第2話 逢坂麗について

 1週間前。ベッドタウンに位置する高町医院の応接室に、長机を挟んでソファに座った高町と美玲が向かい合っていた。

 美玲の表情は固く、思い詰めた様子で両膝に乗せた両手は強く握られている。先に口を開いたのは高町だった。

「わざわざ当院にお越し頂きありがとうございます。単刀直入にお伺いします。メールで仰っていた守崎の"神の手"が必要、というのはどういった事情でしょうか?」

 美玲はハッと顔を上げて高町を見据える。

「事前に用件お伝えできなかったのは申し訳ありません。きっと書いても信じてもらえないと思ったからです」

 それを聞いて顎に手を当てる。どうやら単なる治療の依頼では様子を高町は感じ取った。

 その時、コンコンと扉がノックされる音が響いた。扉が開くと3人分のお茶をトレーに載せた澄香だった。その後ろには守崎の姿もあった。白衣のポケットに両手を突っ込み、目にかかる重たい前髪のせいか童顔だが陰鬱な雰囲気を感じさせる。

「僕のことは気にしなくていい。それより話を続けてくれ」

 開口一番、高町の隣にどかっと座るとポケットに手を入れたまま長い足を組んだ。

「すみませんね。守崎は常識のないやつでして」

 困った顔をしながら美玲に諭す。美玲は守崎の性格にも面食らっていたが1番驚いていたのは守崎の若さだった。"神の手"と称され数々の手術を成功させた名医と聞いていたので、てっきり中年の医者を想像していた。だが目の前にいる不遜な医者は25歳前後の研修医にしか見えない。

 長机に澄香がお茶を差し出した。トレーを胸の前に抱え、扉の隣で控える。

 美玲は、いただきますとお茶に口をつけ心を落ち着かせる。高町、守崎を交互に見た後ふうと息をついて意を決した。

「実は、姉を――姉の幽霊を手術してほしいのです」

 高町は驚きに目を見開き、守崎は睨みつけるように目を細める。ただならぬ空気が応接室を支配していた。


「馬鹿馬鹿しい。幽霊に手術だと?いたずらなら帰ってくれ」

 勢いよくソファから立ち上がり踵を返す守崎を高町が白衣を引っ張り引き止める。

「まあ待て。ちゃんと美玲さんの話を聞いてからだ。いたずらならわざわざアポ取ってここに来ないだろ」

 高町は美玲の真剣な表情、決意を含んだ瞳を改めて確認する。こちらが物怖じしてしまうほどの強い視線だ。

 高町があまりにも引き留めるので観念したようにため息を吐くと守崎は座り直した。

「姉の幽霊と言ったな。君のお姉さんは既に亡くなっているのか?本当に幽霊を見たのか?百歩譲って幽霊がいたとしてなぜ、手術が必要なんだ?」

 矢継ぎ早に守崎は美玲に質問を投げかける。一方的な応酬に少しばかりたじろいだ様子の美玲だったがはっきりとした口調で説明し始めた。

「姉の幽霊、という言い方は少し語弊があるかもしれません。姉の名前は君坂麗きみさかれいと言います。歌手をやっていて名前は逢坂麗です」

 高町があからさまに驚いた様子を示して身を乗り出した。

「逢坂麗さんの妹さんでしたか。ご姉妹で美しいのですね」

 高町の軽口にも守崎は興味なさげで、両の指先を突き合わせてその指を人差し指から順にクルクルと回していた。

「いや、でも待って下さい。確か逢坂さんは昏睡状態になっているはずでは……」

「そうです。姉は1ヶ月ほど前に王立大学の病院で心房中隔欠損症手術を受けました。手術は無事成功したと聞きましたが術後、未だに意識は戻っておりません」

 眠り続ける姉を思ってか、視線を膝に落とし美玲は揃えた両手の拳を握り込む。

「私は毎晩、姉の傍に付き添っていたのですがある時不思議なことが起こったんです」

 美玲はもう一度顔を上げる。高町は両手を交差させて美玲の話を真剣に聞いている。興味はなさそうであるが守崎も美玲の話には耳を傾けている様子だった。

「その日も姉はいつものように眠っていました」


 蛍光灯で照らされた病室は白を基調としているせいか妙に無機質で冷たく感じる。

 純白のシーツがかけられたベッドにはひとりの歌姫が眠り続けていた。少しウェーブのかかった明るい茶色の長い髪は丁寧に手入れされて美しさを保っている。麗の髪を梳かすのは美玲にとっての日課だった。

