第5話心のスキマを埋める方法

 五月もそろそろ終盤に突入した。この町一帯にはすでに初夏の匂いがそこら中でしている。放課後を迎えても気温は全く衰えることなく、むしろ増しているような気がするのだ。このままじゃ熱帯夜は避けられない。困ったものだ。

 今は訳あって、エニー、親一朗、空音さん、そして衣里、檻塚兄と一緒に道の駅である『ボワっと』に向かっていた。その理由は一言で言うと、テスト勉強だ。


「まだ夏の時期じゃねぇのに、とてもアーチーチーアーチーだぜ。なぁ、このまま海にジャパンしないか?」

「……あんたのクソつまらないギャグのおかげで、少しは冷えたわ。ありがとう」

「ゑゑゑ!? めちゃくちゃ傑作だと思ったのに……」


 今から二週間後、学校で中間テストがあるのだが、それでエニーは堀先生から、「一つでも赤点を取ったら補習」と言われてしまったそうだ。

 ちなみに、エニーの勉強の成績は某国民的青狸のアニメに出てくるメガネ猿と肩を並べるか、それ以上に酷い。何しろ今まで何回か行われた小テストや抜き打ちテストで、文字通り一点も取ったことがないからだ。

 それもエニーは、授業のほとんどは寝ており、それか母に買ってもらったノートにマグロレッドなどのヒーローを描いて時間をつぶしているからだろう。だから万が一補習になったとしても、それは自業自得というものだ。

 だがエニーは教室内であるにもかかわらず、泣きべそをかきながら籠に「勉強を教えて!」とすがりついてきたのだ。それを聞きつけた親一朗は、みんなで涼しいところで勉強会をやろうと企画してくれたわけだ。


「…………」


 ふと籠は、一番後ろを歩いていた衣里に目がいった。相変わらずの無表情であり、無口を貫いている。

 今から一週間前、マスターに呼び出され「みんなで思い出を作ってください」と言われた日のことを、籠は回想していた。


「お断りします」

 店内の空気が、一瞬にして冷たく静まり返った記憶。衣里は踵を返し、喫茶店の入り口へと歩いていく様を見送ることしかできなかった。ただ一人を除いて。

「ど、どうして! あなたの兄さんでしょ? 好きなんじゃないの!?」

 灯台でむちゃくちゃな発言をした籠には怒らなかったのに、珍しいエニーの怒りに困惑した。身体と拳を震わせながら。

「…………」


 その時、衣里がどんな顔をしていたかは分からなかった。何も言わず出ていくのを見送ったあと、ふと檻塚兄の方へ顔を向けると、予想はしていたがショックで泡を吹いて気絶していた。

 籠はこのとき――とても不自然なタイミングで……衣里の声が気になっていた。教室にいた際は、一言も聞いたことがなかった肉声というのもあるが、それ以上の『何か』が自分の心を揺り動かしているのだ。だがその理由が分からない。弄られるだけ弄られて、適当にそのへんに捨てられた気分。

 

「…………」


 衣里と檻塚兄の話しに戻ろう。できれば、なんとかしたいと思っている。二人の間を取り持って、なんかこう……うまくやって仲直りさせたい。籠がエニー以外の人間にこういった気持ちを持つことなんて、ちょっと前まではありえないことだった。正直、自分でも戸惑っている。

 そうこうしていると、ようやくボワっとにたどり着いた。自動ドアが開いた瞬間、一瞬だが身体が凍りつくのではないかと思うほどに冷えたクーラーの冷気がありがたかった。

 勉強会に同行した親一朗は、風に当たる面積を少しでも増やしたいのか、両腕を左右に広げて頭をもたげている。そんな光景を見ていると、「ねぇねぇちょっと」とエニーに声をかけられた。その顔は心なしかムスッとしている。


「どうして檻塚さんも一緒に来てるの?」

「…………それは、だな……」

 

 籠は柿のように渋い顔をした。衣里がどこから聞きつけたかは知らないが、放課後勉強しに行こうとしたら、後ろからいきなり「私も勉強会に行きたい」と紙を突きつけてきたのだ。

 要するに勝手についてきたという他ない。女たらしの親一朗は「いいともォ!」と即断したが、籠はできればエニーと近づけさせたくなかった。確実に表情を曇らせる結果になるから。しかし断るわけにもいかず、事の顛末を話すことにした。


「そう、なんだ……」

 エニーは諦めたようなどんよりと暗い表情に変化した。まだ衣里との関係を聞くことは、できなさそうだ。

「やっぱりここにきて正解だったぜぇ〜。そう思わないか? 友坂」

「確かに、ここならクーラーもガンガン効いてるし、勉強するには適してそうね」

「だろ? もっと俺様を褒め称えてもいいんだぜ?」

 得意げな顔をしながらフフンッと鼻を鳴らす親一朗。

「脳みその厚さがコンドームサイズのあんたにしちゃ、よく考えたほうだと思うわ」

「ほとんどないのと一緒じゃねぇか!」


 和やかな親一朗と空音さんの会話を聞きながら、籠は無意識に衣里を見つめてしまっていた。自分でもわからなかった。サイドテールだった髪は、元の両肩に垂らした髪形に戻っている。見慣れている制服姿が、ちょっとだけあの時のワンピース姿とダブった。

 ふと、衣里と視線がぶつかる。先に目をそらしたのは籠だった。マスターに呼び出された日以降、二人の間で会話らしい会話は発生していない。それどころかやんわりと避けられている気がする。せっかく兄と妹を仲直りさせようと思っているのに、それ以前の問題だ。

 頭を悩ませる要素はほかにもある。もちろん自分のテストについてだ。他人の心配ばっかりしていられない。籠は理科や社会などの暗記科目は平均点を超えたが、数学などの自力で解かないといけない科目にはめっぽう弱い。おかげで赤点ギリギリだった。

 二つの問題に板挟みにされ、軽く頭を抱えていると、隣にいたはずのエニーがいないことに気づいた。館内を見渡してみると、物品コーナーに見覚えのある影がピョンピョンとウサギみたいにはねていた。


「なにこれ!? 全身が赤くて、たくさん足がついてて、長いヒゲみたいなものが生えてる生き物って……?」

「おいおい、まさかこの街に住んでて甘えび知らねーのか? 人生えび味噌くらい損してっぞ」

「食べられるの? 見た目は完全に宇宙からやってきた未確認生物みたいだけど」

「もちろん! 身がプリッとしていてな、口に入れた瞬間、とろけるような甘みを感じることから、甘えびって名前がつけられたらしいぜ」

「へぇ〜! 食べてみたいなぁ〜」

 親一朗とエニーはまるで初めて戸前町に旅行に来た兄妹みたいに戯れていた。見かねた空音さんが注意する。

「想馬! エニーちゃん! せっかくクーラーが効いてる道の駅で勉強しようって約束だったのに、ただ遊びに来たんじゃないのよー!」

「うーん、確かにそうだな。友坂の言うことはごもっともだ」

「わ、わかればいいのよ」

 逆にちゃんと言うことを聞いた親一朗に、逆に畏怖の念を示す空音さん。だが安心してほしい。親一朗はちゃんと親一朗だった。

「まず、勉強をするために身を清めないとな。そのためにまずは温泉へ行かねば」

 と言いつつも向かった先は女湯へ続く暖簾だったため、空音さんのげんこつが炸裂した。

「ここの温泉は、変態と女たらしに効く効能はないわよ。一瞬でもマトモに目覚めたと思ったアタシがバカだったわ。箱崎くん。先にやっちゃいましょう? 勉強」

「あ、あぁ」

 女湯の入り口で殺人現場の被害者のように倒れている親一朗を横目に見ながら、食堂で勉強を開始した。女性陣、男性陣と固まり、机に問題用紙や教科書を広げていく。館内では今流行っているらしいジェイポップのピアノBGMや、クラシックの音楽が流れてきて、より集中できた。

