飢餓

考える水星

飢餓

 一週間? 一か月? 或いはたった三日? 一日の終わりに空腹でなかったのはいつが最後だろう。少なくとも、昨日は何も食べていない。胃は、焼けた小石のようになってしまった。何かを食べたい。眩暈がする。ああ、けれど、望むべくもない。今や一握りの小麦は黄金より価値がある。酷い飢饉で、食料の値段は雲より高くなってしまった。たとえそれだけの金があったとしても、食べ物が手に入るとは限らない。現に、隣人は、ひどい飢餓で瘦せ衰えている。彼は裕福な商人で、以前はよく肥えていたのに。彼は、とても食べさせられないと使用人たちを全員追い出してしまった。街全体が飢えている。隣の都市へ向かった人は余計に飢えて帰ってきただけだった。さらに向こうへ行った人は帰ってこなかった。家族に約束していたというのに。

 去年はただでさえ不作で、人々は頼りない食糧庫に不安を見せていた。あの頃から食料の値段は上がっていた。それだというのに戦争が起こり、あの凶暴な戦争狂たちが村々を破壊し、食糧庫を焼き、商人たちを殺し、僅かな備蓄さえも奪い去っていった。援助を約束した騎士達もまた、戦いの為に食糧を徴発して立ち去った。都市の壁の外では飢えた盗賊たちが跋扈して、哀れな農民を襲い、奪ったものを巡って互いに殺し合っている。

 私は、空腹が余りにも酷いと体が震えてくるということを知った。街にあった草木はすべて引っこ抜かれ、犬や猫は打ち殺され、今では土まで水に溶かして食べようとしている。外は時折争う声が聞こえてくる他は静かだ。皆、飢えて動き回る元気もないのだ。私も前は鼠の一匹でもいないかと探し回ったが、今では家の寝台の上で横たわっている。このまま或いは死ぬのかもしれない。眠れば楽かと思ったが、この空腹ではとても眠れるはずもなかった。しかし、長いこと横たわっているうちに、気が付けば気絶のような眠りに入っていた。そして夢を見た。


 夢の中で、私はどこまでも広がる夜の砂漠の中にいた。そこは私の人生で一度も見たことのない場所だった。うねる砂丘がなめらかに広がり、夜空はどこまでも眩く、透き通ったハミングの、言葉のない歌声がどこかから響き渡っていた。女性の声で歌われる、ガラスのような旋律は、空から降り注ぐかのように、地から湧き上がるように、そして前から後ろから、右から左から波のように押し寄せてくる。奏でられるそれは物悲しく陰鬱で、しかしどこか無機質で空虚であり、震えて私の体を打った。湖面のような砂は歌声に波打つ幻覚を見せた。

 そして、私の目の前には一つの長テーブルがあった。砂の海には全く似つかわしくない、きちんとした重々しい作りの黒木の長テーブルで、同じような椅子がいくつも整然と並べられ、テーブルには清潔な白いクロスがかけられていた。それはまるで宴の時のような……。

 宴、と考えて私の胃はまるで絞首刑のように締め上げられた。体の中心で小さな太陽のように燃えるものを感じながら、私は自身の状況を思い出した。空腹だ。

 見れば、テーブルの上にはゴブレットと大皿も並べられている。大皿には覆いが被せられ、その中身は私を誘惑した。芳醇なワインと焼けた脂っぽい肉の香りがする。気が付いた時にはふらつく足で駆け出して、大皿の覆いを払い除けていた。

 皿の上にあったのは、山積みの石ころだった。乾ききった石ころ。私は一瞬それに震える手を伸ばし、それからその手で顔を覆った。どの皿の覆いを開けてみても、中身は同じだった。ゴブレットの中身は砂だった。砂、砂、満杯の砂。絹のような手触りの、しかしただの砂。

 目が覚めて、その全てが夢だと知った。私は変わらず飢えていた。いや、前よりもっと飢えていた。


 一週間ほどは経ったろうか。何も変わっていない。悪くなっている。良くなるはずがない。ずっと前から悪くなっていたのだから。その間中、同じ夢を見ていた。今では起きている間もあの歌が聞こえる気がする。そもそも今は目覚めているのだろうか? 何か食べたい。通りでは飢えた人々が群れを成して徘徊しているし、強盗や盗みを働こうとする輩も増えていた。それに、もうずっと前から姿を現さない領主が、その城館に多くの食料を隠し持っているという噂が流れ始めていて、街は暴動寸前らしい。街はかつての静寂と不安の祈りから、やり場のない憤りとすすり泣きに満たされてしまった。彼らの飢餓はいつしか、憤怒に変わってしまったのだ。私にできるのは、その災禍が私に降りかからないよう祈りながら眠ることだけだ。生きる希望はもうあまりない。せめて、私の魂に、そしてこの地の人々に、御慈悲がありますように。瞼を閉じる。死のような眠りを感じる。ああ、何か、食べたい……。

 また夢だ。歌声はますます大きくなったような気がする。或いは近付いたのだろうか。やるべきことはない。テーブルの前に座り、見かけだけで全く座り心地の良くない椅子に座り、自棄になってゴブレットの中身を傾ける。液体のように砂は私の口の中にすべり込む。柔らかな布のように流砂は歯を飲み込み、舌を包み、鑢のように襲う。喉はさながら死のようだ。そして綺麗な金メッキの皿に盛られた石ころを掴み取り、手当たり次第に口に押し込む。咀嚼するたび、砂と石くれが混ざり合い、刃ある嵐のように私の内側を切り裂いていく。流れ出る血はすべて砂に吸われていく。気が付けば、私は口をいっぱいにしながら、あらん限りに叫んでいた。

