【短編】午前5時のグリーンライト
モノを描く人
第1話 午前5時のグリーンライト
夜勤明けのタイムカード。ガシャン、と刻む無機質な音が、長い夜のエンディングテーマ。蛍光灯の白々とした光に別れを告げて、まだ藍色が支配する世界へ飛び出す。体は鉛みたいに重いのに、心は鳥みたいに軽い。このアンバランスが、夜明け前の特権だ。
愛用の自転車に跨って、ペダルにぐっと力を込める。
一漕ぎ。
世界が後ろへ流れ出す。
二漕ぎ。
思考の澱が剥がれ落ちていく。
シャーーッ、とタイヤがアスファルトを滑る音。それが私のBGM。誰もいない大通りは、私のために用意された滑走路だ。
いつもは車で埋め尽くされる片側三車線。そのど真ん中を、風を切って突き進む。なんて自由!なんて贅沢!頬を撫でる、ひんやりと湿った朝の空気。甘い土の匂いと、遠い潮の香りが微かに混ざる。深く息を吸い込めば、肺の中が新しい世界で満たされていく。
信号が、見えた。
赤。
速度を落とす。キ、とブレーキが鳴く。静寂。
カタン、コトン…。
遠くで始発電車が鉄橋を渡る音。世界の心臓が、ゆっくりと動き出す合図。
パッ。
目の前の信号が、鮮やかな緑に変わった。
行け、と世界が言っている。
私のためのグリーンライト。
再びペダルを踏み込む。今度はもっと強く。速く。
スピードが上がる。景色が溶ける。街灯のオレンジ色が、尾を引いて光の線になる。コンビニのガラス窓に、疾走する私の影が一瞬映って、すぐに消えた。
そうだ、この感覚。
誰にも邪魔されない。何にも縛られない。
ただ、私と、風と、リズムだけがある世界。
ペダルを漕ぐ足のリズム。
点滅する工事現場の黄色いランプのリズム。
遠ざかっていく鉄橋の音のリズム。
すべてのリズムが一つになって、私の心臓のビートと重なる。ドクン、ドクン、と力強い音楽になる。
東の空が、ほんのりと白み始めた。夜の藍色と朝の白色が混ざり合う、一瞬だけの魔法の時間。グラデーションの空の下を、私は飛ぶように走る。
特別なことなんて何もない。
ドラマみたいな出会いもない。
でも、この疾走感。この開放感。
世界を独り占めしている、この確かな手応え。
坂道を一気に駆け上がると、視界が開けた。街が、ゆっくりと目を覚まそうとしている。ああ、きれいだな。
汗が首筋を伝う。それが、とてつもなく気持ちいい。
そうだ、家に帰ったら、まず窓を全開にしよう。そして、キンキンに冷えた炭酸水を、グラスに注いで一気に飲み干すんだ。
喉を駆け抜ける、あの最高の刺激を想像したら、自然と口角が上がった。
ペダルを漕ぐ足に、また力がこもる。
最高の朝は、もう始まっている。
【短編】午前5時のグリーンライト モノを描く人 @Monokakuhito
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