 だがそれも、エニーが籠に「ここの問題教えて」と頼まれたときから狂い始めた。

 例えば社会のテストで、『都道府県の名前を答えよ。』という問題に対しては、何をとち狂ったのか、解答欄に寿司ネタを書くという暴挙に走ったのだ。四十七の都道府県を書くはずなのに、そのせいで異質なメニュー表みたいになってしまったので、一つ一つ訂正するのが大変だった。

 次に一番嫌いという理科のテストで、『植物の光合成の過程を説明し、光合成に必要な条件を挙げなさい。』という問題に対しては、「気合しかないよ! 気合しか!」という脳筋丸出しの解答をやりやがった。

 籠は教科書に載っている解説を交えながら、根気よく教え続けた。おかげで通常の倍疲れた。


「友坂、俺様は決めたぜ」

 一旦休憩の時間を挟んだ頃、何の予備動作もなく親一朗が席から立ち上がった。

「何よ、ついに自首する決意を固めたの?」

「いや法に触れてる前提!? 俺様が触れるのは女のケツだけだ!」

「ドヤって言うことじゃないでしょ!」

「自分のことは自分が一番知ってらぁ。その上で今、この時間にコツコツと勉強するよりもずっと……神社に行って学業成就のお守りを買い占めたほうが、よっぽど効率的だと!!」


 『顔は』いいだけに、あたかも発言にすごく説得感を感じたが、言った相手が親一朗と理解してから一瞬で正気に戻った。

 神社の方向を指さしてドヤった表情をしている親一朗に対して、出来の悪い弟をみるような目を向けながら空音さんが言葉を返す。


「それで本当に学力が上がるなら、今頃全国の神社は学生のたまり場になってるわよ……って、もう行っちゃった」

「ウォォォッッッ!!」と雄叫びを上げながら、神社に全力疾走していく親一朗。今までのテストも、同じように乗り切ってきたのだろうか。だとしたら見上げた根性だ。

「エニーちゃん。想馬はしくじっていることにすら気づかない先生みたいなもんだから、ちゃんとコツコツ勉強することこそ、テスト攻略の近道……」

 空音さん言葉を言い尽くすより先に、先ほどの親一朗と同様にガタンと立ち上がるエニー。おいおいまさか……籠は身構えた。

「え、エニーも買い占めないと! 想馬くんに取られちゃう!」

 とまるで後追い自殺みたいに神社に行こうとするエニーを籠はもちろん、空音さんも止めるのを手伝ってくれた。

「そ、そうだ! 檻塚さん! よかったらエニーちゃんに勉強教えてくれない? 成績すごくよかったよね?」

「なんで私が」

 そう書かれた紙を見せつけた衣里の顔は、あからさまに「嫌だ」と書かれているようだった。

「まぁそう言うな妹よ。勉強というのは、ただ自分でやることだけでなく、他者に教えるというのも、しっかりと学力が身につくものだぞ」

 こういうときはしっかりとお兄ちゃんしている檻塚兄。

「そこをなんとか!」


 両手を合わせて頭を下げている空音さんをみて、籠も同じ気持ちになった。二人を近づけさせることはあまり得策ではないが、この際猫の手も借りたい気分だ。

 だがエニーは、


「エニー、檻塚さんから教わる気はない」

「……?」

 まるで、地面の底から響いてくるかと思うほどに低い声で言った。籠はすぐに本人から発せられたものだと理解できなかった。

「どういうこと?」

 さすがに予想できなかったのか、衣里は書かれた紙を眉をしかめながら見せつけてきた。エニーはにらみつけるような目つきを向けながら、

「そこまで落ちぶれた覚えはないから」


 吐き捨てるように言うと、そのままクルッと回れ右をして入り口へと歩いて行ってしまった。

 籠は引き止めようと後を追う。だが入り口の自動ドアが開くより先に、衣里がエニーの正面に回り込んで来た。


「その言い方だと、まるで私が落ちぶれた人みたいじゃない。訂正しなさい」

 すました顔で、でも目つきは刃物のように鋭いそれを向けて文字を突きつける衣里。対してエニーはフンッと鼻息を鳴らし、

「ちゃんとしゃべればいいのに。わざわざ紙に文字書いて、ふざけてるの?」


 その言葉は、まるで大量の燃料ドラムに落とした一本のマッチのごとく、衣里の瞬間的な激怒を引き起こした。それが決め手となったのか、バチーン! と何かが弾けるような衝撃が館内に響いた。

 音の正体が、衣里がエニーの頬をはたいたことによって出た音だと気づいたのは、館内にいた他の客がざわめきはじめたときよりあとのことだった。

 しばらく呆然としていたエニーだが、状況を把握したのか片手を振り上げ応戦する体制をとったと同時に、空音さんが「やめなさい!」と後ろから羽交い締めすることで抑えた。その光景は、いつかのモンキーが籠に殴りかかってきたときに池崎が押さえつけたそれに似ていた。


「エニー、ちゃんとあやま……」


 籠が催促する間もなく、エニーは早歩きで入り口から外へ出ていってしまった。ただでさえ自分は衣里と檻塚兄との仲を取り持ちたいと思っているのに、目的が遠のいていく。

「ごめん、檻塚さん。エニーが迷惑を……」

「どうしてコモちゃ……籠くんが謝るの? あの子の保護者じゃあるまいし」

「それでも、ごめん」


 気まずい沈黙が訪れていた、そんな時だ。突如として流れてきた音楽の情報が、頭の中に入ってきた。毎朝聴いているメロディ、曲調、テンポ、歌詞が、足のつま先から徐々に上へと上がってくるかのような……ゾクゾクとした感覚を感じた。

 いとしのエリー。

 

「っ!?!?!?」

 一瞬、ゾクゾクとした感覚が止まったかと思ったら、まるでその感覚が一気に脳に押し寄せてきたかのように痛みが襲ってきた。あまりの痛みに、籠はその場でうずくまってしまった。

「ちょ、ちょっと、大丈夫?」


 と心配そうな声色で声をかけてくれた空音さん。しかし籠はその気遣いすら構っていられないほどに脳内をかき乱されていた。

 頭に映像がなだれ込んでくる。前と一緒で、幼い頃の籠が海辺で倒れていて、隣には泣いている幼い女の子。「コモちゃん……コモちゃん……コモちゃん……コモちゃん」と絶え間なく呼びかけられる。

 そしてあるタイミングで、ぷっつりと籠の意識はなくなってしまった。ここからは無意識の領域。五秒ほどの沈黙のあと、うずくまっていた状態から急に立ち上がったかと思ったら、まるで夢遊病の患者のようにしてトボトボと歩き始めた。

 そして唇は、束の間に魂を宿す。

 

「行かなきゃ……行かなきゃ……行かな、きゃ……」

「行かなきゃって、どこに?」

 空音さんがいくら問いかけても、籠の回答は要領を得なかった。でも一度だけ、おぼろげながらに口にした言葉がある。

「…………場所」

「え? なんて……」

「約束の、場所……」

「約束の……って、ちょっと待ってよ!」


 ウィーンと自動ドアが空き、籠は外へと吸い込まれていった。足は勝手にある場所へと自分を引っ張っていく。まるで操り人形だ。

 暑いと感じていたはずの夏の日差しも、なぜか今だけはまったく気にならなかった。それどころか自分の身体が、まるで薄い水の膜に覆われているかのように気持ちがよく、いつまでも歩き続けられるのではと思う錯覚に酔っていた。

 音楽が聞こえなくても、耳にこびりついたフレーズやリズムが頭から離れず、それが普段は絶対に開けられることのない記憶の蓋の中身が顔を出すきっかけになった。

 

 ♪〜泣かしたこともある 冷たくしてもなお よりそう気持ちが あればいいのさ〜♪

 ♪〜俺にしてみりゃ これが最後のlady エリー my love so sweet………♪


 懐かしい声が響いている。同学年とは思えないほどに洗練された声の出し方、リズム、すべてが調和して、とても現実離れしていた。

 鬱蒼と生い茂った森の中、彼女・・の歌声を体育座りしながら聴いている幼い籠。その記憶は、まるで出来立てのご飯のように柔らかくて、温かくて、思わず顔がほころんだ。

 そうだ、そうだった。自分はこの歌声が好きだった。そして同時に、彼女のことも好きになったんだ。


「…………」


 いや待て、彼女って誰だ……?

