夏の揺籠

@fulcane_lli

夏の揺籠

八月の地下鉄は、地上の太陽を吸い込んだかのように蒸していた。

扇風機の風も届かないホームで、川島は汗の滴る首筋をタオルでぬぐった。

今日も営業先から職場へ戻る途中だ。スーツの肩はまだ湿り気を帯び、右手に持ったカバンの重みが腕にずっしりとのしかかる。

もうすぐ四十に差し掛かる独身の男だが、こうして夏の地下鉄のホームで立ち尽くすと、人生の折り返し地点を静かに噛み締める気分になる。


列車が滑り込んでくる。

ドアが開くと同時に、熱気と冷気が入れ替わるように押し寄せ、川島はほっと息を吐いた。空いた座席に腰を下ろすと、揺れる車両の中で、対面に小さな揺籠があることに気づいた。


ベビーカーではなく、昔の乳母車のような、布張りの揺籠だった。

こんなものを地下鉄で見かけるのは初めてだ。

揺籠の中には、赤ん坊が眠っていた。夏の光を浴びたこともないような白い肌が、規則正しく上下する。母親らしい女性は見当たらず、揺籠はぽつりと置かれているだけだった。


川島は目を逸らそうとしたが、耳に入ったのは懐かしい囁き声だった。


「まだ、眠れないの?」


声の主を探しても誰もいない。けれど次の瞬間、揺籠がかすかに揺れた。電車の揺れとは違う、子守唄のようなリズムで。


川島の胸に、忘れていた夏の日がよみがえった。

団地の四階、母の細い腕の中で眠った午後。窓から入る蝉の声と、団扇の風。

母はもういない。十年以上前、ひとり残して逝ってしまった。


電車は静かに揺れながら、トンネル内に規則正しく流れる蛍光灯の光が、窓ガラスに暗い闇と自分の顔だけを映した。

闇の中で川島は揺籠の中を覗き込んだ。そこに眠っていたのは赤ん坊ではなく、幼い頃の自分だった。


列車が地上に出て、光が差し込んだとき、揺籠は消えていた。

残されたのは、わずかに揺れる空気と、耳の奥で響く子守唄だけ。


川島は額の汗を拭い、胸の奥でそっと呟いた。


――ありがとう。もう、大丈夫だから。


地下鉄の揺れが、夏の日差しを忘れさせるほど心地よく感じられた。

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