 よろめきながら立ち上がった。棒のようになった腕を振るってテーブルの上のものを薙ぎ倒す。ゴブレットや皿をあちこちに投げつけた。叫びは止まらなかった。はらわたは鍜治場のように焼けていた。あてもなく砂の上を歩きだす。目の前には壁のような砂の丘がある。しがみつくようにして登っていった。何度も滑り落ち、砂が目に入って何も見えなくなっても、腕を振り回し、足をばたつかせて這い上っていった。

 そうして何回とも何千回とも闇雲に登っていた。不機嫌な子供のように暴れながら。やがて頂上に立った時、皮膚が擦り切れ、全身砂色になって頼りなく立った時、目前に新月のようなものがあった。それは輝く空に浮かぶ空虚だった。大きく口を開けた闇。満たされない虚無。訪れない季節の月。『飢餓の月』。

 目を落とすと、そこにも虚無があった。噴火口のように盛り上がった砂丘、それに守られるように口を広げる大穴。湖面に月が映るようだった。その穴の底から歌声は響いていた。全世界から流れるようだった歌声は途端に、穴の底を起点として、奔流の如く噴き出した。私は足を滑らし、その穴に落ちていった。


 静かだというのに騒々しい。空は青く晴れている。私の足は石畳を踏んだ。それで外にいることを知った。靴は履いていない。私は領主の城館の前にいた。私達は。多くの人々が、同じように城館の門前にいた。皆、無言で目は虚ろだ。門衛は槍を見せつけるようにして群衆を追い払おうとしているが、誰もそれに反応すらしない。門衛の目は少し怯えている。しかし、彼は私達より飢えていない。

「食べ物を……」

誰かが言った。か細い声だった。

「食べ物を……!」

今度は少し大きな声だった。そして、それに続く声もいくつかあった。

「食べ物を!!」

皆、口々に叫んでいた。

「食わせろ!!」

その声と共に、誰もが口々に叫んだ。もはやそれは言葉でなく、ただ喚き立て、地鳴りのようだった。誰かが石を投げつけると、それはたちまち雨あられとなった。さらに何人かの衛兵がやってきた時、人々は雪崩になった。濁流のように、門に殺到していった。槍に突き殺されても、斬り倒されても、射抜かれても誰も止まらなかった。兵士たちは組み付かれ、押し倒された。十数人は兵士たちがいたが、彼らは皆群れに飲み込まれた。そして誰かが組み付いた時、兵士の耳に嚙みついた。鋭い悲鳴が響いた。人の嵐は一瞬凍りつき、そしてそれが合図となった。

 押し倒され、或いは引きずり倒されようとする兵士たちに、組み付く人々は皆噛みつき始めた。唸り声をあげ、獣のようだった。幾つも耳障りな悲鳴と哀願が聞こえた。

 その傍ら、皆は思い思いに駆け回って優美な門をぶち壊し、或いは窓を叩き割って館の中に雪崩れ込んだ。私も後に続いていった。


 あちこちから悲鳴が聞こえた。ある者は廊下を一直線に駆け抜け、ある者はドアを片端から押し破った。使用人の女が三人の痩せた男女に組み敷かれていた。彼女は何度も懇願していたが、やがて叫び声に変わった。また、ある者たちは厨房へ至ったらしかった。服のあちこちを引きちぎられ、髪を振り乱した料理長らしき男が走っていた。彼の後ろから五人の人が手に野菜や肉塊を持ちながら彼を追いかけていた。彼らは黄ばんだ歯を剥いていて、それが鋭く牙のようだった。また、兵士たちに噛みついていた者たちが私の後ろから遅れてやってきたりもした。一人の男は切断された血まみれの右脚を赤子のように抱きかかえ、一人の女は腕を犬のように口にくわえながら走っていた。彼らの顎は奇妙に歪んでいた。

 私は廊下を歩き、階段を上り、そしてまた廊下を歩いていた。筆を走らせたように、血の跡が伸びている。何かを引き摺った跡だ。半ば齧られた頭が転がってきた。窓から見える庭園では、召使の一人が両目を失ってふらふらと彷徨い、そして押し倒されていた。転がる手足を取り合う人たちがいる。一人は頭が裂けていて、そこにずらりと牙が並んでいる。もう一方は胸元まで口がある。そして各々の口で食べ物に噛みついて引きあっている。お腹がすいた。そういえば、領主夫妻はどうしたのだろうか。物語のように、秘密の通路で逃げ出したのだろうか、或いは。また階段を上る。何故ここには、こんなに階段があるのだろう。


 幾つも階段と廊下があったような気がする。やがて、ある部屋を見つけた。部屋の扉を。扉には鍵がかかっていた。私はそれを無理やり押し破った。何故そんな力があるのだろうか? 中は、寝室だった。豪奢な寝台、しかし、やや小さい。置いてあるものは、子供のおもちゃ。しかし、誰もいない。壁を見回した。寝台の近くの壁。そのさらに一部分。匂いがした。漏れ出てくるような匂いが。触れてみると、隠された仕掛けがあった。私はそれを作動させた。壁の一部分が開く。しゃがまなければ入れない秘密の入り口。私は中に入った。そこにいたのは、乳母と子供だった。

 まだ年若そうな乳母は、幼い子供をかばうように腕で抱き、怯える目でこちらを見つめた。そして早口で何事かを繰り返し言っていた。子供はまだ何もわかっていなそうな様子で、しかし乳母につられてか不安げだった。私が一歩踏み出すと、乳母は一層強く子供を抱き寄せた。そして、より一層早口になった。恐らく、祈りの言葉? まさか、私は取って食ったりしないのに。そう思いながら口を開いた。私の大きな口を。おや? 乳母が目を見開き、祈りの言葉は止まった。子供は泣きだした。

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