 

「ここは……」


 いつの間にか鳥居をくぐっていたらしい。拝殿に至るまでに、やけに長い砂利だけが敷き詰められた参道が伸びていた。左右には等間隔で灯籠が並んでいる。だいたいそうだが、とても年季が入っているように見えた。

 学校や施設とは違って、とても清々しい空気が流れている気がする。周囲の木々が奏でるささやきが耳に心地よい。境内には、神社特有の静謐な雰囲気が漂い、人々の喧騒もどこか遠くに感じられた。

 籠は大きく腕を広げ、首をもたげて深呼吸をした。鼻からやがて全身へと、自然のエネルギーが身体に満ち満ちていくのを感じる。視界が必然と上を向いたことで、自分の記憶から去年に行われた花火大会が連想された。雲のない夜空を彩った光の大群はとても、とっても……


「きれい、だったな……」


 エニーと花火を観た。といっても会場である神社ではなく、家の部屋で。籠は花火が好きだ。単にきれいだからというわけではなく、その『きれい』を誰か大切な人と共有しているという事実が、たまらなく幸せを感じさせた。

 実際には部屋に独りきりで花火を見あげていたのは、籠その人だ。だが、あの頃を愚かと笑うことはできない。それをしなかったおかげで、今の状況になっているのだから。

 今年は違う。絶対に花火大会は、存在しているエニーと一緒に行くんだ! と、籠は強く強く心に誓った。今年は遠い部屋じゃなくて、きちんと間近で花火を観ることができる会場で。


「あ、そうだ。エニーは……」

 

 その時、上から下に吹き付けるような風が吹いてきた。一瞬目をつむってから、何の気なしに風が吹いた方向に目をやる。

 すると拝殿の屋根の上、滑らかな入り母屋式の人が座れるスペースに、エニーはいた。表情から何を考えているかどうかは察することができず、籠はとりあえず名前を呼んだ。

 するとどうだろう。ただそれだけなのに、まるでドッキリにでも仕掛けられたときのリアクションのようにびっくりして、結果上から下に落下してしまった。

 何やってんだがと籠は思った。仕方がないので近くに駆け寄ろうとしたら、


「来ないで! ここにいちゃダメ!」


 と鬼気迫った声で言われてしまった。何か機嫌を損ねることでもしたのだろうか。エニーは自分で立ち上がってこちらに駆け寄ると、そのまま籠の腕を掴んだ。そしてまた衣里と喫茶店で出会った時のようにグイグイと神社の外へ連れ出そうとしたのだ。

 振りほどこうとしたら「せめて外で」と話すタイミングを与えられることなく、鳥居をくぐって外に出る。出た瞬間のエニーは、まるで一時の危機が去ったかのようにホッとしたように見えた。

 

「で? なんで来たの」

 緩んだ表情から、まるで意地悪な小姑のように冷たい表情に切り替わる。ここには来てほしくなったという考えが丸見えだ。

「なんでって……理由はお前が一番わかってるんじゃないのか?」

「わからないもん。嫌いな檻塚さんに当然の態度をしただけだもん」

 理由わかってるじゃないか。

「とにかく、あとで謝まれよ」

「やだ。なぜなら、エニーのマグロレッドとしてのプライドが許さないから! むしろビンタ一発で終わらせただけ、感謝されるべきだね」


 逆に開き直ってしまう始末。困った。非常に困った。できれば衣里と檻塚兄の仲介を、エニーにも頼みたかったからだ。でもこの態度じゃ、テコでも意思は変わらなそうだ。

 何かいい案はないだろうか……と考えた籠は、脳内にパッと閃くものを感じた。それは、


「なぁエニー、一つ提案があるんだが」

「提案?」

「もしすべてのテストで赤点を回避したら、前は行けなかったうどん屋、二人きりで行かないか?」

「っ!」

 エニーの目の色が一瞬にして変わったと思ったら、

「行くっ! 超行くっ!! 絶対行くっ!!!」

 と籠の制服の前たての部分を両手でつかんでピョンピョンと跳ねた。まるで違う人格に入れ替わったと思わせるほどの変貌。うどんの力って凄いなと思った。

「ただし! 条件としてちゃんと檻塚さんに謝ること。いいな?」

「そ……それはちょっと、エニー難題……」

「い・い・な?」


 無理やり約束させたあと、トボトボと寂しい後ろ姿を見せて去っていくエニー。一応、ウソをついてもあとで確認するからと、半ば脅しのようなことを言ったので大丈夫だろう。

 ヒュウゥゥ〜と気の抜けたような風が吹く。静寂が静かに神社の境内を包み込んでいた。時間は十六時。空はまだギンギラギンにさりげなく太陽光を発し、木々の影が長く伸びている。ノビタキやアオサギたちのさえずりが幾重にも重なって、まるでメロディーのようだった。


「あっ……いちゃダメな理由、訊くの忘れた」


    *


 町のほとんどの明かりは閉ざされている。テーブルランプの光は最小限にして、机の上ではカリカリとペンが走る音が小さく響いていた。エニーは籠の部屋の隣にある物置にて、時間にして約三時間ほど問題用紙や教科書とにらめっこを続けていた。

 時刻は深夜を過ぎている。体質か何かは知らないが、夜は眠らなくても全く寝不足にはならないし、身体のだるさも感じない。勉強するにはもってこいの体質……なのだが、いかんせん勉強嫌いなので、ここまでやれたのがほぼ奇跡に近い。

 今日覚えたことの一つとして、ゲンソキゴウ? というものがある。そのまま記号を覚えるのは難しいため、ある特別な覚え方があるというのを、籠に教えてもらった。


「確か、水兵……水兵…………あ! 水兵リベンジ! 僕の船奪還! だっけ? いや、そんな物語性あったかな……」

 とりあえずあとで教科書をみて、答えを確認しておくとしよう。ずっと理科の勉強ばかりやっていたので、今度は比較的暗記が多く楽な英語にチェンジする。

「angry……怒っている。dear……親愛なる。free……自由な、暇な……」


 エニーは空音に教えてもらった、英単語を書きつつ、声に出して読むという方法を実践していた。そしてほかにも、strangeやwonderfulなどの長い単語は、二つか三つに分解してわかりやすくするという方法も教えてもらった。

 ちなみにその相手は空音ではなく、不本意ながら檻塚さんに、だ。悔しいことに、これが一番エニーにとって勉強の性に合っていた。あとで礼を言ったほうがいいのだろうか。いや、それこそ本当に檻塚衣里という存在を認めてしまいそうで癪に障る。

 引き続き英単語を暗記していると、Downの単語が、勉強疲れのせいかudonに見えてきた。発音もそこはかとなく似ているせいで、エニーの頭は完全にうどんに汚染されてしまった。

 雪のように真っ白な太麺……黄金色に光り輝くダシの効いたスープ……丼を彩るネギやカマボコ……ゴクリと喉を鳴らしたところで、思わずエニーは我に返った。

 

「……何やってんだか」


 流石に三時間も続けて勉強し続けたら身体が凝ってくる。エニーは大の字に手足を伸ばした。ふと窓の外の景色が目に入る。今日は星が少なく、墨色の空にうっすらと雲がプカプカと浮いている。このまま勉強をやっても、またさっきみたいな事態になるかもしれない。

 だからエニーは、気分転換に出かけることに決めた。窓に手をかけ、網戸を上に上げた。冷たい夜風が、一気に物置になだれ込む。髪の毛のツインテールが、涼しげになびいていた。

 エニーは頭に自分が飛ぶ脳内映像イメージを作る。すると不意に足から床が離れ、まるで無重力を得たかのようにふわりと身体が浮かび上がっていた。

 するりと窓を抜けると、エニーは静かに空に身を委ね、両手を翼に見立てるように広げた。風を切る音だけが耳に入る感覚が気持ちいい。ところどころ民家が淡く光っているわけは、同じく勉強をしているからなのか。


