お姉さんと愛した馬

ねこじゃ・じぇねこ

第1話

 自宅のパソコンでネットニュースを眺めていると、日本で有名なとあるスターホースが天国へ旅立ったという記事が目に留まった。

 コメント欄でも悼む声がたくさん寄せられて、多くのファンに愛されていたことがよく伝わってきた。

 勿論、私も寂しかった。一世を風靡した名馬だったから。けれど、その関連ニュースの位置に表示されていたもう一頭の競走馬の訃報へと、視線は向いた。


 ──地方のゆう・ディンドンガール逝く。


 ディンドンガール。その名前が目に入った瞬間、私はふと十年ほど前の事を思い出したのだった。


 春。桜がぎりぎりまだ咲いている四月の二週目。

 もう間もなく開催される桜花賞について、地方からの殴り込みが注目されていた。


 ──連勝続きのディンドンガール。中央に殴り込みへ。


 当時、競馬についての情報を得ていたのは、ネットの競馬記事や情報サイト。そして月刊雑誌も欠かせなかった。

 毎月、購入するほど好きだったのは、毎月のレースのDVDが付録にあったせいもあるだろう。だが、通販などではなく、わざわざ近くの小さな書店へ出向いてまで、買っていたのには訳があった。そこで働いていた女性と仲が良かったからだ。

 あの時もそうだった。


「はい、これ。今月分ね」


 来店した私の顔を見るなり、彼女は声をかけてきた。手元には当時買っていた競馬雑誌が一冊。売り切れるなんてことは、当時からもうなかったようなのだけれど、万が一のことを考え、わざわざとっておいてくれていたのだ。


「ありがとう。助かります」


 お礼を言いながら購入する。

 その些細なやり取りだけでも、私にとっては貴重だった。


 このお姉さんは、小学校から高校までの先輩でもある。学年は二つ上で、小学生の頃は無邪気に遊んだものだった。

 頼れるお姉さん。小さな頃の私にとって彼女はそういう存在だった。実の妹にでもなったように懐いて、色々と面倒を見てもらっていた。

 だが、思春期が始まる頃だっただろうか。いつの間にか、私にとっての彼女は、ただの頼れるお姉さんではなくなってしまっていた。


「付録のDVDまたゆっくり見たいなら、私の家に遊びにおいでよ。空いている時間、あとでメールするからさ」


「うん。ぜひ、甘えちゃおうかな」


 冗談めかしてそう言いつつ、内心とても照れてしまっていた。


 この当時、私はまだ実家に暮らしていた。

 部屋はちゃんとあったけれど、DVDを再生できるテレビはリビングにしかなくて、時間的にも家族の前で見る以外の選択肢がなかった。

 家族の中で、私以外に競馬好きはおらず、レースのDVDを再生するのも、何となく気まずさがあった。

 そんな悩みをぽつりと語った際、すでに一人暮らしをしていたお姉さんが善意から家に招いてくれるようになったのだ。


 ──い、家に、行っていいの?


 初めて誘われたその日、動揺してしまったのには訳がある。

 私は、お姉さんに恋をしてしまっていたのだ。


 恋とは何なのか。憧れとはどう違うのか。愛にも色々な種類があるけれど、愛していると言えるのはどういう状態の事なのか。

 思春期。私はお姉さんへの自分の想いを段々と自覚していくにつれ、そういったことをただひたすら考え続けていた。

 小学校高学年から高校生くらいまで。恋とは何なのかに悩みつつも、具体的なその内容を友達に明かすことも出来なかった。


 言えない。言いたくない。

 だってみんな、当たり前のように男性に恋をするものだと思うだろう。

 恋愛話になった際に、周囲から訊ねられるのは好きな男性のタイプだし、そこで本当の自分を明かすということは、私にとっては非常に難しい事だった。特に、他人の目が過剰に気になるお年頃ならば尚更だ。