「今日もお姉ちゃんは綺麗だね。でも早く起きないと髪の毛、傷んできちゃうよ?」

 そう言って麗の髪を櫛で梳いていく。櫛からは艶やかな頭髪がサラサラと流れていった。

 麗の眠る病室は個室で、取り付けられた心電計が規則的に音を発しているだけだ。姉と妹だけのこの空間は悲しいほどに静寂で満ちている。

 面会限界時間ギリギリまで傍にいる美玲は麗の髪を梳かし終えると持参した本を読もうと手提げバッグに手を伸ばす。

 ふと、何か得体の知れない違和感を感じた。麗の様子は相変わらず眠ったままだ。その上の空間、ベッドから人ひとり分の高さから視線のようなものを感じる。誰かにじっと見つめられているような感覚。もちろん視線を感じる空間には何もない。

「お姉ちゃん……なの?」

 発した言葉の内容は美玲自身も予期していないものだった。なぜ姉の麗だと思ったのかわからない。ただ感じた視線にはらどこか懐かしく温かさがあった気がした。

 ――カタ。

 音がした。

 麗の下着やパジャマが入っているキャビネットの上に置いた飲みかけのカップにあるスプーンが揺れた音だった。中のコーヒーはスプーンが揺れたことで波紋を作っていた。

 問いかけに呼応するように動いたスプーンを見て、美玲は目を見開く。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんは私の声、聞こえてるの?」

 ――カタ、カタ。

 わずかな沈黙の後、2度。スプーンが明らかに揺れた。

 信じ難いことではあるが美玲は確信した。この空間には美玲、麗の人間2人以外に何かがいると。スプーンの揺れは偶然では片付けられない。

 意を決して美玲は虚空に向かって再度問いかける。

「あなたはお姉ちゃんの幽霊で、お姉ちゃんは死んじゃったの?」

 今度はスプーンが揺れることはなかった。

「お姉ちゃんは生きているの?」

 カタ、カタ。スプーンは2度揺れる。どうやらこれは工程のサインのようだった。

 美玲は麗の意識があり、麗はまだ生きていることに胸をときめかせる。昏睡状態の麗と意思疎通が図れるのならばこれほど嬉しいことはない。

 質問したいことは沢山あった。美玲は麗の幽霊と思われるそれに次の質問をしようとした矢先。

 カタ、カタ、カタ――カタカタカタカタカタカタ。

 今までの返答とは違う異様な揺れに美玲は恐怖を覚えて身構える。

 麗の幽霊に向けて気を研ぎ澄まさせていると、麗が息苦しそうにしているのを感じた。直感的な感覚でしかないが麗が苦しそうに胸を押さえている姿が脳裏をよぎる。

「苦しい?苦しいのね、お姉ちゃん!」

 麗が苦しそうにしている様子はまるで、あの時にそっくりだ。麗が病気を患い、手術を行う前のあの様子と。

 美玲は確信した。麗は生きていると、そして麗の幽霊も同様に心房中隔欠損症に苦しんでいることを。

「お姉ちゃん。私が絶対お姉ちゃんを助ける。お姉ちゃんがたとえ幽霊になっていたとしても、ちゃんと手術を受けられるお医者さんを探してくる。だから、もう少しだけ待っていて」

 胸に両手を当てて、美玲はたったひとりの姉に届くように声を絞り出した。意識はなおも病で苦しみ続けている麗を救うため、美玲は決意した。姉の幽霊を治療できる外科医を必ず探し出し、手術させてみせると。

 部屋でひとり、そう告げると、美玲を温かな風が撫ぜた気がした。――カタカタ。スプーンは揺れ、それきり動くことはなかった。規則的な鼓動を知らせる電子音だけが再び病室を支配した。

 面会時間終了までまだ時間はあったが美玲は立ち上がり病室を後にする。

 幽霊をも治療できる天才外科医。美玲は一刻も早くその人物に会いに行かねばならなかった。

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