「そういえばまともに空を飛ぶのって、人間になって以来一回もなかったな……」


 見えざる友達イマジナリーフレンド時代は、よく籠が寝静まった頃を見計らってよく夜の町を飛び回っていたものだ。つい忘れていたのは、人間の生活が楽しすぎたせいだろう。エニーは北の方向へまっすぐ飛行すると、やがて白い巨人のようにそびえ立つ建造物が見えてきた。

 戸前埼灯台。建物の固有名詞より、エニーとしては籠と交わした『約束の場所』という印象のほうが強い。当然人の気配はなく、ここにあるのはザワザワと草木たちが、風に吹かれて談笑している音。遠くでネイビーブルーの波が、横一列に並んで海岸を行き来している音だけだ。


「……」


 エニーの視線は、海から灯台へと移っていた。夜間に点けられるライトはとうに切れているが、その白い巨塔は存在感を絶えずして放ち続けていた。ゆったりと腰を下ろして、下から上へ突き上げるようにして見上げる。

 過去の映像イメージのなかで、はしごに登っている幼い頃の籠と自分自身を投影する。懐かしい気持ちがわき出て、思わずほっこりした。


 ――お、オレも! 世界中の人間が無視しても、そ、その……エニーのこと、めっちゃ見る! 見まくるから! 味方だから!!


「……っ」


 トクンッと、いじわるに胸が高鳴った。あの日から感じていた、心臓の微熱。

 時に苦しくなったり、切なくなったりするんだけど、それ以上にあふれ出るほどの幸福感、高揚感。その意味が分からないほど、自分は子どもじゃなかった。


「……好き」


 口に出してみると、より強く想いを感じ取れる。言葉は風に運ばれて、もみくちゃにされて……やがて影すら残さなかった。

 エニーは籠が好きだ。世界で一番好きだ。友達なんかじゃなく、一人の男として意識している。物心がついた頃から現在まで、離れることなくずっと一緒だった関係。

 本能的に、能動的に、運命的に、必然的に、自分は好きになったのだろう。

 その時間の積み重ねがもたらした奇跡を、いまエニーは噛み締めているのだと、そう確信した。 

 だからこそ、


「だからこそ……やるんだ、アレを・・・。絶対に」

 檻塚に取られてしまう前に。時期は決まっていた。テストの結果が返ってきたら。その時が勝負。

「…………」


 別に大した理由はないが、目線は自然と喫茶店フレンズの方向を向いていた。そしてエニーは引力に引っ張られるようにして、プッシュプルハンドルを引く。重ための金属音のドアベルが鳴り、それと同時に今度はウエディングドレス風な衣装に身を包んだクマの人形が出迎えてくれた。

「あっ、いらっしゃいませ! エニーさん!」

「なんや? こんな遅くに珍しいな。子どもは寝る時間やで。しっしっ」

 ナックルは店内の空きスペースでシャドーボクシングをやっている。

「夜ハ墓場カラ、トテモThrillerナゾンビガ出テキマスデス、ハイ」

 池崎は以前の黒服とは違い、今日は赤のレザージャケットに赤のレザーパンツと一色に統一している。

「ギャアアアアアア! ゾンビ怖いーッ!!!!」

「ははは……」

 今まで何回か一人で来たり、籠と来たりしたのだが、そのたびにポチが喉を潰す勢いで叫んでは走り回っている気がする。そしてついには喫茶店の外に飛び出していってしまった。

「こらこらマイケル、あまりポチを怖がらせてはいけませんよ。それとナックル、せっかくいらしてくれたお客様なんだから。追い返してはいけないでしょ。ねぇ? エニーさん」


 優しげな口調で話しかけてくれたマスター。その際、呼び出された日のことを思い出した。みんなで思い出を作ってくださいという言葉。

 そのとき最初に思ったのは、籠と交わした約束を最優先するか、空音などの友達ともっと一緒に遊ぶかの二択だった。

 『みんなで』という言葉に動くなら、後者を選ぶことになるだろう。だがそれは、籠との約束がおろそかになってしまうのではという不安があった。それは現時点では解決することができず、腹の底に沈殿するようにして残ってしまった。


「エニー、ちょっと眠りたくない気分で……」


 我ながらくだらない愚痴だと思う。でもマスターは優しい表情を崩すことなく、黙ってコーヒー作りを始めた。ハンドルのようなものを回すことによって、さっきまで豆だったものがカリカリとした音とともに粉状になっていく。

 薄い紙を機械にセットし、その上から適量の粉を静かに注ぎ入れるマスター。次に水を入れ、スイッチを入れると、機械は静かに動き出す。蒸気が少しずつ立ち上り、濃厚な香りが部屋中に満ちていく。

 しばらく待つと、コーヒーの滴がゆっくりと落ち始める。音もなく、ただ静かに、熱い液体がカップに注がれていく様子は、あながち退屈じゃなかった。そういえばここは喫茶店だったと、エニーは今さら納得した。客がおもちゃ、店員もおもちゃという事実に意識が引っ張られていた。

 出来上がったコーヒーが目の前に置かれた。エニーは取っ手を持ち、ゆっくりと黒色の液体に口をつけた。匂いは、匂いは本当にいいのだ。でも、どうして味は……


「にっがい……」


 まるで土とアスファルトをいっぺんに舐めたような、口に入れ続けると少しずつ侵されていく感覚がした。おかげで自分の意識とは関係なく眉間にシワが寄った。これを美味い美味いと喜んで飲む人がいることが信じられなかった。自分の筋肉をいじめると同じ理論で、舌をいじめる界隈も一部存在するのだろうか。

 でもエニーには、それがお似合いのような気がした・・・・・・・・・・・・。何がとは、口が裂けても言えないけれど。

 出してくれたマスターには悪いが、最悪呼吸を止めて飲もうとしたその時、急に横からボチャボチャと角砂糖が視界に入っただけでも七個は狭いコーヒーカップの中に押し込められた。さらにそこから、牛乳を受け皿にこぼれてしまうほどの勢いで注がれた。


「あかんあかん、そんな政治家の腹みたいに黒い液体Xが美味いわけないやろ。女は黙って砂糖マシマシミルクたっぷり……」

 ドゴン! と鈍い音とともに、ナックルの頭をお盆で叩いたのは、意外にもポチだった。いつの間にか店内に戻っていた。

「何すんねん! 脳みそに綿しか詰まってない分際で!」

「モンちゃん! 人様のメニューを勝手にいじっちゃダメでしょ! 何度クレームが来たと思ってるの!」

 普段はコケたり頼りない姿ばかり見せられているが、説教している様はまるでみんなのお母さんだった。

「わ、ワシは、よかれと思って……」

「ナックル、小倉トースト」

「ヒィィィ!」 

「……Bad Monkey……ポゥ」

 悲壮感をむき出しにした表情で、一人反省のためかナックルはバックヤードに入っていった。遅れてマスターがエニーに頭を下げる。

「ごめんなさい。うちの店員が粗相を」

「だ、大丈夫です。ちょっと、やんちゃしたかっただけですから……」

 それっきり、会話は途切れてしまった。別に気まずいわけじゃないが、勉強の件もあるので、そろそろ家に帰ろうと思う。エニーはカウンター席から立ち上がり、踵を返そうとしたその時、後ろからマスターの声が響いた。

「エニーさん。もしかしたらですけど、ただコーヒーを飲みに来たわけでは、ないんじゃないですか?」

「…………」


 この人は、エスパーか何かなのだろうか。さすがは喫茶店ここのマスターというだけはある。エニーは話した。友達のこと、このまま関わってもいいのかということ、籠のこと、籠と交わした約束のことを。

 話し終えたあとは、いくらか心が風船をつけたように軽くなったような気がした。どうして人に話すだけでそのような効果があるのだろう。痛みを、苦しみを、他人に押し付けているからだろうか。だったら少し申し訳ない。


