月の裏側

野梅惣作

月の裏側



今夜も、月は優しく地球を照らす。


だが、私たちに向けているのは、いつも同じ面だけだ。


裏側には、表と違ってクレーターだらけの凸凹が広がっている。


もし、月の裏と表が逆だったなら――その月は、今と同じように神秘の象徴でいられただろうか。


もっとも、裏も表も人間が勝手に決めた呼び名にすぎない。

もともと月にとって、向きなど存在しないのだから。


***


とある病院。


若い女性は目を伏せ、医師の声に耳を澄ませていた。


カルテには「柚月」と、その名が記されている。


「週ごとに容姿が変わって見える、非常にまれな症例です」


診察室で、白衣の医師がカルテをめくった。


「ただし、あなたの顔そのものが変わるわけではありません。鏡や写真では、変化は見られないはずです」


「じゃあ、どうして……」

柚月はかすれた声で問い返した。


「原因は分かっていません。ですが既に世界で数万人の報告があります。体には異常はなく、命に関わるものでもありません。

ただ……社会的には大きな影響を受けるでしょう」


柚月――芸名は「陽菜」。


職業は駆け出しのアイドル。

街角のビジョンに映り、週刊誌に「次世代の絶世の美少女」と書かれた自分。

スポットライトに照らされ、ファンの歓声を浴びた日々。


だが来週には、人々の目に醜い顔として映る。


鏡の中の自分は変わらないのに、世界の態度が一変する。

柚月は目の前の床が抜け落ちる感覚を覚えた。


***


美しい週だけアイドル活動をし、醜い週は活動できない。


だが、駆け出しのアイドルという仕事は、そんなに稼げるものではない。

生活のために始めたのが、出版社でのパートだった。


「今日から入ったパートの柚月さんだ」


昼下がりの編集部。部長が声を張り、机の並ぶフロアに新しい顔を紹介した。


マスクをした柚月は小さな声で挨拶した。

「……よろしくお願いします」


ヒソヒソと声が漏れる。


(おいおい、とんでもない顔してるじゃないか……)

(なんだあれは? 試合後のボクサーか?)


そのヒソヒソ声を断ち切るように、声が響く。


「編集の誠一です。よろしく」


振り返ったのは、どこにでもいそうな平凡な編集者だった。

だが、その声は柔らかく、柚月の肩の力を少し抜いた。


***


最初の数日は、ほとんど業務的なやり取りだけだった。


そもそも、こんな顔では誰も仕事以外では声をかけてはくれない。


ひとりを除いては――。


ある日、資料の束を落とした柚月に誠一が声をかけた。


「大丈夫? これ、重いよな」


「……すみません」


「謝るなって。俺なんか最初は資料に潰れる夢見たぞ」


「ふふ、それちょっと怖いですね」


ふたりは思わず笑った。


***


休憩室での何気ない会話も増えていった。


「ブラック派?」


「はい。甘いの飲むと眠くなっちゃうので」


「同じだ。校了中に砂糖入れたら地獄を見る」


「誠一さんも、修羅場を知ってるんですね」


ほんの短いやり取り。

けれどその度に、柚月の心は少しずつ和らいでいった。


***


誠一は顔について触れることがなかった。


同僚がこそこそと囁いても、彼は自然に話題を切り替える。


「柚月さん、あのゲラ確認お願いしていい?」


その一言に救われることが何度もあった。


雨の日には傘を差し出し、徹夜明けには缶コーヒーとお菓子を机に置く。


「糖分補給しないと倒れるぞ」


さりげない行動が、彼女の胸に小さな灯をともした。


***


だが、初めに性善説を唱えた人間はさぞかし美しい顔だったのだろう。

人間という生き物は、切ないほど残酷である。


コピー室で聞こえる囁き。


「新しい子、顔やばくない?」

「接客じゃなくてよかったな」


アイドル時の陽菜のファンである社員からも。


「陽菜ちゃん、今週も可愛いよな」

「だよな、あんなブスだったら絶対推せない」


隣を歩く柚月を指差し笑う。――本人だと知らずに。


***


出版社では陽菜の写真集企画が立ち上がり、その打ち合わせが行われる会議室に、柚月が資料を届けた。


打ち合わせ前の談笑でも、聞きたくない会話が聞こえる。


「陽菜って可愛いよなー」


「写真集のあとにあのパートの子見たらギャップやばい」


会議室の笑い声が突き刺さる。


柚月は聞こえないフリをする。

誠一はそれに気付き、何も言えない自分を攻めるかのように下を向く。


鏡に映る自分は変わっていない。


なのに、世界だけが醜い顔を突きつけてくる。


(私は……何も変わってないのに)


胸の奥に針が刺さったように痛んだ。


***


柚月の心の支えは別にあった。


幼馴染の拓真――子供の頃から一緒に遊び、芸能界に入ってからも陰で応援してくれた存在。


病気のことは話さなかったが、拓真は柚月の感情の機微を見逃さなかった。


ある日、拓真から食事に誘われた。


会うのは“陽菜”の週。大丈夫だ。


普段は行かないような、少しハイソなレストランで、拓真は探るように話し出す。


「なにか、嫌なことでもあった?」


幼馴染には通用しない嘘を、わかっていても吐いてしまう。


「なんでもないよ……ちょっと疲れてるだけ」


「抱え込むなよ、お前にはいつでも俺がいる」


「……ありがとう」


一拍呼吸を入れ、拓真は真剣な顔で告げた。


「柚月、俺……ずっと好きだった」


胸が熱くなり、涙がにじむ。


「……嬉しい。でも、伝えなきゃならない事があるの……

来週の月曜、会えるかな? その時返事がしたい」


約束を交わしたその夜、柚月は久しぶりに安らかに眠った。


***


翌週。


先週と同じレストラン。


鏡には変わらない自分の顔が映っている。

だが、拓真の目に映ったのは“醜い週”の柚月だった。


「これが……私の病気なの。去年から発病して……原因も不明。週ごとに、人には違って見えるの。でも、体には何にも影響ないし、中身はいつもの私のままだよ」


柚月は、診断書をテーブルにそっと置いた。

拓真は視線を落としたが、紙に触れることなく目を逸らした。


長い沈黙の後、唇を震わせて言葉を絞り出す。


「……ごめん。やっぱり、無かったことにしてくれ」


胸の奥で、何かが音を立てて崩れた。


(私は……何も変わってないのに)


