火花が舞い飛んだ。永遠に終わらぬような、それ自体が永遠であるかのような戦いが続いた。しかし、永遠の中にあっては、必滅の者は不滅の魂に膝を屈する運命。悲しいかな、ヴィンドルはヴァラグゴアがこれまで栄光の中に迎えたどの戦士よりも良く戦ったが、次第に劣勢になりつつあった。一つ、彼が戦鎚を振るうたび、一つ、彼が盾を掲げるたび、彼の腕は重くなっていく。一つ、彼の鎧に傷が増えるたび、戦いの終わりは近づいていった。
そして、決定的な時が来た。疲労から来たほんの僅かの防御の隙、それを突いてヴァラグゴアが振るった左の剣の一撃が、彼の胸甲を深く切り裂いた。それは致命傷でこそなかったが、戦いを終わらせるには十分すぎるものだった。ついに、無敗の者は戦いの最中に膝を屈した。それは、天賦ともいえる彼の人生で初めてのことだった。息をすることさえ忘れて、ただ戦いに見入っていた周囲の者たちは感嘆し、声を漏らした。狂気のような炎の舞は終わり、鴉は最早歌うのをやめて御馳走の品定めを始め、風も雲も元の無関心な放浪に戻った。時は再び流れ出した。
「良く戦った。戦士よ、強き者よ。お前は女神に最も愛されし者となろう。我が主の最も恩寵受けし者となろう。お前は終わりなき祝福の中で戦の母に迎えられるであろう。ああ、我が母の伴侶としてさえ迎えられるかもしれぬ。無限の栄華と共に、お前は永遠に勝利せし者となるだろう。臆することなく、恥じることなく、栄光の門をくぐるがよい」
ヴァラグゴアは今や武器を下ろし、静かにヴィンドルを見下ろしていた。
「さあ、選べ、戦士よ。如何様にも、お前の望むように切り裂いてやろう。そして、その肉を最大の栄光で包み、その魂を送ってやる。お前は、老いることもなく、最盛期に死ぬのだ。我が手によって、名誉と共に」
周囲の者たちは、彼らの英雄たるヴィンドルがどのような死を選ぶのか、固唾を飲んで見守っていた。彼らは、その終わり方がどのようなものであれ、それを今後一生、伝説として語り継ごうと心に固く誓っていた。
膝をつくヴィンドルを、ヴァラグゴアは燃える眼で見下ろしている。しかしその眼差しから先ほどまでの激情は消え去り、そこには敬意、そして、戦乱と殺戮をしか知らぬ使徒にそのような感情が抱けるというのなら、ある種の慈しみと愛情さえもあった。彼女は、静かに見下ろし、剣を震わせ、この種の存在には滅多に見られない忍耐力で、ヴィンドルの選択と答えを待っていた。やがて、それは来た。
「私は死なん」
そう口にした時には、ヴィンドルはすでに動いていた。彼は力なく垂れていたはずの腕をしならせて、飛び掛かる獣のような素早さで、今日の日までずっと、確かに彼の敵を打ち砕いてきた戦鎚を振るった。
虐殺の姉妹は、生まれながらに殺戮の天才であり、人間の最高の戦士よりも優れた感覚と技術を持っている。しかし彼女でさえ、まさかヴィンドルが立ち上がろうとは思っていなかった。彼にまだ動く力の、意志のあろうとは見抜けていなかった。そして、その驚きと僅かな油断が彼女の防御を貫かせた。
致命的に重たい鎚頭が、ヴァラグゴアの剥き出しの胸にめり込んだ。白い肉が裂け、その奥に秘められた溶鉄の血を噴出させた。
かつて被ったことがないほどの深手、痛手。ヴァラグゴアは苦痛に叫び、その金切声は絶命した鴉の雨を引き起こした。しかし、それでも、彼女は未だ斃れなかった。
ヴァラグゴアは苦しみに身もだえしながら、燃える血をだらだらと垂れ流し、後ずさった。ヴィンドルもまた、死力を尽くした一撃の後に追撃をする余力はなく、ハアハアと息を吐いていた。そしてお互いはまた向き合った。
「人間よ、お前を誇りに思おう、お前と戦ったことを誇りに思おう。そして、お前を何としても我が主の御許へと導こう」
ヴァラグゴアはぜえぜえと荒い息を吐き、口の端から血を溢していた。それでも、未だ戦いの炎は瞳の中で高く燃えていた。しかし同時に、この現の身がもはや長くはもたないことも理解していた。