 だけど、悩みを抱えた状態のまま、解決の兆しも見つからない状態のまま、突如としてが訪れた。

 それは、ある日の事。たまたま立ち寄った小さな書店で競馬雑誌を買った時に、レジにあのお姉さんがいた時のことだった。


 ──競馬。好きなんだね。私も馬が好きでさ……。


 彼女のその一言が、好機となったのだ。


 お姉さんが動物好きであることは、何となく聞いたことがあった。

 走る馬が好きということも、そういえば聞いたことがある。だが、お父さんの影響もあって競走馬が好きだったというのは、その時になって初めて知った。

 私の方はたまたま読んだ漫画が面白かったという、些細なことから興味を持った世界だったのだけれど、まさかこのような形で好きな人との縁に繋がるとは思いもしなかった。

 中央の大レースの話や、地方の話、世界のレースの話や、過去の名馬たちの話など、雑誌やテレビ番組で聞きかじった話をただするだけでも楽しかった。

 なにより、そういう好きな話題を、好きな人と共有できるということがとても嬉しかったのだ。

 ただ、共通の話題もまたに過ぎない。あの頃の私が本当に楽しかったのは、お姉さんと仲良くなって、気軽にお家にお邪魔出来たこと。

 そして、気づいた頃には、子供の頃には想像もしなかったような関係になっていたことだ。


 春、少しずつ温かくなってきていたあの頃。

 私はお姉さんの家の近所の公園で、競馬雑誌を読んで暇をつぶしていた。

 メールで約束した時間までの数十分。そこで缶コーヒーを飲みながら読んだのは、次の日曜日に開催される桜花賞の特集だった。

 地方馬参戦。ディンドンガ―ル。

 どうしたって話題になる話ではあるが、大注目されている理由はやっぱり、デビューから十連勝し、さらに初めての中央、さらに初めての芝コースでもあった桜花賞の前哨戦、チューリップ賞を制していることにあるだろう。

 この馬は違う。過去の地方出身の名馬のように大活躍するかもしれない。そんな期待に胸を躍らせる記事にはどうしたって注目してしまう。

 そして、何よりも、そのディンドンガールの事をお姉さんが熱心に応援していたのも関心を向けてしまう大きな要因だった。


 何処からともなく聞こえてきたミュージックサイレンの音色で約束の時刻になったことに気づき、マンションの一室へと向かおうとすると、公園の入り口にちょうどお姉さんが立っていた。

