第2話 朱の鳥居

山梨の山道を走る車のフロントガラスに、雲の切れ間から差し込む光がまだらに落ちる。進めば進むほど空気は濃く淀み、まるで道そのものが何かを拒んでいるように重くなっていった。


「……この先に本当に村があるのかしら」

ハンドルを握る黒崎の横で、美咲が小さく呟く。


「地図から消された場所だ。真っ直ぐには辿り着けないさ」

黒崎は煙草を咥えかけて、思い直したようにポケットへ戻した。


途中、二人は山中のパーキングエリアで小休止をとった。

そこには地元の軽トラックが一台停まっており、荷台には薪が積まれていた。

作業着姿の初老の男が缶コーヒーを片手に腰掛けていた。


「兄さんら、観光客かい?」

声を掛けられ、黒崎は曖昧に笑う。

「廃村を見に行こうと思ってね。知っているか?」


男の表情が一瞬にして曇った。

「……あそこはやめた方がいい。若い連中が、この前も二人、戻らなくなっただろう」

「ユーチューバーのことか?」美咲が思わず前のめりになる。

男は苦々しく頷いた。

「警察は山で足を滑らせたって言うがな……村の奥には“朱い門”があるんだ。昔から地元じゃ『あれを越えちゃいけねえ』って言われてた」


その声色には、言葉以上のもの――長く封じられてきた恐怖の残滓が滲んでいた。


再び車に戻ると、美咲はノートパソコンを開き、残された資料や古地図を食い入るように確認した。

やがて、彼女の指が止まる。


「……おかしい。古地図だと、村への道は一本道のはずなのに、最新の航空写真には道が写っていない」

「つまり、普通に探しても辿り着けない」黒崎が言う。

「ええ。それに――」美咲は画面を指さした。「記録を調べると、“春分や秋分の前後、特定の時刻だけ道が現れる”って噂が残っているんです。村は“季節の境目”にしか口を開かない……」


黒崎は低く唸り、時計を見た。

「今夜は秋分の前日だな。幸い、俺たちはまだ間に合う」

「所長……まさか本当に、そんな非科学的な……」

「非科学的かどうかは、現場で決まる」黒崎はハンドルを切り、林道へと入った。


しばらく進むと、木々の影が異様に濃くなり、カーナビは位置を見失った。

しかし、美咲の調べた時刻が近づくにつれ、前方の闇がゆらぎ、ぼんやりと古びた石畳の道が姿を現した。


「……見えたか?」黒崎の声は低く、確信に満ちていた。

「はい……本当に、道が……!」美咲は息を呑む。


タイヤがその石畳を踏んだ瞬間、周囲の空気が一変した。

鳥の声も虫の声も消え、代わりに耳鳴りのような低い振動音が車内を満たす。

それは大地そのものが心臓を打っているかのような、不気味なリズムだった。


「行こう。やつらが辿り着いた場所に、俺たちも足を踏み入れる」


遠く、朱色の鳥居の影が、夜の帳に滲むように浮かび上がっていた。




最初にそれを見つけたのは、美咲だった。

苔むした家屋の戸口を押し開けた瞬間、腐臭とともに異様な気配が漂い出した。崩れかけた座敷の奥、半壊した仏壇のような台の上に、奇怪な像が鎮座していたのだ。


人間の形を模しているはずなのに、四肢は異様にねじ曲がり、顔の位置には穴のような窪みが空いている。像の表面には、触れなくてもざらつきが伝わってくるような、禍々しい文様が刻まれていた。


「……何だ、これは」黒崎が低く呟いた。


「民俗学的に見れば……『依り代』に近いものね」美咲は額に汗を浮かべながら答える。「けれど、この形は人の信仰とは違う。祈りというより、“通路”としての機能を持たされている……そんな感じがする」


「通路?」


「そう。あの鳥居と同じ。何かを『こちら側』へ通すための仕掛けよ」


黒崎は顎に手を当て、崩れた天井を見上げた。「つまり村全体が……封じられた門だとすれば、像は鍵の一部、あるいは目印か」


二人は村をさらに歩き、手がかりを探した。朽ちた民家の壁には、意味不明な記号が刃物で刻まれている。美咲がスケッチを取ると、黒崎はそれを地図と重ね合わせた。


「ほら見ろ。これ、ただの落書きじゃない。村の地形を符号化してある。鳥居の位置、断崖の線、そしてこの像の場所が……奇妙に一致している」


「つまり、鳥居から直接は行けない。でも特定の条件を満たせば、結界が……」


「開く」黒崎が言葉を継ぐ。その瞳には恐怖よりも、冷徹な探偵の光が宿っていた。


二人が再び鳥居へと戻ったとき、夕陽が赤く山を染めていた。鳥居の前で美咲は、像に刻まれていた文様と同じ指の動きを空に描いた。すると、夕陽に照らされた鳥居の影が揺らぎ、奥に見えるはずの林道が、まるで墨汁を垂らしたように黒く歪んだ。


「……見える?道が、変わった」


「やはりな。条件は『時刻と印』か」黒崎は短く息を吐いた。「村人はこの仕組みを知っていたんだ。外から来る者が簡単に辿り着けないように」


影の奥からは、潮の匂いと、かすかな呻き声が漂ってきた。それは風の音に混じっているはずなのに、まるで誰かが真横で囁いているかのように鮮明だった。


「黒崎さん……この先に、本当に入るの?」美咲の声が震える。


「ここまで来て引けるか。あの二人の行方も、この先に答えがある」


鳥居を跨いだ瞬間、空気の色が変わった。夕暮れの赤は漆黒に塗り潰され、無数の囁き声が風に乗って渦巻く。背後を振り返っても、もう元の山道は消えていた。


二人は息を飲み、足を踏み出した。

その先に待つのは、村の真実か、それとも――。



次回 第3話「社殿の影」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る