第7話 神保町のオフィスにて
この物語はフィクションです。
今日は休みだがオフィスへ向かう。
オフィスと言っても正式なそれでなく、古いワンルームにデスクとソファーを置いてあるだけの簡素なものだ。
最初は家で執筆していたのだが、プライベートとの区切りがなくなるため別に書斎を探していた。
そんなときたまたま知り合いの編集者が住んでいた部屋が空くというので、出版社の帰りによって見ることにした。
古いので床がカーペット張りということや今時ドアが鉄扉だがそれがかえって味わい深く感じた。
何より出版社のある神保町から歩いてすぐという立地が決め手となった。
出版社があるからというよりこの町が好きなのだ。
本に携わる者にとって刺激のある町でもある。
まだ売れていない頃は原稿を入稿しに訪れる度に名のある出版社のビルを見上げ「いつかきっと売れる日が来る」と胸を熱くした日々を思い出す。
また、本を読まなくても、本の気に触れているだけで頭の中にいろいろな物語が浮かんできて、書く題材に困ることはなかった。
だから神保町近くに書斎を構えられるなんて「おこがましく」感じると同時に不思議な縁を感じた。
陽光降り注ぐ明大通りを駿河台下方面へ下ってゆく。
明大を過ぎ、甲賀通りを右に折れ錦華坂を抜け猿楽通りを進むと古い雑居ビルが見えてくる。
そこの5階が私の仕事部屋だ。
窓を開けるとほんの一部だが明大の敷地が見えている。
今日は日曜だから学生の姿はない。
静かなキャンパスもなんだか風情があるわ。
賑やかさと静けさのコントラスト。
窓からのそよ風を心地良く受けながら私はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
午後2時
執筆に集中していた静寂を破るように玄関の呼び鈴が鳴った。
誰かしら?今日は日曜日だからアポも無いし‥。
訝しく思いながら玄関へ向かう。
念のためにドアスコープから覗いてみる。
一瞬頭が混乱する。
ドアスコープの小さな覗き窓の先に佇んでいたのは
ーー彼だった。
鍵を開け鉄扉を押すと金属が軋む音が廊下に響く。
「どうしたの?」
「やあ‥昨日はどうしてすぐ帰っちゃったの?」
「それは‥‥それよりどうしてここがわかったの?」
「名刺だよ。交換したじゃない」
そうか、そうだった。
名刺交換したことすら忘れるほどビジネスが頭の中からすっかり抜け落ちていた。
それほど昨夜のタンゴが強烈だったということだ。
「そうだったわね。でも、今日は何か用?」
「その辺りはまだビジネスライクなんだね。用がなくてもウェルカムな関係になりたいね」
私はそれに答えずスルーする。
「とにかくどうぞ‥」と彼を部屋に招き入れた。
「へー!とても味のある部屋だね。部屋自体がアンティークだ。よくこんなところが見つけられたね」
「知り合いの編集者さんから紹介されたのよ。私もすごく気に入ってるの。神保町も近いし、渋谷や銀座、横浜へ出るにも便がいいし」
彼は窓の方へ歩み寄り外の景色を眺める。
「明大の校内が見えるんだね。それも良いけどビルの前の坂道も良い感じじゃない!銀杏の季節ならすごく絵になりそうだ」
私は嬉しくて彼に背を向けたまま微笑む。
まだ秋には遠いがそこまで思いを馳せられる人は意外にいない。
「夕日が坂の上を照らして紅葉のオレンジと混ざり合うんだ。だんだん日が沈んで行って茜色になると紅葉と空の境目が溶けてひとつになる‥」
ーーなぜ夕日の位置までわかるのだろう?
そうなのだ。
紅葉の時期になると坂の上に夕日が沈み、空が茜色に染まると紅葉の赤か夕日の赤かわからなくなるほど空が赤く染まる。
その情景は言葉に言い表せないほどドラマティックで、それをモチーフにいくつもの場面を描いてきた。
ーーそうだわ、彼は画家だった。
彼の想像力に、アーティストであることを思い出す。
何かを創る人は、何もないところにそれを見出し想像して、文章なり絵画なりにして形を創造する。
それができる人がアーティストだと常々思う。
今、彼は想像の中で、私は過去の記憶の中で同じ景色をを見ているんだわ。
そう思うと心の中に何か暖かい火が灯ったような気がした。
「その黒のニット、すごく似合ってるね」
彼の言葉に我に帰る。
「いつもの真面目な印象とまるで違う。そういう服も着るんだね」
そして一言付け加えた。
「すごくセクシーだ」
その言葉に深いところを刺激されてなんだかくすぐったい気持ちになる。
「何か心境の変化でもあったの?」
彼が聞く
「何を着ようなんて考えないできてきたわ。今の今まで」
「無意識に選んだってことかい?」
「そうね。特に考えることもなく何と無く手にとってきてきたわ。日曜だし誰とも合わないだろうって」
「良い変化だ。すごくいい」
彼はいたずらっぽく微笑むと勢い良く椅子から立ち上がり私を見て微笑む。
「こんな良い天気なんだから外で話そうよ。千鳥ヶ淵が気持ち良さそうだ。散歩しながらお互いについて取材し合おうよ」
まだ夏の名残で日は長い。
これから出かけても日が沈むまで、まだ時間がある。
「いいわ。行きましょう」
そういってスマホだけ持ち外へ出る。
靖国通りへ出て九段下方面へ歩く。
「私、靖国通りも好きな通りなの。広い通りで気持ちが良いし、何よりエネルギッシュな感じがして‥。それでいて九段下あたりまでくると一転して静かな通りになるでしょう?そのギャップも好きな理由ね。それに私、武道館も好き」
彼が微笑みながら聞いている。
ふと彼が好きな通りなど聞いて見たくなった。
二人並んで黄昏の靖国通りを歩く。
不思議と何も話さなくていい気がして肩を並べてゆっくり歩く。
気がつくと二人の歩調がピッタリ一致していた。
視線の先を追うと彼は私と同じものを見ていた。
to be continue‥
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