天使と兵士のワイヤーワークス
岩井喬
第1話【第一章】
【第一章】
俺が腕を伸ばした時、そこに彼女の腕はなかった。指先が微かに触れただけで、俺が彼女に触れられる機会は永遠に失われた。
俺は生きていて、彼女は死んでいる。
そう綺麗に割り切れるものか。
彼女の不在は認められない。だが彼女を引きずってはいられない。
生きている限り、進んでいかなくては。
しかし、その旗振り役はもういない。明かりを投げかけてはくれない。
ここには何もない。
誰でもいいから彼女を救ってくれ。俺の全てを捧げたっていい。彼女を幸せにしてくれ。誰か、ああ、誰か。
※
「恵美っ!!」
俺はがばりと起き上がった。
「恵美! 恵美……」
釣り上げられた魚のように、必死に口をぱくぱくさせる。過呼吸なのか酸素不足なのか、どちらなのかも分からない。
確かなのは、今夢で見た光景は現実で、誰がどう足掻いてもやり直すことはできないということ。
「はあ……」
自分の胸に手を当てて、呼吸を整える。いい加減、自分の身は自分で調整しなければ。
俺には任務がある。一般の警察や機動隊、自衛隊にすら秘匿された任務だ。
そうでなければ、こんなに広い個室を与えられるわけがない。
俺は無言で立ち上がり、ベッドのそばの棚に手を伸ばした。そこには一枚の写真立てがある。俺はじっと、写真に見入った。
「畜生……」
俺はそっと写真立てを置き直し、深い溜息をついた。
八畳ほどの室内を見渡し、小型の冷蔵庫へ向かう。ミネラルウォーターを取り出して、ごくごくと半分ほどを飲み干した。
じくじくと内臓が痛み出す。俺はこの、心臓が泥沼にぶち込まれるような不快さに耐えられるほど強くはない。気を紛らわせなければ。
そうでなければいざという時に戦えないじゃないか、佐山俊之。自ら望んで踏み入った場所だというのに。
俺はシャワーを浴びることにした。身体くらい洗っておいた方がいいだろう。
夏場だから、シャワーから降り注ぐ冷水が心地よい。このまま俺の存在もろとも、雑念を拭い去ってくれないものか。
ノースリーブのシャツとボクサーブリーフという格好だった俺は、通気性のいいスポーツウェアを上下に着込んで部屋を出ようとした。
その時、ピピッ、という短い電子音がした。自室への来客時、ノックの代わりに鳴らすことになっているものだ。
今はまだ午前六時過ぎのはず。誰がやって来たのだろうか? 俺がぼんやりしていると、再び電子音。はいはい今開けますよ、っと。
俺が部屋の内側からロックを解除すると、そこに立っている何者かとの間に視線の遣り取りがあった。互いの素性を見極め、それから自分の態度を決定していこう。それが狙いだろう。
対外的な他者との接触に、俺はさして重きを置いていない。褒めるなり貶すなり、好きにしてくれというところだ。しかし相手の第一声は、斜め上を行くものだった。
「……ダサっ」
「え?」
「いえ。よくもまあそんな格好で出歩けるものだと思いまして」
「はあ」
何か迷惑をかけただろうか? 俺でさえ心配になりそうだ。
ドアの前にいたのは、一人の女性隊員だった。背は低めで、細い目をしている。ショートカットでまとめられた髪が童顔にぴたりと合っていた。
女性は、まあいいです、とだけ言って腕を組んだ。
彼女とて軽装である。普通なら俺が不快感を訴えてもいいのかもしれない。
だが、今の俺の感性はまだ死んでいる。何も察することができない。
「そんな格好で出てくるなんて……。昨日はお酒でも飲んでたんですか?」
「いや、違うけど」
「ああそう……。佐山俊之・三等陸尉は先週二十歳になられたばかりだとか」
「それは合ってる」
「おっと失敬。不躾な質問でしたね」
俺がぼさっとしていると、相手の女性はだんだん眉間に皺を寄せてきた。おいおい待ってくれ。俺は起きてそう時間が経っていないんだ。シャワーを浴びておいたのはいいとしても、それで脳みそまでもが完全復旧したわけではない。
と、いう理屈を頭のどこかでこねくり回していると、怒りが限界点に達したのか、相手の女性は地団太を踏み出した。
「ああっ、たくもう! あんた……じゃなくて、あなたは佐山俊之・三等陸尉でよろしいんですよね?」
「ん……」
そばにあったタオルを手に取り、まだ湿っていた髪にわしゃわしゃと通した。
すると相手は半ば諦めた様子で、大きな溜息を一つ。それからすっと背筋を伸ばし、陸自式の敬礼をしてみせた。
「本日付けで佐山俊之・三等陸尉の補佐官に任命されました、市川久弥・陸曹長であります!」
「そうか、君が補佐を……」
ようやく再起動を果たした五感を活かし、俺も返礼した。
単なる俺の見立てだが、市川久弥という女性は完璧主義者で、場所や予定、作戦時の手順など、完全把握しているように思われる。
「立ち話もなんですから、食堂で朝食を摂りながら話しましょう。着替えてください」
「そうだな。うん、そうしよう」
一歩後退した久弥の前で、俺はスライドドアをぴしゃりと閉めた。こんな格好の俺だが、当然一人の自衛官だ。きちんと着こなすべき衣服があるなら、適当な態度で臨むわけにもいくまい。
下着以外を取り換えて、再びドアから一歩外へ。
「ふむ、悪くないな……」
「何を仰ってるんですか」
「いや、人を待たせて着替えをするのも、スリルがあるなと」
「は?」
「ベッドメイキングもした後だから、これで三十一秒しかかからなかったのは悪くないと思うんだがな」
次の瞬間、左側頭部に迫る殺意を、俺はギリギリで回避した。
久弥も自分がハイキックをかまそうとしていたことに気づき、ぴたり、と足を止める。
「次にふざけたこと言ったら、時も場合も弁えずに蹴り込みますからね?」
「そうだな。俺も十分気をつけるとしよう」
どうも自分が鈍感すぎたがゆえに、俺は久弥に不快な思いをさせてしまったらしい。
もしかしたら、同じことを他人にもやりかねないし、気をつけて行動するとしよう。まあそれも、気をつけるだけの余裕があればの話だが。
※
ダイニングに到着し、ドアノブに手をかける。しかし、俺の手はそこで止まってしまった。
「どうしたんです?」
真面目な顔つきで久弥が尋ねてくる。しかしこの先で起こっていることについて、俺程度の立場の人間がとやかく言うだけの資格はない。
理由は単純だ。例えば今日のことだったら――。
「貴様ら、それでもGB兵士の自覚があるのか! 血税に支えられた人間だとはとても思えん! 貴様ら四名、今日の夕飯は抜きだ! おばちゃん、それでよろしいな?」
「それはいいけどねえ、大野さん。他のお客さんもビビってしまって、食欲がなくなるっていう相談もありますしねえ」
「む……」
仕方ない、俺が仲裁に入るとしよう。
俺は今度こそドアを開け、爆心地へと歩み出した。
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