第4話: もう、ヒロシに従わない

1980年、夏──

理央は週に一度、スイミングスクールに通っていた。


その日、小学校の水泳授業で、クラス全員が25メートルを泳ぐことになった。


理央は特に緊張もせず、習った通りにスムーズなクロールで泳ぎきった。


プールの縁に手をかけ、振り返る。


──ヒロシの姿が見えた。

ヒロシは、水と格闘していた。


それはもはや「泳ぎ」というより「怒り」だった。


水面を殴るような激しいバタ足。

息継ぎのたびに、水面から異様に跳ね上がる上半身。


まるで、水中から這い出ようとする亡霊のようだった。


理央の脳裏に、あるホラー映画の一場面がよみがえった。


──湖に沈んだ子どもの霊が、ゾンビのように濁った水を割って這い出し、クロールのような動きで生者に襲いかかる、あの恐ろしいシーン。


ヒロシは、スイミングスクールに通ったことがなかった。


正しい泳ぎ方を知らなかったのだ。


そして、ヒロシの屈辱と怒りは──

「楽々と泳ぐ自分」へと向けられている。


理央は、そんな「深読み」をするのだった。


**************************************************************************

1980年、秋──

ある日、理央とