第16話 空虚の淵から
どれくらい歩いただろう。
すっかり日も暮れ土手の道は闇に包まれている。
時折すれ違う犬の散歩のリードのLEDライトと、鉄橋を通過する列車の明かりだけが辺りを照らした。
彼からの叱責の言葉に何とか立ち直るきっかけを探していた私の心は、エースからの非情な言葉で今度こそ粉々に砕け散っていた。
人の心は本当に砕けると何も感じなくなるらしい。
私は自暴自棄になった気持ちで、かえって開き直っていた。
ーーどいうせ元々、私になんて何かを生み出す力なんてなかったのだ。
ーーたまたま、書いたものが人の目に触れ、運よく取り上げられただけだった。
ーーどんな人も、物も、世に出るきっかけさえ掴めればそれなりに売れる物なのだ。
ーーそのラッキーに私は、たまたま引っかかっただけだ。
涙も出ない瞳で夜空を見上げる。
冬近い街の空は、空気が澄み幾つかの星が見て取れた。
星を掴むなんて私には分不相応な夢だったのだ。
まして私はその夢がかなったかのように思っていた。
それはただの思い過ごし。
自虐的に言えば勘違いだったのだ。
そう思ったら、この寒空の下、真っ暗な土手の道を歩いているのがバカらしくなった。
さっさと帰って今日は早く寝よう。
作品に苦悩するなんてもうしなくていい。
彼とはもう会わないようにしよう。
それよりまず、彼からはもう連絡も来ないだろう。
きっとこんな不甲斐ない私には愛想を尽かしているに違いない。
適当に舞い込んでくる執筆依頼を適当にこなしていれば食うには困らないだろう。
それで良い。
良いではないか。
好きな執筆は続けられるのだから。
モヤモヤした心に言い聞かせながら私は土手から外れる側道を登って行った。
次の朝、二日酔いで目が覚めた。
土手から上がった後、近くの小田急線の駅前のおでん屋に入り暖を取った。
体を温めるつもりの熱燗一杯が二杯になり三杯になり…。
気がつくと終電間際になっていた。
流石にここで潰れるわけにはいかない。
ギリギリの終電を乗り継ぎ何とか家までは辿り着いたがその先の記憶が全くなかった。
冷たい水を飲みカーテンを開ける。
二日酔いには眩しい朝の太陽。
そして目覚めとともに明日締め切りの駅伝の記事を思い出し暗い気持ちになった。
部屋着に着替え机に向かう。
前日、録音しておいた取材音声を再生する。
エースのくだりも録音しておいた。
音声を聞いているとエースについて語るくだりで監督の声色が変わっていることに気がつく。
明らかに他のインタビューの時より熱量が違っていた。
「多分、あいつが今、部の中で一番闘志を燃やしていると思いますよ」
そう答えてくれた監督の顔を思い浮かべた。
そして、他の部員のために身を挺して貢献しようとしている彼の熱意を思う。
そして一生懸命練習に励んでいる選手たち。
疎かに書ける訳がなかった。
私なりに書くしかない。
エースが言う通り薄っぺらい理解かもしれないが私が感じたことを精一杯書こう。
それが私の誠意だ。
取材時間は短かったが録音した取材テープを何度も繰り返し聞いた。
言葉の端端に目には見えない何かが宿っている。
それを捕まえるために何度も繰り返し聞いた。
そして書いた。
書き上げた原稿を持って出版社へ向かった。
担当編集者は原稿が間に合ったことに安堵し私に何度も礼を言った。
そして原稿チェックのために別室へ向かった。
程なくして校了のチェックをもらった。
私もホッとして席を立った。
帰りがけドアへ向かっていると背後から編集者に呼び止められた。
ーーちょっとお時間いいですか?
「先生、文体変わられたんですね。」
そう言う編集者に私は尋ねた。
「私はいつも通り書いただけですが…どこが変わったとお思いですか?」
すると編集者は
「今度の原稿、すごく熱を感じました。食らいついて書いたようなある種の粘りを感じました。先生の今までのスタイルはどこかクールで、こういった暑苦しさとは一線引いた感じでした。そこが魅力でもありますが、時に投げやりな、諦めに似た雰囲気がありました。それが今回は全く違う。こんな熱い文章も書けるんだってちょっと驚いています」
そう告げた後、編集者が囁く
「先生、学生と一悶着あったみたいじゃないですか…」
まさかあの一件が編集部に伝わっているとは思わなかった。
誰かが見ていて監督に伝えたのだろう。
言葉に詰まっている私に編集者が続ける。
「何か悩んでいるみたいですけど、その学生の言うようにフルマラソンを走ってみるって言うのはどうですか?悩みの突破口になるかもしれないですよ」
「ちょうど半年先に横須賀マラソンのエントリー枠が一つ空いているんです。取材も兼ねてどうですか?出場体験記をノンフィクションでうちから出しましょうよ!」
駅伝記事を書き切ったからといって心が回復したわけではない。
まだ空っぽの心にマラソンを走る気力が湧くだろうか?
そんなことを考えていると編集者が
「何を心配してるんですか!まだ半年ありますよ!きっと先生にとってもプラスになる。それにその学生に言われっぱなしでいいんですか?」
そういたずらっぽく私を見つめる。
言われっぱなしはともかく彼の言葉は確かに私の心に棘のように突き刺さったままだった。
「フルマラソン完走してみるくらいやってみたらどうですか!?」
悔しい気持ちも湧かないがやってみる価値はありそうだ。
「わかりました。でも出走権から自力で取らせてください。他のランナーと同じように一から始めるのが筋だと思うんです」
「わかりました。では急がないと!締め切りは今日ですよ!」
編集部からの帰り私は「ラドリオ」に寄りウィンナーコーヒーを注文した。
そして「横須賀マラソン」のエントリーページをクリックして必要項目を入力した。
全て入力し終わった後、画面に向かって祈りを込める。
ーー出走権が得られなければ私に三流作家として燻り続けろと神に見放されたと言うことだ。もし出走権を得られれば私にもまだ再起の望みはある」
そう願掛けをし、私は送信ボタンを押した。
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