「フィット」
をはち
「フィット」
黄昏の田舎道は、どこか現実から切り離されたような静けさに包まれていた。
出張先の小さな町で、佐藤太は、古着屋でひどく安っぽい上下のスーツを手にしていた。
値札には300円と書かれ、色あせた灰色の生地は、どこか時代遅れの雰囲気を漂わせていた。
丈が短すぎるそのスーツを、なぜか衝動的に買ってしまった太は、夕暮れの冷たい風に吹かれながら、知らない道を歩いていた。
ふと、視線を上げると、緩やかな丘の中腹に暖かな光が灯る小さな山小屋が見えた。
遠目にはパン屋のように見えた。
焼きたてのパンの香りが漂ってくるような錯覚さえ覚えた太は、空腹と喉の渇きに背を押され、
100メートルほどの坂を登ればその店に辿り着けると考え、足を進めた。
坂を登り切り、木の扉を開けると、意外にもそこはパン屋ではなかった。
店内には古びたミシンと、色とりどりの糸巻き、布切れが整然と並んでいる。
仕立て屋だった。
カウンターの向こうには、穏やかな笑みを浮かべる老人が立っていた。
白髪をきっちり撫でつけたその男は、仕立て屋の店主らしい。
「いらっしゃい。喉が渇いただろう? まずはこれを」
老人は、湯気の立つ紅茶を差し出した。
太は礼を言ってカップを受け取り、一口飲む。
芳醇な香りと温もりが喉を潤し、疲れた身体を癒した。
「ああ、パンでもあれば最高なのに」と、太はつぶやいた。
老人はくすりと笑い、目を細めた。
何気なく手にしていたスーツの入った紙袋をカウンターに置くと、老人はそれに目を留めた。
「お直しかい? このスーツ、すぐにでも仕上げられるよ」と、まるで待っていたかのように即答した。
太は驚きつつも、300円のスーツがどれほど良くなるのか、半信半疑で差し出した。
「うちの自慢はな、衣類に傷一つつけず、着る人にぴったり合わせることさ」
老人の声には、妙な自信が宿っていた。
太は、良い店を見つけたと内心で喜んだ。
老人は慣れた手つきでメジャーを取り出し、太の肩や腕、胴のサイズを測り始めた。
その手さばきは、まるで何十年も同じ作業を繰り返してきた職人のようだった。
測り終えた老人は、スーツを手に持ち、太をじっと見つめた。
「ちょっと長いね」と呟く。
その言葉に、太は一瞬違和感を覚えた。
長い? スーツの丈は明らかに短すぎるはずだ。
しかし、疲れと紅茶の心地よい余韻が、疑問をぼやけさせた。
「こちらで休んでな。すぐ終わるよ」
老人に促され、太は店の奥に案内された。
そこには簡素なベッドが置かれ、なぜか清潔なシーツが敷かれていた。
「横になって待ってなさい」と老人は優しく言い、太は言われるままにベッドに横たわった。
まぶたが重くなり、意識が遠のいていく。
紅茶の香りが、頭の奥に漂ったままだった――
目を開けると、太はスーツを着ていた。
灰色の生地が、まるで彼の身体に吸い付くようにぴったりとフィットしていた。
鏡もない店内で、自分の姿は確認できなかったが、確かにスーツは完璧に仕上がっていると感じた。
だが、身体が妙に重い。
手足が思うように動かない。
「麻酔が切れるまで、あと二、三時間かな」
老人の声が、静かな店内に響いた。
太の心臓が跳ねた。
麻酔? 何を言っている?
視線を落とすと、自分の手足が異様に短いことに気がついた。
いや、短くされたのだ。
スーツの袖口と裾が、切り揃えられた手足にぴったりと合っている。
血の気配はなく、傷口はまるで最初からそうであったかのように滑らかだった。
「な…何…?」
太の声は震え、喉の奥で詰まった。
老人が穏やかに微笑む。
「うちの自慢は、衣類に傷一つつけず、着る人にぴったり合わせることさ。スーツに体を合わせるんだよ。完璧だろう?」
太の視界が揺れた。
恐怖が全身を駆け巡る。
動かない手足を必死に動かそうと試みるが、まるで人形のようだった。
老人はミシンの前に座り、別の布を手に取り、静かに縫い始めた。
その手元は、まるで何も起こらなかったかのように穏やかだった。
店の外では、夜が深まっていた。
暖かな光が漏れる山小屋は、通りすがりの旅人を誘うように、静かに佇んでいた。
だが、誰もその店の真実を知らない。
そして、知った者は、二度と帰らない。
「フィット」 をはち @kaginoo8
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