 急いでそちらへ向かうと、お姉さんはニコニコしながら訊ねてきた。


「さっきの本?」


「うん。桜花賞の特集読んでた」


「そ。どんな記事があった?」


「ディンドンガールの記事とかもあったよ」


 付録のDVDにも、ディンドンガールが制したチューリップ賞の映像が入っている。きっと見るのを楽しみにしているだろう。


「桜花賞、勝てるといいな」


 小さく呟くお姉さんに、私は黙って頷いた。


 これは今も変わらない事なのだが、当時から私は特定の馬を追いかけるような見方はしていなかった。

 賭けることばかり考えているかと言えばそうでもなく、特定の血筋や騎手や厩舎、馬主や牧場を応援しているというわけでもない。

 ただ、毎レース誰がどのくらい勝っているか、どんな血統の馬が、何を勝っているのかを確認するのが好きで、そのために競馬を見ていた。

 だから、そういう意味でもディンドンガールは特別だったのだ。

 彼女が勝てば、お姉さんも喜ぶ。喜ぶお姉さんを見たいから、ぜひとも勝って欲しい。そんな馬は初めてだった。

 もうお分かりかと思うけれど、私はこの頃、お姉さんに相当首ったけだったのだ。


 お姉さんの暮らす部屋にたどり着くと、さっそくお酒を用意しながらDVDを再生した。

 三月の全レースがノーカットで収録されている他、特集などもおまけで入っていたので、全てを見るのはなかなか時間がかかる。

 だから、軽くご飯を食べたり、お酒を飲みながら視聴するのが常だった。


「ディンドンガールが桜花賞勝ったら、焼き肉パーティーでもしたいな」


 お姉さんはそう呟いて、お酒を飲んだ。


「その時は付き合ってくれる?」


「も、勿論。一緒にお祝いしよう」


「うん、お祝いしよう。お姉さんのおごりだよ」


 それを聞いて、私は桜花賞がすごく楽しみになった。

 他人の金で食べる焼き肉が楽しみだったかというと、ちょっとだけそうだが、それが全てではなく、お姉さんとそうやって約束が増えるのが嬉しかったのだ。


「あ、次、チューリップ賞だ」


 お姉さんがそう言って、私もまたテレビへと視線を戻した。


 ディンドンガールは、三番人気だった。

 地方巡りでの連勝記録も注目されてはいたが、全てダートの短距離という条件だったことや、血統の地味さがマイナスになったのだろう。

 一番人気はプリンセスミヤビという鹿毛の馬。当時の中央競馬のリーディングサイアーの産駒で、母系もまた活躍馬の多い超良血のお嬢様でもあった。

 そんなお嬢様に挑戦する形で、ディンドンガールは走ったのだ。


「やっぱ芦毛はいいねえ。ゼッケンが見えなくてもどこにいるかがすぐ分かる」


 お姉さんは上機嫌になりながらそう言った。


 彼女の言う通り、ディンドンガールは芦毛で、三歳ながら薄っすらグレーがかった馬体は何処にいてもすぐ分かった。

 中団からやや後方。そこから四コーナーあたりで徐々に上がってきて、そして、直線で全員交わしてなで斬っていく。

 ぞくぞくするようなその末脚は、何度見ても楽しくなってしまう。


「この走りだもん。桜花賞もきっと勝てる」


 チューリップ賞の振り返りが終わり、お姉さんは熱弁しながら隣に座っていた私の肩を握った。


「ねえ、日曜日は予定あるの?」


「ないよ」


「じゃあ、家で桜花賞一緒に見ない?」


「うん、見たい!」


 素直にそう返事をすると、お姉さんは機嫌がよくなったのだろう。そのまま私に唇を重ねてきた。

 お酒が回っているから、などと言える状況だけれど、実のところ素面でもこうなっただろう。

 そう、この当時、私とお姉さんは、そういう関係だった。

 別に付き合っているわけではない。お互いに恋人がいないことだし、と、お姉さんに誘われて、大好きだったからこそホイホイついて行ってしまって、そしてこうなってしまった。

 ただの遊び相手。退屈しのぎ。

 実際は、そうだったのだろう。だけど、私はそれでもよかった。お姉さんと一緒にいられるのならば、それがたとえ寂しさを埋め合わせるための戯れだったとしても、別に良かった。

 それでもいいと思えるほど、当時はまだまだ若かったのだ。


 数日後の日曜日。

 午後、私は約束通り、お姉さんの家にいた。一緒にお茶を飲みながら、テレビで桜花賞を観戦する。

 そして本馬場入場の際、お姉さんはふと私に言ったのだった。


「ねえ、ディンドンガ―ルが桜花賞勝っちゃったらさ、私たち、正式に付き合わない?」


「えっ」


 あまりに嬉しくて、その事ばかりが記憶に残っている。お陰で、なんて返事をしたかはあまり覚えていない。

 ディンドンガールはまたしても三番人気。

 一番人気はもう一つの前哨戦であるフィリーズレビューを勝った馬で、二番人気はチューリップ賞で勝敗決したはずのあの超良血馬、プリンセスミヤビだった。

 ファンファーレが鳴り、ゲートインが進む。

 あの時ほど祈るような気持ちでレースを見守ったことはなかっただろう。そして、ゲートが開く。いよいよ桜花賞は始まった。


 ──いけ!


 あの時の私たちはきっと、どちらもが欲しかったのかもしれない。

 そのをお気に入りの馬と、この舞台に託したのだ。

 そして、その結果は──。


『プリンセスミヤビだ! プリンセスミヤビ! チューリップ賞での雪辱を果たし、プリンセスミヤビが見事に開花!』


 ──結果は、プリンセスミヤビの圧勝だった。

 二着は一番人気の馬が入り、三着には昨年の二歳女王。そして、ディンドンガールは末脚振るわずの四着だった。

 テレビから伝わる歓声の中、ウイニングランをする桜の女王の姿が映される。その映像を、私たちは静かに見つめていた。

 やがて、画面が切り替わり、スタジオでのトークが始まると、お姉さんは溜息交じりに言葉を発した。


「やっぱり、そう上手くはいかない……か」


 それから一か月後、ディンドンガールはオークスへと駒を進めたが、今度は十一着と大敗。

 その後も地方の重賞は勝利するも、中央のタイトルは得られないまま一年が終わった。

 そして、その年の秋の終わり。私とお姉さんの方にも大きな変化は訪れた。お姉さんが転職することになったのだ。

 引っ越すというわけではないが、これで書店まで競馬雑誌を買いに行くという口実もなくなってしまった。

 そうなると、というものがなくなっていき、お姉さんの家に行くこともすっかりなくなってしまった。


 自然消滅する形で関係が終わるのも、仕方なかったのだろう。

 私たちは結局、どんなに肌を重ねても、がなくなれば、そのまま関係が希薄になってしまうほどにしか愛し合えていなかったのだ。

 お姉さんと連絡を取らなくなってしまった後も、私は競馬に関心を寄せ続け、ディンドンガールの情報も追いかけた。

 ディンドンガールは結局、チューリップ賞以外の中央重賞は勝たないまま、五歳で現役を引退し、繁殖入りをした。だが、繁殖入り後も、地方の雄と呼ばれた母を超えるような産駒は現れないまま時が過ぎていった。