「……つまりエニーさんは、どちらかを選びたいということですか?」

「選びたいって、わけじゃないんだけど……いや、選ばないといけないのか……でもでも、どっちも好きで! すっごく好きで!」

「……そうですか」

 マスターは肯定も否定もすることなく、ただ頷いてくれた。

「は、はは……ワガママだよね……」


 自分で言ってて、エニーは恥ずかしくなってきた。

 どちらかを選ぶということは、どちらかを選ばないということ。 

 そんな単純なことが、今は最大の問題として目の前に立ちふさがっていた。

 うつむき、意図せずして拳に力が入れていると、頭上から降ってきたのは意外の人物の声だった。


「いいじゃないですか。ワガママで」

「え?」 

 ポチだった。カウンター席から、ヒョイと隣の席へジャンプして座る。横顔から見たぬいぐるみの顔は、まるで煙のようにフッと消えてしまいそうな程に切なげに見えた。

「おそらくエニーさんは今まで、たくさん我慢を重ねたと思います。それは|見えざる友達イマジナリーフレンドゆえに触れられない、マコトの言葉で会話することができない、あげたらキリがないくらいに、いろいろと。

 でも、今は違う。好きな人に触れることもできるし、言葉を交わすこともできる。だったらこのチャンス、逃す手はないと思います! ワガママに生きましょう? 二兎を追うものは、二兎とも捕れです。そのために腕は、二本あるんですから」

「二兎とも……?」

「はい。箱崎さんの心のスキマを埋めるためには、それが必要です。そのために……マスター!」


 と呼ぶと、マスターはすべてを理解したような表情でバックヤードへと入っていった。来るまでの間、エニーはポチの表情の意味を考えていた。しかし答えは出ない。

 十秒ほど時間が経過してから、太い四角形の機械? のようなものを片手に持ってきた。大きな目玉のようなものが取り付けられている。


「なに? これ」

 初めて見る機械のようなものに対して、マスターが解説してくれた。

「インスタントカメラですよ。思い出をより鮮明に、かつ正確に残してもらいたくて、用意させていただきました。十枚しか撮れませんが、万が一フィルムがなくなったらすぐに私が予備をあげますよ。試しに一枚撮ってみては」


 エニーは試しにちょうど目に入った池崎を映した。カメラを向けられたことに気がつくとすぐに、中折れ帽を深くかぶって顔を隠し、クルリと一回転? してから足をくの字に曲げると、大声で「ポゥ!!」という叫んだ。

 それと同時に、エニーはマスターに教えられた通りのボタンを押すと、カシャンと気持ちのいい音が聞こえた。間もなくして、まるでトーストのようにウィーンと下から上に一枚の紙が召喚された。その紙は、池崎の決めポーズをありのまま写していた。


「すっ、すっごーい! まるで魔法みたーい!」

 どういう化学原理なのだろうか。時間凍結魔法とかで説明しないと、いよいよ意味が分からない。

「よく分かりましたね。写真とはいわば、思い出を一枚の紙に敷き詰める、魔法のようなものなんですよ……」 


 感慨深い表情でマスターは、エニーから見てカウンターの左上あたりを見つめていた。なんとなく気になり、自分も席から身を乗り上げて確かめてみる。

 壁には大事そうに額縁に入れられた、マスターとポチと池崎とナックルの記念写真が飾られていた。まじめ枠のマスターとポチは優しげな笑顔を浮かべながら両手を前で組み、おふざけ枠のナックルと池崎は言わずもがな、拳を高く突き上げたり、先ほどの決めポーズをしたりしていた。

 

「そういえば前から気になってたんだけど、この世界って忘れられた|見えざる友達イマジナリーフレンドたちが、消えるまでの最後の時を過ごす場所なんだよね? でもいざ、消えたあとはどこに行くの? そしてここで働いているみんなは、どうして消えることなく存在してるの?」

「あっ、そういえば話してませんでしたね。それは……」

「ま、マスター! たまには私が説明したいです!」

 ビシッと手を挙げたのは、これまたポチだった。ワガママの話と言い、どうしてやたらと話しに混ざってくるのだろうか。

「それは、いいですけど……」

 

 マスターが申し訳なさげな目つきで喫茶店の入り口の方に目を向けると、重ための金属音とともに新たにフレンドたちが入ってきた。ポチは「ごめんなさい! すぐ終わらせますから!」とスピーディーかつ繊細に接客を開始した。だがいつもより、部分的に粗がある気がする。

 やれやれと言わんばかりに、いつの間にかバックヤードから出てきていたナックルが池崎と一緒に手伝いに行った。一通り仕事が終わったあと、約束通りポチの口から話してくれた。その内容は、エニーからしたら衝撃だった。

 最後のときを過ごし、消えてしまった|見えざる友達イマジナリーフレンドはどこへ行くのか? 答えはどこにも行かない・・・・・・・・。つまりは跡形もなく『消滅』するのだ。所詮は子どもの想像力といったところか。もともと不安定な存在というのは聞いていたが、生きていた証一つ残せないのは悲しいと思った。

 いや、そもそも生きていることすら怪しい。今は奇跡のような力でたまたまここにいる・・・・・・・・・ようなものだ。


「……というわけなんです。でも、ありがたいことに私たちはちょっと特別で、いざ消えても人間に転生することができる・・・・・・・・・・・・・んです」

「ど、どうして!? そんなに特別待遇なの!?」

「簡単です。私も、モンちゃんも、マイケルちゃんも、創造主が深くたくさん愛してくれたから。それだけです。

 それとちょっと難しい話になっちゃうんですけど、本来ならただ消えるはずの存在が、無理やりこの世にしがみついているわけです。するとどうでしょう。幽霊が人間社会を生きることができないみたいに、徐々に『反動』が発生するんですよ。

 わかりやすく言えば、ゴムを引っ張れば引っ張るほど、離したときの戻る力って強くなりますよね? それと同じで、いざ私たちが消えることになっても、溜め込んできた反動によって膨大なエネルギーが発生し、結果的にそれが人間に転生する力になり得るんです。

 それも反動を溜め込む年数が多ければ多いほど、より優秀で才ある存在として地上に生まれ落ちることができます。さすがに見えざる友達イマジナリーフレンドだった頃の記憶はなくしてしまうんですけどね」

「す、すっごいじゃん! じゃあいざ人間に転生したら、大統領とか歴史の教科書にのるような偉人になる可能性があるってこと!?」

「悔しいが今のところ、一番その可能性が高いのはポチや。なんせワシらがこの世界へやってくる前よりずっと、喫茶店ここでで働いとったからな。ちなワシは十年くらいや」

 ナックルは池崎に肩を組みながら横目でポチを見やった。

「ワタクシハ、十五年クライデス、ハイ。ポチサンハ、コノ世界二流レテ何年目デシタッケ」

「……三十年とちょっとぐらいかな」

「さ、三十年!?!?」


 ナックルを叱りつける様子や、手慣れた様子で接客などを行なっている様子から、ただ者じゃないとは思っていた。

 だがまさか、三十年というエニーからしたら途方もない時間をこの世界で過ごしているという事実に驚きを隠せなかった。


「まぁそんなことより、ワシには野望があるんや! もし人間に転生した暁には、富、名声、力、この世のすべてを手に入れてやるという野望が! ボクシング王にワシはなる!!!!!!」

「フッ、相変ワラズ猿ノヨウニチンケナ夢デスネ、ハイ」

 肩を竦める池崎。それは本物の猿に失礼ではないだろうか。

「なんやと池崎! そういうお前はどないやねん!」

「モシモワタクシガ人間二転生シタラ……エライエライ大統領二ナッテ! マイケル・ジャクソンの誕生日を国民休日トシ! 国会答弁ヤ閣議ナンカデハナク、スベテヘッドスピンノ回転具合イデ物事ヲ決メルヨウニ法律ヲ作リマスデス! ハイ!」