声にならない叫びは涙に変わり、頬を伝って落ちていった。


***


その週、柚月はいつも通り出社していたが、明らかに様子がおかしかった。

ずっと下を向き、人目を避けるように休憩室にも来ず、屋上で一人コーヒーを飲んでいた。


誠一はそれに気付き、屋上へ向かう。


「お疲れ様。……ちょっと元気ないなと思って」


柚月は屋上からの景色を見たまま、ゆっくり話し出す。


「信じて貰えないかも知れないけれど、私、病気なんです……週ごとに顔が変わってしまう、症例の少ない、治療法もない病気」


誠一は何も言わずに頷いた。


「先週、告白されたんです。ずっと仲の良かった幼馴染に。私は病気の事を打ち明けました。彼なら私の“裏”の姿も愛してくれるって……」


柚月は大粒の涙を流す。その涙は柚月の口を塞いだ。


誠一はその先を聞かなかった。


少しの沈黙の後、柚月が呼吸を整えて話し出す。


「誠一さんはなんで、誰にでも優しくできるんですか?」


誠一は視線を落とす。


「昔話をするね」


誠一は柚月の隣に座り、同じ景色を眺める。


「子供の頃、仲の良かった女の子がいてさ、僕はその子に何度も救われた。

上級生に虐められたら守ってくれたし、人見知りでいつも独りぼっちな僕をかまってくれるのが嬉しかった。

……でも、中学生頃になると彼女も容姿が原因で虐めの標的になった。そのうち学校にも来なくなり、転校してしまった」


誠一の手が小さく震えている。


「僕は、彼女に何も返せなかった。彼女の美しい心を傷つけた言葉も許せなかった。

容姿なんてただのパッケージでしかない。人はそのパッケージを見て中身を判断する。本当の中身は、開けてみないと分からないのにね……」


柚月は涙に滲む視界で誠一を見た。

彼の表情はよく見えなかった。

ただ、その声が不思議なほどまっすぐ胸に届いた。


「変わったのは君じゃない。周りが本性を表しただけだ」


沈黙が続いた。


その間、誠一は彼女の胸ポケットにある手帳に視線を落とした。

角が擦り切れたその手帳。

毎日、几帳面に書き込まれているのを知っている。

誰も見ていないところで努力をやめないことも、知っている。


言葉にせずとも、彼はそこに惹かれていた。


「俺は、今の君が好きだ」


その一言で、柚月の涙は今度こそ止まらなくなった。


***


数日後、病院から柚月に一本の電話が入った。


病院に向かうと、医師が誇らしげな顔で待ち構えていた。


「原因が分かりました」

白衣の医師はそう切り出した。


「あなたの病気は、新型のウイルスによるものでした。この症例が世界でも稀なことは説明したと思います。

原因が分からない原因も分かりました」


人の気も知らない医師は、少し興奮気味に話す。


「このウイルス、あなたは感染していません。他の患者も同様に。

驚くべき事に、同症例を発症した人間以外全てがこのウイルスに感染しており、感染者の目には、抗体を持つ人間が週ごとに“美しい/醜い”と変わって見えてしまう。

この周期はウイルスの活性化する周期に基づいています。それがたまたま一週間でした。去年発症したように見えたのは、あなたが抗体所持者とウイルスに認定されたからですね。ここら辺のメカニズムはもう少し研究が必要です。それとですね、――」


「先生!」


柚月が割って入る。


「あ、失礼。つまり、あなた自身は最初から何も変わってません。周りの感染者がウイルスにより幻覚を見せられていただけです」


「……周囲の幻覚?」


「その通りです。さらに調査の結果、このウイルスには人工的な操作の痕跡が見つかっています。誰かが意図的に仕組んだ可能性が高い。

おそらく、抗体所持者を滅ぼすためにこのようなメカニズムが仕組まれたと考えられます。

抗体所持者をゼロにすれば後は簡単。逆に感染者を全員醜く見せるだけで、いずれ世界は滅ぶでしょう。

このようなウイルスの仕組みから、製造者が見えてきます。恐らくは人口増加を憂う――」


「先生!」


「おっと失礼、安心してください。貴方達、抗体所持者から治療薬が作れます」


医師の言葉が遠くに聞こえた。

けれど、ひとつだけはっきりとした事実が胸に残った。


――自分は何も変わっていなかった。

変わっていたのは、世界の方だった。


***


夜。街のネオンが月の光に負けまいと、争うように光を散らしている。


ビルのガラスに映る、柚月と誠一の姿。


柚月は誠一に向き直り、わずかに震える声で言った。


「……どんな顔でも、また会ってくれますか」


誠一はまっすぐに答えた。

「もちろん。どんな顔でも」


柚月は月を見上げ、涙を堪えながら微笑んだ。


今夜も、月は優しく地球を照らす。

人は、それを月のすべてだと信じ込む。


月の裏側と表側。

人が勝手に名付けたものにすぎない。


――本当の彼女は、最初からずっとここにいた。


──完。

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