 そして、十年経った今年、訃報は舞い込んだ。

 あの桜花賞から十年。ディンドンガールは十三歳。出産時の事故により他界とのことだった。

 そのニュースを見た瞬間、気づけば私はぽろぽろと泣いていた。


 ──そっか。ディンドンガール、死んじゃったのか。


 しばらくその死を惜しみ続け、少し心が落ち着いてきたところで、ふと私は思った。

 お姉さんもきっと悲しんでいるに違いない。その途端、私は外へ出かける気になった。

 向かった先は、あの小さな書店だった。この十年の間に、町のあちらこちらでこの手の書店は閉まっていったけれど、この店だけはまだ残っていた。

 しかし、立ち寄るのは十年ぶりだった。お姉さんが辞めてからは、ほとんど行っていなかった。

 入ってすぐにうろついてみれば、すぐにあの競馬雑誌に目が留まった。あれから、この雑誌の方も変わってしまった。

 かつてのようにDVDの付録はついていないし、ページ数もあの頃に比べてだいぶ薄くなったような気がする。けれど、表紙の雰囲気は変わらなかった。

 懐かしい気持ちになりながら、開いてみる。勿論、ディンドンガールの記事はない。恐らく話題があがるとしても、来月号以降のことだろう。


 なんとなく、ではあるが、競馬雑誌を購入すると、私はそのまま公園へと向かった。お姉さんの住んでいたマンションの近くの公園だ。

 よく待ち合わせに使ったあの場所は、久しぶりに訪れた今も何も変わっていなかった。あのマンションにお姉さんが今も暮らしているのかどうか。それすらも分からない。そういった近況報告をすることも、すっかりなくなってしまったからだ。

 公園の東屋に座り、買ったばかりの競馬雑誌をぺらぺらと捲る。すると、プリンセスミヤビの名前と写真に目が留まった。

 もうすぐ桜花賞。歴代の桜花賞馬についての特集だったらしい。


 ──プリンセスミヤビ、か。


 幸い、彼女はまだ元気らしい。超良血というだけあってか、繁殖入り後の産駒も皆、中央で勝ち上がっている。ディンドンガールとは残酷なほど対照的だった。


 ──必然、だったのかな。


 あの時、ディンドンガールに未来を託そうと思った私たち。その時から、いずれこうなる運命だったのかもしれない。

 なんだか切ない気持ちになってしまい、私は競馬雑誌を閉じた。そして目の前に咲く桜の木をぼんやり見つめた。

 そして、ふと、私はその根元に立つ女性の姿に気づいた。


「あれ……」


 スマホを片手に桜の写真を撮っていたようだが、私の視線に気づいたのか、彼女はそっと振り返ってきた。

 目と目が合った瞬間、私は思わず立ち上がってしまった。


「──お姉さん」


 十年ぶりの、再会だった。少しだけ気まずさもあった。久しぶりだから緊張もあった。

 だが、お姉さんは真っ直ぐ私のもとへと近づいてきて、東屋に腰を下ろした。隣にそっと座ると、お姉さんは落ち着いた様子で口を開いた。


「ディンドンガール、死んじゃったね」


 久しぶり、の挨拶もなかった。まるで、昨日ぶりにあったかのような調子で、お姉さんはそう言った。

 会わなかった間の事なんて、お姉さんからすれば取るに足らない事だったのかもしれない。今、私たちの間に流れている空気は、まさしくあの頃と同じ。ディンドンガールが桜花賞に参戦した、十年前の頃と何も変わっていない。

 その事実が徐々に分かってくると、私は何故かホッとした。そして私もまた、まるで昨日ぶりに会ったかのように、「寂しいね」と、返したのだった。


 その日を境に、私たちはまた、共に過ごすようになったのだった。

 結局のところ、なんて、何でも良かったのだろう。

 そして、この先を左右するのは、馬ではなく私たち自身なのかもしれない。

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お姉さんと愛した馬 ねこじゃ・じぇねこ @zenyatta031

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