「その申し出は光栄だが、私は如何なる神の御許へも行かぬ。私は如何なる神にも頭を垂れず、如何なる主にも忠誠を誓わぬ」
ヴィンドルもまた、深手に喘いでいた。ヴァラグゴアの魔法の剣で切り裂かれた胸の傷は、出血こそしなかったが、肉の内で燃え続け、気の遠くなるような痛みを生み出していた。しかし彼は未だ、毅然と両の脚で立ち続けていた。今にも崩れ落ちそうな肉体を、消え去りそうな魂を、繋ぎとめておくために。
「何故か。何故に、頭を垂れぬ。祈りを捧げぬ。主に仕えぬ。それが人であろう、それが死すべき者であろう。神に捧げぬ人の子に、一体何の加護があろうか。ましてや、お前ほどのものであれば、如何なる神に仕えるも、如何なる主に仕えるも、思うがまま。如何なる祝福も、如何なる名誉も、望むがままであるであろうに」
「ああ、確かに。ああ、確かに! 私は驕るわけではない。だが、お前の言うように、私であるなら、如何なる栄華も祝福も、きっと望むがままであろう。しかし、お前は言った。頭を垂れ、祈りを捧げ、主に仕えるが人であろうと。そうだとも。人とは、人とは。それが人である。であるから、であるからこそ、私は何ものにも頭を垂れず、祈りを捧げず、主に仕えぬのだ」
ヴィンドルは、『楯砕き』を引き摺りながら、ゆっくりと一歩を踏み出した。
「ああ、信ずる者は強い。今日のあの女のように。ああ、捧げる者は強い。かつてのあの騎士のように。ああ、仕える者は強い。全ての人がそうであるように。ああ、ああ、彼らは皆、強い。魂の最後の一片までも打ち砕かれんとする時に、彼らはまだ立ち続ける。もはや、彼らにそれは不可能であるはずなのに。彼らの信仰が、祈りが、使命がそうさせるのだ。だからこそ、私は何ものにも依らぬ。私を支えるものの無い時に、それでもまだ私が立ち続けた時、それが私の真の強さであると思うからだ。そしてそれは……人の強さでもあるはずなのだ」
ヴァラグゴアも一歩を踏み出した。両者が共に、これが最後であると知っていた。
「愚かな。人の強さ。それは確かにあるのかもしれぬ。私は知らぬ。だが、所詮それは死すべき定め、滅びる定め、衰退する定め。いかに強き者であっても、やがては老い、弱り、失われるのだ。哀れなる、永遠ならざる者ども。私にはそれが見ていられぬ。いずれ失われていくのなら、ああ、最も偉大なる時に、我が手を以て、栄光と共に終わらせてやるべきなのだ。そして迎えてやるべきなのだ。戦士が永遠に戦士であれる場所へ。我が母の手元へ。お前を迎えてやろう、お前を導いてやろう、お前を祝福してやろう、お前を抱擁してやろう。来るのだ、戦士よ、やがて死すべき、しかし死するべきではない者よ!」
もはやそこに永遠は無かった。ただ、雲の流れ、風の吹き、そしていつまでも続くような一瞬だけがあった。二人の武器は同時に煌めいた。
勝利したのは、ヴィンドルであった。
燃え盛る両刃(りょうじん)は、これまでのどれよりも鋭く、素早く、致命的で、正確であった。だが、ヴィンドルの渾身の一撃は、それよりも早くヴァラグゴアを打ち抜いた。そこには、何の奇跡も魔術もなく、ただ結果だけがあった。
「……私の弱さが、そしてお前の強さが、あるはずだったお前の栄光を、永遠に失わせたのだ」
ヴァラグゴアは、打ち抜かれてもなお立っていた。しかし、彼女の現の肉体は、すでに崩壊を始めていた。神々の使徒は、物質によっては決して死なない。現の身が崩れ去れば、すぐに、不滅の魂だけが、彼女の故郷へと戻るだろう。そして、何よりも苦く悲しい敗北だけが彼女の貫かれた胸に残るだろう。
だが、ヴィンドルは、彼なりに思うところがあった。そしてそのために、これをこのまま終わらせるつもりはなかった。
