第5話 笑ってくれ
「つまり、あの時の自分を助けろということですね。」
木造ハウスの中の屋台に一人の小奇麗な男性が座っている。
向かいには曙。両手を膝に置き、眼鏡越しにまっすぐ相手を見据えている。
「はい。ですが、既になくなっている“あなた“です。導いたところで生きかえることはありません。」
「僕のエゴです。魂が浮かばれる保証なんてありません。それでも手を貸していただけますか。」
周りをほうきで掃く音だけが流れ、男性の決断を肩に力を入れて身構える。
そんな、目の前で鎧を背負っているかのような曙に、男性はふっと笑った。
「はは、当たり前じゃないですか。助けますよ、
その笑みに力が抜け、曙は眼鏡を指で押し上げて小さく息をつく。
「ありがとうございます。」
「魂の世界は基本的に亡くなる前夜になっています。この屋台と共に夜に入り、
「なぜです?」
「魂の世界は
「なるほど。」
「はい。ですので
「そうしたら、こう声をかけてください――
“一杯タダでいいから、いっぱい話を聞かせてくれ“。」
男性は真剣な顔で言葉遊びをする曙に、思わず口元をほころばせる。
「はは、なんですか、それ?」
肩の力を抜かせたかったのだろう。曙は穏やかに微笑んだ。
「売り文句です。」
「それでは――行ってらっしゃい」
その瞬間、屋台の木目が蒼白に透け、光に溶けていく。
目を焼くほどの白ののち、曙が再び目を開いた時――
眼鏡の奥に、もう男性の姿は映っていなかった。
「お母さんまだかな…?」
窓は黒に沈み、星ひとつない夜空が張りついている。
寒風にさらされる錆びたアパートの玄関口に、ひとりの少年がいた。
腹を押さえながら寝転ぶ。
腹の奥で氷が鳴るような音がして、息を潜めても止まらない。
瞼の裏に夜が落ちてきて、もうすぐ完全に閉じてしまいそうだった。
「どこにいるんだろう…?」
待っていても何も変わらない。
そう悟ったのだろう。少年は力を振り絞って立ち上がり、
外気で冷えきったドアノブを握った。
一歩、また一歩。
大通りを横目に歩く。
母親に言われた通り、街灯と車のヘッドライトが絶えず流れる場所を選んで。
それでも、夜の冷気は少年の体を容赦なく削っていった。
「はー」、少年は白く吐き出された吐息を両手で抱える。
少年は笑っていた。
寒さが肌を凍てつかせても母親の編んでくれたセーターが守ってくれる、母親は必ずあのスーパーにいるという確信が、少年の表情を凍らせることはなかったのだ。
「…ごめんなさい、お母さん。」
少年は大通りから外れ、街頭の光が届かない路地に入る。
少しでも早く母親に会いたいのだろう、教えに反し暗がりを行く。
闇は深く、足が確かに前に出ているのかもわからないほどだった。
やがて灯りが視界に差し込む。誰もいない路地に、ぽつんと屋台が佇んでいる。
少年は肩の力を抜き、ほっと息をついた。
「少年、寄ってけ。いっこタダにしてやるから、その代わりいっぱい話を聞かせてくれよ。」
屋台の中から、やわらかな男性の声がする。少年は止まらなかった。
「ちょ、ちょっと、タダだぞ!」
店主がからかうように声をかけると、少年はようやく立ち止まり、店の方をうかがう。
「お母さんが“知らない人について行っちゃダメ”って言ったから。」
「“どんな時も大通りを歩け”って約束は守らないのに、それだけは守るのか?」
「なんで知ってるの、それ?」
少年は目を見開く。
「お・に・い・さ・ん、だよ。」
「え?」
店主はにやりと笑い、屋台の机にリンゴジュースの入ったグラスを差し出した。
「さあさ、寄っていきなよ。リンゴジュース、大好きだろ?」
「…うん。」
少年は簡素な椅子に腰をかける。
男性は頬を浮かばせ、ニヤニヤとしている。
しかし、どこかその瞳はもの悲しさを抱えていた。
それは、この少年が無くなっていることを知っているからからなのか、懐かしさに心揺らいでいるのか。
「美味しい。」
リンゴジュースを両手でしっかりと持ち、大事にするように飲んでいた。
「そうか、それは良かった。」
少年は笑みこそは浮かべないものの、何度もグラスを口に運んでいる。
気づけばグラスは仄暗い灯りを中に宿していた。
「少年、少しは腹膨れたか?」
「うん。ありがとうお兄さん。」
「そっか、よかったよかった。」
「だけどお兄さん、僕まだ9歳だからいっぱい話できないよ。」
「そうかじゃあ、体で払ってもらうしかないな。」
「体で?僕にそんなことできるの?」
「できるさ。」
少年は首を傾け、男性に尋ねる。
男は一度うつむき、長く息を吐いた。沈黙が場を満たす。
やがて顔を上げたとき、その瞳は鳥一羽も映さない山の湖のように静かだった。
