悪夢の終わりⅤ
眩しい光に包まれたかと思うと私は再び私に戻っていた。
「っ…はあ!」
思いっきり息を吸い込む、心臓が痛いほど鳴っていた。
思わず自分の両手を目の前で広げ、握ってみたり開いてみたりしながらその手が自分の意思で動いていることを何度も確認した。
白く蜘蛛のように細長い指、私の手だ。
足元を見れば毛皮のブーツ、これも紛れもなく私のものだ。
ここまで確認してようやく私はほっと息をついた。
—大丈夫、やっぱりこれは“私”だ。
辺りを見渡す。
少し雪を被った緑色の木々、澄んだ湖、そしてその畔には木で作られた家、奥には耕された畑、少し離れたところには洞窟。
先ほどと何も変わらない光景…
—夢から覚めていないのだろうか?
私は不思議に思いながら一歩踏み出す。
しかし次の瞬間踏みしめていた柔らかな苔が一気にその背丈を伸ばし、まるで蔦のように私のブーツに絡みつきそれ以上進むのを阻止した。
「…っ!?」
慌ててしゃがみこみ、絡みついた苔を外そうと試みたが外せばまた新しい苔が絡みついてきてきりがない。
私は進もうとするのを諦めるしかなかった。
遠くを見ればいくつもの人影があった。
よくその姿を見ようと私は目を細める。
―ノウェム!
畑横の木にもたれて読書にいそしむその姿は紛れもなくノウェムだった。
でもノウェムだけではない。
その周りには大人の姿があった。
鍬を持ち、その身を粉にして畑を耕している。
ドゥオとウーナが二人で追いかけっこをしながら畑の周りではしゃいでいた。
相手を捕まえては鬼になり、真っ赤に熟れた林檎のような頬で交代交代追いかけあっている。
オクトーは赤色の真新しいセーターを身にまとい、自慢げにセプテムに見せていた。セプテムもセプテムで新しい靴を見せびらかすようにぶらぶらさせている。
セクスの笛の音がその穏やかで優しい世界をさらに柔らかな色彩で彩った。
クイーンは自分の書いた詩を母親に本にしてもらったらしい。
セクスの隣で頬を赤らめながら自分の詩集を抱きしめている。
トレナは父親の膝の上でお菓子を一生懸命頬張っていた。
その姿は子栗鼠のようだ。
その後しばらくして大きな笑い声と共にクラルスと大人たちが山を登ってきた。
クラルスは清潔感のあるシャツとズボンを身にまとっている。
クラルスが何か面白い顔をして気を引こうとするたびにその頭をまるでじつの子供を撫でるかのように大人たちがくしゃくしゃっと撫でた。
山を登ってきた大人たちは大きなバスケットを抱えており、畑仕事をする他の者たちの所に持っていく。
バスケットの中身はサンドイッチだった。
昼休みだと大人も子供もやっていることからいったん遠のき、円になってサンドイッチを食べだす。
何もかもが穏やかだった。
その光景は日常で、非日常だった。
「そう、理想郷。」
エナの言葉がふっと頭をよぎり、私は思わず呟いた。
その瞬間ガキン、と頭の中で何か硬いものにひびが入る音がした。
穏やかに微笑むクラルス達が光の中にゆっくり溶け込んでいく。
―終わるのだ
なぜだかすぐにそれが分かった。
締め付けるような胸の痛みに私は思わず手を握りしめた。
その時、私の少し前に見覚えのある人が立っていることに気が付いた。
裾のほつれた長い黒色のローブ、白く腰のあたりまで伸ばされた髪―紛れもないサンクトゥスの姿だ。その肩には小さな烏がとまっている。
ゆっくりと消えていくその光景を彼はとても穏やかな表情で見つめていた。
全てが消えると彼はゆっくりと振り返った。
―私とは違う顔だ
彼の赤い瞳が私を捉えた。
その表情は静かでどこか悟ったような雰囲気すら持ち合わしていた。
サンクトゥスは私を見て柔らかな微笑みを浮かべるとゆっくりと湖の水面を渡り、その先の光の中へと同じように姿を消した。
彼は今度こそ個体を脱してただの色へと帰ったのだ。
なぜあんなに柔らかな微笑みを浮かべたのか私にはわからなかった。
―私は彼が紡いでいた物語を終わらせた張本人なのに
もう何もなかった、湖も、洞窟も、木々も、家も、畑も、人も。
足に絡みついていたあの苔ももうなかったが私は前に進めなかった。
ただ白く、どこまでが空間なのかすら認識できない場所に私は立ち尽くしていた。
―私は、私には無理だ
私は力なくその場にしゃがみ込んだ。
私はあんな穏やかに終わりを受け入れることなんてできない。
私はあんな風に人々を愛することなんてできない。
私はあんな風に人々の幸せを願うことなんてできない。
私はかれが己を憎み湖に身を投げる瞬間既に乖離していたのだ。
私こそが悪魔だった。
私は村の人々が憎い。
金塊のためだけに家を襲い、日常を奪ったやつらが憎い。
『悪魔の子』だと私を遠巻きにした貴族が憎い。
王権を認めようとしなかった国民が憎い。
—憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い
私はずっと『悪魔』と呼ばれた男は自分と似た顔をしていると勝手に思い込んでいた。
しかし彼と私はあまりに違う。
そう、髪が白くて目が赤いだけ。
彼は終わりを受け止め、静かに消えていった。
けれども私はそんなことはできない。
—私は終われない
私は終われないのだ、仕方ない。
—だって、仕方がない
「悪魔は欲深いのだから。」
ぼそりと呟いた独り言に言葉が返ってくることはなかった。
浮き出る自分の体とは対照的にそのおぞましい言葉は光の中へと溶けていった。
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