ヴィンドルは、消え行くヴァラグゴアに彼の盾、『不撓不屈』を掲げた。その盾はかつて彼が遍歴騎士から奪ったものだった。『不撓不屈』には、驚異的な守りの祝福が授けらていた。だが、それだけではなかった。この盾は、騎士の仕えた教会によって、騎士にその使命と共に授けられた聖遺物、異端の神の、その邪悪な使徒の魂を封じ込める、悪魔封じの盾であった。
盾が、黄金の輝きを放った。その光は炎の塵と消えていくヴァラグゴアを捕らえ、そしてこの強大な虐殺の姉妹を、千の光の糸へと変え、盾の中へと吸い込んでいった。彼女は拒絶の叫びを上げたが、弱り切り、打ち倒された彼女の魂は、それに抗う術を持たなかった。やがて、彼女は完全に、盾の中に閉じ込められた。
「お前は勝者だ……私を支配する権利はある……だが、何故だ……?」
ヴァラグゴアは、憤るよりも困惑しきっていた。
「お前に、見せたいものがあるのだ」
強大な存在を打ち負かし、あまつさえ聖遺物に封じ込めるという大業を成し遂げ、すっかり疲弊しきったヴィンドルは、荒れた地面に倒れ込みながら、ただ言葉少なにそう答えた。そして、そのまま死のような眠りに落ち込んでしまった。取り残されたヴィンドルの追従者たちは、しばらくの間、自分の目撃した偉業を受け入れきれずに途方に暮れていたが、やがて静かな感動と共に立ち上がると、皆、一言も交わさぬまま、厳粛な畏敬の念でもって、眠りにつく英雄を囲み、彼が目覚める瞬間まで、偉大な彼の眠りを妨げる者のいないようにした。
それから一昼夜、ヴィンドルは眠り続けた。その間、彼の忠実な護衛達は一歩も動かなかった。やがて彼が目覚めると、彼はその者たちに告げた。ただ、ついてこいと。
彼らは、ヴィンドルの故郷たるボレアリスへと旅をした。その間、盾に封じられたヴァラグゴアは一言も発さず、あえてそれに触れる者もなかった。そしてボレアリスの、急峻な山々の見下ろす凍てつく平野にたどり着いた時、彼らは協力して、そこに一つの小さな城館を建てた。その館で、ヴィンドルは付き従った戦士たちを鍛え始めた。今までずっとヴィンドルに仕えることを望み、そして今回の戦いを目撃してより一層畏敬の念を深めた彼らは、ヴィンドルに戦いを教われることに狂喜し、この世のどんな弟子よりも熱心に師事をした。やがて、伝説の戦士がボレアリスの荒野の館で弟子を鍛え上げているという噂が広まるにつれて、その名に、そして栄光に憧れた多くの者が戦士たちの輪に加わらんとやってきた。ヴィンドルはそれらを歓迎し、やがて館は大いににぎわった。
ヴィンドルは館の大広間の壁に、件の盾を飾っていた。それは彼の伝説を証明するものであり、ヴィンドルと彼の戦士団の名声をより一層高くすると共に、『盾の館』と『盾の団』の名の由来にもなった。
もはや、かつてのようにヴィンドルは放浪しなくなった。以前の孤高が嘘であったかのように、彼は父として弟子たちを指導した。彼は名声によって腑抜けたのだと囁く者も一部にはいたが、ヴィンドルは未だかつての強さを失わず、戦士団を導き始めてからある程度の年月が経っても、弟子に後れを取ることは一度もなかった。
また、彼は皆が寝静まった後、火の絶えた暗い大広間で、たった一人で何かと話している時もあった。しかし、その内容を知る者は一人もいなかった。
そして、長い、長い月日が経った。ヴィンドルの最初の弟子たちは皆死んで、戦士団はもはやかつての人々から様変わりしていた。ヴィンドルも、長い年月の果てに深く年老いた。彼は、他の者よりもはるかに長寿であったが、確かに老いていた。かつてはヴィンドルが神のように不死だと信じて疑わなかった者たちも、その頃にはある一つの事実を受け入れなければならなくなっていた。ヴィンドルもまた人の子であり、いずれ死ぬのだ、と。
その頃には、もはや表立ってヴィンドルが指導をすることは少なくなっていたが、それでも彼は団員たちと手合わせをすれば常に勝利した。そして、夜ごとの一人きりでの語らいの時間は、伸び続けていた。