「笑ってくれ。」
「えっ…それだけ?」
「ああ。それだけでいい、頼む。」
少年は戸惑いながらも、グラスを胸に抱え、小さく口角を上げた。
その不器用な笑みに思わず水面が揺れる。
「ありがとう。…それと、ごめん。」
男性の謝罪に首をかしげる。
少年は分からない、まだ幼いから、この先何が待っているを知らないから。
「ほら母さんの元に行くんだろ?じゃあ、あっちに進め。」
男性は少年が歩みを進めていた方向とは逆の方向を指差している。
「えっ、でもお母さんのスーパーはそっちじゃないよ。そっちはおもちゃ屋さんがあるだけだよ。」
「今日は何の日だ、少年?」
「…僕の誕生日だけど。」
「お母さんは君のプレゼントを買っているんだよ。」
少年はパッと顔を輝かせ、立ち上がると駆け出した。
「少年!」
暖簾を揺らす風にのせて、男は声を飛ばした。
「母さんは、君を本当に愛している。だから……自分を責めるな。」
少年はきょとんと振り返りもせず、それでも笑い声を残して返した。
「うん!よく分かんないけど、分かった!」
小さな背中は灯りに溶け、足音だけが遠ざかっていった。
「頑張れ、
少年はかける、満面の笑みで。
「母さん、きっとあのロボットを買ってくれたんだ、だから重くて帰って来るのが遅いんだ!」
走る、走る、走る。
おもちゃ屋を向こうに置く、歩道橋が見えてくる。
その歩道橋に何か、俯く人影のようなものが見えてくる。
茶色いコート、白いマフラー、少年には見慣れた服であった。
そして横に、少年がねだったロボットのおもちゃ。
「お、お母さん?…何してるの?」
朝弱い母親を起こすように、いつもの朝のように体を、背中をさする。
「こんなところで寝たら…凍っちゃうよ?そ、それに僕…お腹すいたよ…」
背中をさする。
さする、さする、さする、さする――
「起きてよ!!」
叩く。
少年の声は寒さに乗り、町中に響き渡った。
「救っていただけましたか?」
男性は先ほどの冷気は消え去り、ほうきの掃く音がする屋台の中に戻っていた。
目の前には曙。
「…はい。」
男性が少し口ごもったことに眼鏡を曇らせる。
しかし、言及はしなかった。
「そうですか、ありがとうございます。それではあなたを元の世界に戻しますね。」
曙を制止させるように男性が口を開く。
「…最後に独り言を聞いていただけますか?」
「もちろん。」
「俺の母親は、歩道橋で足を滑らして亡くなっています。」
「寒冷渦巻く俺の誕生日にです。」
「俺のねだったプレゼントに視界を奪われて、足を滑らせたんです。」
「俺はそれを目にしました、泣き叫びました、そして
「あのまま母親の勤務先に行っても、母親はいない、それどころか寒さと空腹で亡くなってしまう…」
「曙さん、他に方法はあったんですかね…?母親の死を直面せずに救う方法が…」
「…生きる方法が。」
「そもそも、亡くなってる魂を救うのってどうすればよかったんですか…」
「間違ってますか…?俺、救えましたか…?」
男性は今にもあふれ出しそうな感情を、肩に力を入れて、口を震わせて、抑えている。
曙は優しく、暖かくその肩に手を伸ばし、男性に触れる。
「あなたの辛い思い出を僕のエゴで呼び起こしてしまって、申し訳ありません。」
曙は深く息を吸った。そして静かに言った。
「僕ができるのは二つだけ。謝罪と肯定――」
言葉を一区切りして、曙は男性の目に真っ直ぐ視線を向ける。
「あなたは間違ってない。」
曙の言葉に瞼を閉じて、口角を少しあげる。
「はは、何の根拠があるんですか、それ。」
「何の根拠もありません、他の人から見たら間違っているのかもしれない。だけど今ここには僕とあなたしかいない、そしてあなたは僕に答えを求めた。」
「だから、僕の意見を信じてください。」
その言葉に、男は肩を震わせながら小さく笑った。
やがて鼻の奥がツンと来て、涙が堪えきれずに零れ落ちた。
「それではあなたを元の世界に戻します。お幸せに。」
「…ありがとうございます。」
男性は蒼白い光に包まれ、屋台から消えた。
しかし、すぐに暖簾の向こうから声がする。
「曙、救えたの?」
暖簾がふっと揺れ、藍花が椅子に腰をかける。
「あれ、藍花ちゃんに教えたっけ、僕の仕事。」
「お姉ちゃんから聞いたの、早く答えて。」
曙は眼鏡を押し上げ、ほんのわずかに頬を緩めた。
「もちろん、救えたよ。」
それが確信なのか、祈りなのか。
藍花には、まだ分からなかった。
曙光屋 涼風 @suzukaze-
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