 難しい単語は嫌いだ。これはエニーなりの考察だが、難しい言葉の大半は都合の悪い事実から目を背けるための方便だと思っている。

「お使い弁当? 角煮?」

 子どもがまれに核心を突くことを言うのは、そんな言葉を知らないがゆえではないだろうか。

「なんや美味しそうな響きやなぁ。ジュルリ」

「た、たぶん違うと思うけどなぁ……」

 苦い顔をしながら否定するポチ。さすがはベテランなだけあって、エニーよりも物知りなのだろう。ちょっとだけうらやましい。

「流れ的にポチも言ったらええやんけ。というか言え」

「え、わ、私?」

 目をぱちくりさせて、自分を指さすポチ。ヒョイと椅子から降りると、頭と手をブンブンと左右に振って拒否の姿勢を示した。

「いいじゃないですか。私も久しぶりに聞きたいです」

「ま、マスターには昔に話したじゃないですかぁ……」

 弱々しい声をもらすポチ。

「フフッ、ごめんなさいね。この年になれば、嫌でも脳はボケ始めるんですよ」

 みんなが視線が一気に注がれる。ポチは顔を赤らめあたふたとしていたが、やがて諦めたように首をたれた。

「わ、私は……」

「「「私は?」」」

「わ、私は……」

「「「私は……?」」」

「私は……!」


    *


 それからテスト本番に至るまでの期間はあっという間だった。再度みんなで集まって勉強したり、籠と二人っきりで勉強をしたり、確実に時間を積み重ねていくことで、ちょっとずつだが学力は強化されていった。

 テスト当日、エニーは籠の母に頼み込み、朝からカツ丼を食べた。それと北海道にしか売られていないカツゲンという飲み物をがぶ飲みした。もちろんその後はトイレに行って身体も万全に整え、いざ学校センジョウへ。

 国語、英語、社会、理科と、以前は一問も解けなかった問題が、今では赤点を回避するくらいには解答を埋めることができていた。それも空音が出てきそうな問題をあらかじめピックアップしてくれたこと、親一朗が問題を解けたご褒美としてお菓子などを買ってくれたこと。

 あとは……檻塚さんや、檻塚の兄さんが丁寧に問題の解説をしてくれたおかげだろう。借りを作ってしまった今となっては、邪魔と言ってしまったことが悔やまれた。直接は謝れないが、せめて心のなかで申し訳ないと言葉を紡いだ。

 そしてラスト、数学のテストも今までと同じように赤点を回避するくらいには解き進めていくエニー。テスト終了十秒前、ギリギリまで解き間違いがないかをチェックしつつ、やがて堀先生が「そこまで!」と大きな声で終了を宣言した。

 

「それでは、後ろからテストを回収してください」


 エニーの席は、後ろから三番目でちょうど真ん中くらいだ。後ろの人が前の人にバケツリレー式にプリントを渡していく。

 エニーは後ろからプリントを受け取り、前の人にあげようとした。だが直前、気づいてしまった。目を背けたくなるような事実に。


「あっっっっっっ!!!!」


 エニーの魂の叫び声は、教室中に響き渡った。頭がクラクラする。訝しげにこちらを見てくるクラスメイトは目に入らず、ある一つの避けられない結果に呆然自失だった。

 テスト用紙に名前を書き忘れた。

 それからのことはよく覚えていない。ただ数日の空白期間が設けられたあと、テストが返却され、そこで零点のテスト用紙がエニーの元に届けられた。それはまるで、未成年がもらう解雇通知書のように絶望を心に植え付けた。

 その日の放課後から始められた実習は、とても……とても言葉にできないほどに苦痛で、退屈で、生きた心地がしなかった。エニーは窓の景色を見つめながら、いつかマグロレッドが助けてくれるのではないかと妄想した。

 だがこんな時に限って、ヒーローは姿一つ見せてくれない。とても心が狭いなと思った。やがてテストから解放され、昇降口出て校門を抜けたとき、街並みはすっかり夕暮れの茜色に染まっていた。

 時刻は六時半を示している。外では、籠、親一朗、ブラックが待ってくれていた。それだけでも気が晴れた。


「そんなしょげた顔するなよ。お前は頑張った、本当に」

「でも……約束と違うから……」


 想像の中で、エニーは美味しそうにうどんをすすっていた。カツオと昆布だしの匂い、もっちりとのどごしのよい太麺。

 でもそれは叶わぬ願いと知ると、やはり逃した魚、いや麺類はデカかった。


「ハッハッハッ!! 安心しろエニーちゃん! 下には下がいるぜっ!」

 親一朗はエニーに赤点が二教科もあるテスト用紙を見せつけてきた。にもかかわらず、逆に笑い返している。それを見て、あきれながらブラックが言葉をもらした。

「自慢することじゃないでしょ。想馬、まさかあんた……」

「そうだぜ! 学力成就のほかに、なんか多い方がいいかもと思って健康・病気平癒・長寿祈願・金運・商売繁盛・財運アップ・安産祈願といろいろ買ったんだけどよ、ちっともテストの成績が伸びなかったんだ。やっぱどっかの偉い人が言ったように、神は死んでんのかな〜?」

 その直後、あきれたブラックにアッパーカットを食らったことで、またしても十メートルほど打ち上げられて落下した親一朗。

「死んでんのはあんたの頭でしょ。それに勉強の途中にもかかわらず、ラインで彼女たちとメッセージのやりとりばっかして……そんなんだからダメなのよ。わかってる?」

「ば……ばい……ずみ゛ま゛ぜんでじだ……」


 その言葉を最後に、親一朗はグフッと声を出して気絶した。エニーはアッパーカットで拳を振るう様を、カイセンジャーの中で最も腕力がある軍艦ブラックの姿と重ねていた。

 だから心の中では、いつもブラックと呼んでいる。いつか機会があれば、体術を教えてほしいなと思った。


「じゃ、あたしはここで」


 別れ道が見えた頃、ブラックは手を振って家路について行った。籠と二人きりで夕焼けに染まる道を歩いていく。道中、もしテストがうまくいっていたら入れるはずだったうどん屋が目に入り、自分の意図せずして見つめてしまった。

 ちょうど客が入っていくところだ。頭にタオルを巻いている中年の男性がのれんをくぐっていく。何を食べるのだろう。きつねうどんか? 季節的にざるうどんか? それともあえて鍋焼きうどんか? どれも良すぎて選べない。

 

「うーん、迷うな」

「いや迷わなねぇだろ。家なんて、このまま道なりに進めば見えるところにあるだろう」

「……そうだよね」  


 エニーはうどん屋から視線を外し、家に帰ることにした。うどんは食べられないけど、もし家に帰ったら籠の母がそれに負けないくらい美味しい料理を振る舞ってくれるだろうと元気になる。

 だがその時、エニーはまるでピンポイントでグ◯グルマップのピンにぶっ刺されたような衝撃的な事実を思い出した。確か今朝、籠の母が「今日は中学時代の友達と会うから、晩御飯は家にあるものを食べてね」と言われたのだ。

 エニーは残念ながら、料理がこれっぽっちもできない。せいぜいお湯を沸かせる程度だ。だから料理も自ずと、カップラーメンかうどんの二択になる。

 どうせならカップうどんにしよう。それで心の傷が埋まるとは到底思えないが、それでもラーメンを食べるくらいなら、うどんを食べていつかやるテストのためという意味も込めてそうしようと決意した。

 赤◯きつねかど◯兵衛、果たしてどっちにしようかと考えたその時、ふと一緒の歩幅で歩いていた籠の足がピタリと止まった。

 