ある、夜のことであった。ヴィンドルは、誰もいない暗い大広間で、椅子に腰かけていた。彼の髪も髭も白くなり果て、若々しかった肌は皴に覆われていた。
「ああ、私のヴィンドルよ。哀れなヴィンドルよ。その姿を見よ。醜く老い、惨めに弱り果てたその様を。かつての、私を討ち果たした、力強い、栄誉に満ち溢れたお前は何処に消え去ったのだ? ああ、知っている。お前のあの魂は、光り輝き、何ものにも屈することなく、全てを打ち倒す素晴らしき魂は、今もそこにいると。しかしそれは、逃れられぬ定め、老いと、迫り来る死に絡めとられた、みすぼらしい肉の牢獄の中にいるのだ。ああ、ヴィンドル、ヴィンドルよ、何故私にそのようなものを見せるのか。これは、敗者たる私への長い、長い罰なのか? 永遠など苦痛ではない、しかし、お前の時代が過ぎ去っていくのはあまりにも早すぎた」
ヴィンドルの頭上に飾られた盾の内から、ヴァラグゴアはその猛烈で苛烈な性質からは考えられぬほどに悲痛な声を漏らしていた。
「私はただ、お前にじっくりと見せたかったのだよ、人の様を、戦士の老い、そして人として死んでいく様を」
ヴィンドルは、すっかりしわがれてしまった声でそう言った。彼は、その皴の寄った瞼を静かに閉じていた。
「そんなものを見せてどうなるというのだ? ああヴィンドルよ、もはや今のお前に私は倒せまい。ヴィンドル、私を解放してはくれまいか、我が愛しきヴィンドル。そうすれば、私の手でお前を殺せる。老いなどという忌まわしいものに、お前を奪い去られずに済む。そうして、我が主の翼の下で、終わりなき栄光に浴せるのだ。ああ、お前が失われることに比べたら、私なども惜しくはない。そうだとも、お前を連れ帰ったら、母に乞おうではないか、我が魂と引き換えに、お前を我らの一つに加えるようにと。姉妹たちもきっと喜ぶであろう、私を倒した者を、新たな兄弟として迎えることを」
ヴィンドルは、それが心からの言葉であると分かっていた。きっと、今ここで彼女を解放すれば、ヴァラグゴアは寸分違わず、彼女の言ったことをするだろう。
「私はずっと、人であろうとした。私は人を信じていたのだ。いずれ、いつか、人は人であるままに、神さえも倒せると信じていた」
ヴィンドルは、ゆっくりと瞼を開いた。その目はどこか遠くを見据えていた。
「私はまだ信じている。私にはできなかった。私の弟子たちも、とても無理だろう。だが、いつかできるだろうと、私は信じている」
ヴィンドルはまた瞼を閉じた。
「お前のことは、きっとアスブランドルが解放するだろう。それもすぐに。その後は、自由にすれば良い……」
そう言い残して、ヴィンドルは沈黙した。そして、ヴァラグゴアは、彼女の永遠の命の中で唯一、正統に、一対一の名誉ある戦いで彼女を打ち負かした定命の者が、その長い、だが哀れなほどに短い生涯を終えたのを知った。
盾の団は、彼らの永遠の英雄が遂に伝説となってしまったのを知り、悲嘆に暮れた。そして彼の遺言に従うために、生前のように鎧兜に身を包んだヴィンドルの亡骸を運び、団員総出で、ボレアリスの山々の中でも最も高い山の山頂を目指した。
そこは、雪すらも近寄れぬ遥かな高みで、空気は常に凍りついていた。生前、如何なる神に仕えるも拒んだヴィンドルは、その亡骸が腐ったり焼かれたりすることで神に支配されるのを嫌って、死肉の決して腐らず、触れられることもない山の頂を埋葬場所に選んだのだった。
涙さえも瞬時に凍りつく厳寒の山頂で、ヴィンドルの亡骸は岩棚の上に厳粛に安置された。そしてその上に、彼の『楯砕き』と『不撓不屈』が交差して置かれた。暫し、団員たちは寒さも忘れて、彼らの名誉ある長、偉大な父の死を悼んだ。
やがて、ヴィンドルを除けば盾の団の中では最も優れた戦士であり、ヴィンドル亡き後には団長の座を引き継ぐことが決まっていたアスブランドルが歩み出た。そして、彼は『不撓不屈』に手を伸ばし、ヴィンドルにかつて教えられた通りに触れた。
すると、たちまち盾は黄金に輝き、そしてそこから何千もの光の束が奔流となって噴出した。それは布を織るように寄り集まり、やがて、かつての姿そのままのヴァラグゴアがそこにはいた。ある者は畏れに震え、ある者は驚嘆の声を上げる中、ヴァラグゴアは、自らを解放した男には全く関心を払わず、彼に背を向け、冷たいヴィンドルの亡骸を見た。ヴィンドルはかつてのように寸分の隙無く鎧を身に着け、蒼褪め老いた顔も兜に隠されて見えない。一見すれば、それはまだ老いる前の、ヴァラグゴアと死闘を繰り広げたあの日のヴィンドルのようだった。眠るが如くの遺骸は、少し語りかければ、何事もなく目覚めそうな姿だった。ヴァラグゴアは、かつての彼女であったなら決してあり得なかった感情―感傷―に浸っていた。
「虐殺の姉妹、『先触れの』ヴァラグゴア、強き女神の娘にして、永遠に血濡れし刃の乙女よ!」
そんな彼女の思考を遮るように、アスブランドルは儀式ばった口調で、ヴァラグゴアに呼び掛けた。突然に、耳を掴まれるようにして現実に引き戻されたヴァラグゴアは、振り返ると、足元で叫ぶ矮小な者に、軽蔑の眼差しを注いだ。
「我は求む、汝との決闘を! かつて我らの大いなる師、ヴィンドルが成し遂げたように!我を盾の団の正統なる総帥たらしめんために!」
アスブランドルは高らかに叫ぶと、すらりと剣を抜き放った。それを見て、ヴァラグゴアは未だかつて感じたことがないほどの、残忍な怒りが湧き上がってくるのを感じた。
彼女は咆哮した。すると、これほどの高所にはいるはずのない、夥しい数の鴉が飛来した。いつの間にか、空気には濃い炎と死の匂いが充満していた。
虐殺。僅かの防御の機会も与えぬまま、ヴァラグゴアはアスブランドルを八つ裂きにした。その肉を裂き、その骨を砕き、はらわたの一つに至るまで細切れにし、呆気にとられる団員の上にばら撒いた。そして次には、団員たちにも襲い掛かった。
団員たちは皆果敢に立ち向かったが、なす術もなく蹂躙されていった。ヴァラグゴアはあえて、女神ヴァハリガンの祝福を誇示するように戦い、そしてヴィンドルの遺産、彼の残した教えを愚弄した。やがて半数以上が血と肉と骨の破片の混ざり合った、半分凍って半分焼けた不快な肉塊に変わった時、彼女は殺戮の手を止めて、威圧的に立ち塞がり、生存者たちを睨め回した。生き残った者たちは、彼らがどうするべきかを知っていた。彼らは、かつての兄弟同胞たちの血の中で、膝をつき、頭を垂れて平伏した。そして口々にヴァラグゴアとヴァハリガンを讃え、その力を讃え、かの女神に帰依することを誓っていた。
だがヴァラグゴアの耳には、そのような言葉は入ってきていなかった。彼女は再び振り返って、静かに横たわるヴィンドルに向き直った。そして叫んだ。
「見よ! お前の子供たちが、お前の信ずる人間が、こうも容易く頭を垂れたのだ! 力の前に、我が力の前に! これが人間の力というのか、ヴィンドル? 弱かろう、あまりにも弱かろう。否定するのだ、ヴィンドル! 立て、立ち上がり、武器を取り、かつてのように、私を倒して証明してみせよ。かつてのように、かつてのように。立て、不滅のチャンピオンよ、永遠の勝者よ。立て、我がヴィンドルよ!」
ヴァラグゴアは激しく炎を燃やしながら、あの混ざり合った声で鋭く、激しく、だがどこか哀願するように叫んだ。しかし、ヴィンドルの亡骸は、決して応えなかった。
彼女は、空に向けて吼えた。それは人ならざる慟哭であり、地をも揺るがす悲嘆だった。そんな中、鴉たちは無関心に、墓所に散らばった肉塊をついばむことに精を出していた。
今でも、ヴィンドルの亡骸はそこにある。かつてと寸分変わらぬ姿のままで、故郷の大地に抱かれて、天空の頂で、凍れる悲嘆に守られて。
風と鴉 考える水星 @mercuryman
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