「……どうしたの?」

 それに対しての回答は、たっぷりと十秒ほどの時間を要してから発せられた。

「仕方ないな……今日だけだぞ」 

 ポリポリと頭をかく籠。その言葉の意味を遅れて理解したとき、まるでエニーは天使のラッパを生で聞いたときのように喜びで飛び上がった。

「え……じゃあまさか、食べられるの!? うどんが!?」

「あぁ。そんなずっと暗い顔されちゃ、家の空気が悪くなるからな」

「こ……コモちゃ〜ん!!」

 たまらずエニーは、より嬉しさを表現するために助走をつけて抱きついた。はたから見ればタックルだったかもしれない。その衝撃で籠をふっ飛ばしてしまい、すぐに謝った。

「ごっ、ごめん! ケガとかなかった?」

「だ……だてに毎朝攻撃くらってないからな。これくらい」

 顔をニヤけさせながら、よろよろと立ち上がる籠。やはりマグロレッドの好敵手としてはすごくうれしかった。

「じゃっ、じゃあさコモちゃん! そうと決まったら店にレッツゴーだよ!」


 エニーは腕を引っ張り、店へと引き込もうとした。だが籠は、まるで足から根が生えたように一歩も動かなかった。

 エニーはきょとんとした顔を向けたのに対して、同じく籠もきょとんとした顔つきになっている。

 

「ちょ、ちょっと待て。オレがいつうどん屋に行くなんて言ったんだ?」

「え……? だって、うどんが食べられるって」

「……ああそうか。誤解させちゃったな。オレの考えでは……」


 *


 サク、サクと歯切れのいい音が家中に響いている。点いているテレビの音声は、どこか遠いものに思えた。本格的にも、鰹節に昆布の合わせダシを台所の奥の戸棚から引っ張ってきたらしい。エニーはニヤニヤが止まらなかった。はたから見るととても気持ち悪いが、それも仕方ないだろう。

 なんせ籠は今、エニーのためにうどんを作っているところなのだから。

 料理の経験は今まで卵のみを入れたチャーハンしかなかったため、包丁を扱う手がとても危なっかしかった。それでも料理を中断しないでいてくれたのは、素直にうれしい。エニーは真剣な表情をしている籠に、マスターからもらったインスタントカメラを向けた。

 

「キレてるよーキレてるよー。すごくキレてるよー」

「…………」

「はい、ここでサイドチェストォォォ!!」

「できるか! 今うどんの具材切ってるから、話しかけられると危ないんだよ」


 語気を強めにして怒られてしまった。エニーの想像内では、あまりにも面白すぎるネタによりこの場が和むはずだったのに。

 仕方がないので今度は、懐からマ◯リックスに出てくるキャラがつけそうなグラサンを装着する。そして両手を胸の位置に折り曲げて広げた。


「しょうがないなぁ。じゃあ……キッテます。キッテます。キッテます。キッテます。これが……!」

「ハンドパワーでも手力でもないからな。ていうかいつ覚えたんだそれ」

「そんなことよりコモちゃん、これ、すごくきれいに撮れてると思わない? ほら!」


 エニーは無意識に籠と肩がぶつかり合うように身体をくっつけ、写真を見せた。

 その時、いつもなら普通のことと動揺しないエニーが、このときばかりは急に自分のやっていることはすごく恥ずかしいとこのように思えてしまい、咄嗟に距離をとってしまった。


「どうした?」

 何一つ動じていない籠が声をかけてくれたのに対し、エニーは、

「い、いや何でも!」

 無理やり笑いながら大袈裟に手を振った。どうしたのだろう。やはり今日、『アレ』を実行することが関係しているからなのだろうか。何気ないこと一つでも、意識してしまう。

「……そうか」


 籠は仕方がないなというふうに、小さく笑って見せた。ただそれだけだ。いつもエニーがしている松◯修造のような暑苦しい笑みではなく、細胞のようにほんの僅かな笑み。

 それを見てエニーの鼓動が、ドクンと高鳴ったのを感じた。だが決して嫌じゃない。甘くて、ほろ苦くて、涙が出そうで、でもそれ以上に幸せな味。まるで大好きな音楽のリズムを聴いているみたいに、自分の意識が音楽と一体化するような感覚。

 唇は、エニーの知らないところで勝手に話しを始めていた。

 

「ねぇコモちゃん、料理しながらでいいから、聞いてくれる?」

「? なんだよ」 

「前にマスターが、みんなで思い出を作ってくださいって言ったでしょ? その時エニー、ちょっと嫌だって思ったんだよね」

 籠の包丁を動かす手が止まった。だがすぐにサク、サクと動き出した。

「何か、理由があるんだろ。できれば、話してほしい」

 口調はあくまで優しかった。頭ごなしに怒ったりせず、まずは冷静に理由を聞いてくれる。うれしい。

「二人でずっと一緒、味方っていう約束と、親一朗たちとまた遊ぶって約束、どちらか一つを選ぶべきって思ったんだ。でもそうじゃなくて、ポチが教えてくれたの。二兎を追うなら、二兎とも捕れって。そのための二本の腕なんだって」

「…………」

「思えばエニー、幸せから逃げてたんだと思う。本当に思ったことはないけど、心の奥底では抱えきれないものだって……あきらめていたかもしれない。

 でももう迷わない。コモちゃんとの約束も守る。でも親一朗たちとたくさん遊んで、思い出をつくることに躊躇しない。したくない。どっちも、大好きだから」

「……そうか」

 コトコトとうどんを茹でている音が、二人の間にある沈黙を優しく包みこんでくれた。籠は軽く咳払いをしたあと、恥ずかしそうに口に手を当てながら、こうつぶやいた。

「オレにも、手伝わせてくれないか。思い出づくり」

 答えは決まっていた。

「もちろん! それと……」

「それと?」

「好きだよ。コモちゃんのこと」


 ここでようやく、唇が勝手に動いている状態に気づいて、慌ててお口チャックした。だがもう遅い。本来なら籠が寝静まっているときに同じ布団の中に入り込んでから言うはずだったセリフが、自ら予定を狂わす結果になってしまった。

 どうしようかと考えていると、何やら籠の様子がおかしい。ずっと左手の中指あたりを、顔をゆがめながら右手で押さえつけている。その時、台所の明かりに照らされて、キラキラと妖しく光る赤色が見えた。どうやらエニーが好きだと言ったことにより手元が狂い、手を切ってしまったらしい。

 

「大変! すぐに手当てを……」  


 とは言いながらも、エニーの頭は血を見たことにより真っ白になっていた。おまけに絆創膏などが置かれている場所なんて知らないので、実質何もできない状態だった。

 でもなにかをしてあげたいと、そばへと駆け寄った。だが焦っていたせいで身体のバランスを崩してしまい、エニーはまるで籠を押し倒してしまうような体勢で倒れてしまった。


「ッ!?!?」


 衣里を喫茶店で目撃したときとは立場が逆転している。籠の顔が、わずか数十センチ先にある。互いの心臓の音が届いてしまいそうだった。

 うっかりキスしてしまいそうになる直前に、ハッとして我に返ったエニー。その前にやるべきことがあるだろう。籠は顔を赤くし、すぐさま自分をどけようと手を動かした。

 だがエニーはその手をつかむと、ちょうど出血している指を口元まで持っていき、そしてパクリと咥えた。目をまん丸にして、信じられないものを見るような目つきになる籠。だがエニーはいたって真剣だ。

 確かネットで見たのだが、唾液には殺菌作用があるらしい。だからこうして指を咥えてチュパチュパしているのだ。苦くて鉄のような、なんとも言えない味が味覚を刺激する。一分ほど咥え続けてから、ようやく指を開放してあげた。限りなく透明に近い銀色の糸が、間に出現する。


「これで、大丈夫だよ」

「いや、全然……大丈夫じゃないって」

 籠はまるでコバエのように消え入りそうな声を出している。

「興奮してくれた? 好きになった?」

「いや、なるならない以前に、その、急すぎて」

「……本当に気づかなかったんだね。エニー唖然」


 覗き込むように顔を見ると、恥ずかしそうに口をつぐみ、目を閉じた籠。しばし台所を沈黙が支配していると、またしてもこの場から逃げ出そうとしたので、今度は顔をのぞいてすべての身体を密着させてやった。むろん、胸もだ。

 籠は恥ずかしそうに、でもちょっといやらしい顔をしながら、エニーのTシャツからのぞく胸元に釘付けだった。やはりこういうとき、性欲というのはとても分かりやすくて助かる。

 

「いいんだよ? 触っても」

「ど、どこを……」


 往生際が悪く、この期に及んでとぼけてきた籠。カッとなったエニーはしびれを切らし、ケガをしていないほうの手をむんずとつかむと、そのまま自分の胸元に導いてあげた。

 グニュリと籠の大きな手がエニーの胸を下着越しに揉まれたとき、まるでその部位だけに静電気が走ったような痛みと、それ以上の甘い快楽が押し寄せてきた。

 もっと触ってほしいと思ったのもつかの間、すぐに顔を大爆発する寸前まで赤く染め上げた籠は、胸から手を離してしまった。いくらなんでもバカすぎる。ひょっとして性欲は、産まれてくるときに母の胎内に忘れてきたのだろうか。


「な、何をバカなこと……」

「エニーは本気だよ!」

 自分の意思を言葉にしたとき、エニーも自身も顔が真っ赤になっていたことがわかった。どんなに強がっても、多かれ少なかれ緊張はしてしまうらしい。

 コトコトとうどんを茹でる音が聞こえ続けている。ここまで来たらもう、あとには引けない。予定していた時間とは懸け離れているが、今なら親は帰ってこず、むしろ好都合な時間帯だ。ゴクリとツバをのみ込み、エニーは決心した。

 

「だからその証拠に、今からしよ……セックス」

「はァ!? お前な……」

 エニーは籠が喋り終える前に、人差し指で口を塞いだ。シーッと、静かにしてというように。

「きせーじじつ? って言うのかな? 檻塚さんに取られちゃう前にやることをやっちゃえば・・・・・・・・・・・、コモちゃんがエニーのことだけをみてくれるんでしょ?」

「や、やることって」

「もちろん……ヤルこと・・・・、だよ。 まずは手始めに……」


 エニーは向かい合わせだった顔の位置を下半身へずらし、カチャカチャとベルトを外し始めた。もちろん籠は抵抗したが、ここで負けるわけにはいかない。すべての力を出し切る勢いで押さえつけながら、ついにベルトのロックを解除することに成功した。

 あとはズボンをずり下ろすだけでいい。心なしか籠の力が弱まっているような気がする。もしかしたらまんざらでもないかもしれない。そう思ったときだ。ふと自分の意識の外から、音が流れてきた。うどんをゆでる音、さっきより大きくグツグツと聞こえる気がする。

 それはまるで徐々にメーターが上がっていくみたいに、あるタイミングで音は最高潮を迎えた。そして、


「アザアアアアアアアアア!」


 と突然頭上から籠の叫び声が聞こえたと思ったら、そのままぐったりと動かなくなってしまった。見ると白目を剥いてしまっている。そして何やら、鼻先と頬が赤く染まっているように見えた。

 これは恥ずかしがっていることによる赤さではない。指で触ってみるとわずかに温かく、これはゆでたことによるお湯が籠にかかったものだとエニーは理解した。


「ご、ごめんなさーい!!」

 

 うどん作りは失敗に終わった。ゆですぎたことにより麺の命ともいえるコシが消失し、まるで赤ちゃんが食べるようなフニャフニャの離乳食のようになってしまった。

 箸でなんとかうどんをつかもうとするものの、その度に途中でブチブチと切れてしまう。何とかつかんで食べてみるものの、ドロリと舌の上でとろけるような気持ちの悪い食感。一口食べるたびに、水が三杯ぐらい必要だった。


「ごめん。エニーが急いだばっかりに」

「……実際、かなり早まった行動だったな」


 いつもの籠なら、「そんなことはない」と否定してくれるのだが、さすがに今日だけは違った。態度の変わりようを見て、エニーは自己嫌悪に陥った。なぜさっきは、もうあとには引けないなんて思ったのだろう。冷静に考えれば、せめてご飯を食べたあとでもよかったではないか。

 本当にバカだなと何度思っても、過去を変えることはできない。もしかしたらこの件で、籠に嫌われたかもしれない。可能性は低いだろうが、少なくとも幻滅はされているかもしれない。それだけでも、エニーの肩には後悔の二文字がドッシリとのしかかってきて泣きそうだった。  

 脳内で反省会をしていたその時、何をとち狂ったのか、籠が失敗したはずのうどんを箸を使うことなく、ズズズとスープのように飲み干し始めた。申し訳ないという感情が一気にエニーを突き動かし、止めにかかる。


「ちょっ、ちょっとコモちゃん! 大丈夫だから、食べなくても……」

 言い終えた頃には、すでにどんぶり椀の中身は空っぽだった。籠はふーっと満足そうな息を吐いたあと、不器用にも笑顔を見せながら、

「世界に一つだけの味、だったぞ」


 とエニーの頭を撫でてくれた。そこからジワッと、足の爪先まで満たされていく『何か』を感じる。言語化はできない。してはいけない気がした。

 これは、溢れ出る感情そのものだ。

 

「……!」

 気がつくとエニーは、籠を抱きしめていた。とても力強く、絶対に離さないというふうに。「痛いって」と声が聞こえた気がするが、その頃には自分の泣き声でよくわからなかった。

 ああ、本当に良かった。箱崎籠を好きになって、箱崎籠に出会うことができて。自分を見えざる友達イマジナリーフレンドとして作ってくれたこと、たとえ周りの人からイジメられたりバカにされたりしても、最後まで見捨てないでいてくれたこと。本当に、本当に……


「本当に、よ゛がっだ……」

  

 エニーはより嬉しさを表現するためにキスでもしようかと考えたその時、ピンポーンとインターホンの音が振動した。誰か来たらしい。こんなときにタイミングが悪いものだ。

 居留守を使おうと籠に提案したが、相手に悪いということできちんと出ることに。そういうまじめなところも好きなのだが、いつかそれが原因で面倒なことになるような気がする。

 そしてそれは――最悪の形で実現することになってしまった。あまりにも遅いので、エニーは玄関の方に顔を出すことにした。外に行っているのかと見たものの、ちゃんと玄関前に立っている。だがその目は、ある一点を凝視していた。

 それにならってエニーも見てみる。そして……絶句した。

 インターホンを鳴らしてきた相手、それは檻塚衣里だったからだ。


「……本当に、何も覚えてないのね。昔私が遊びに来たことも」


 と書かれた紙を籠に見せつけている衣里。エニーは必死に記憶をたぐり寄せた。

 そして見つけた。忌々しい過去の思い出を。

 あの時、もしエニーが祭りに行こう・・・・・・なんて言い出さなかったら起こらなかった悲劇。自分で招いた種なだけに、なおさら思い出して腹が立った。

 

「今日はね、お願いがあってここまで来たの。聞いてくれる?」

「内容によるが……なんだよ」


 籠がそう問いかけたとき、衣里の身体は微弱に振動し始めた。唇はピクピクと痙攣し、ペンを持つ手が震えている。おかげでうまく文字が手帳に書けていない。

 大方予想はできていたが、そのせいでポトリとペンを床に落としてしまった。焦った表情で拾おうとするが、腰を折り曲げ手を伸ばした姿勢の状態で動きが止まった。

 とても奇妙で、不気味だった。それは籠も同じようで、訝しげな視線を衣里に送っている。もはやその場所だけのときが止まっていると説明されたほうが現実味があった。

 だがやがてそれも終わる。ブォンと効果音が聞こえそうなくらいに思いっきり頭を上げた衣里。その表情はまるで戦地に赴く直前の勇者のように引き締まっていて、不覚ながらちょっとエニーはカッコいいなと思ってしまった。

 

「わ、私の…………」

「え……」


 今確かに、檻塚さんの口の方から声が発せられたような気がする。学校で同じ教室にいるところを何度も見ているが、一度たりとも声帯を使った音は聞いた覚えがないと記憶を振り返る。

 だが驚くことはそれだけではなかった。次の言葉を聞いた瞬間、エニーはまるでその場に急きょ掘られた落とし穴に真っ逆さまに落ちてしまうような気分を味わうことになるのだ。


「私の、社交ダンスのパートナーになってほしいの!」

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愛しのエニー @usunoromausu

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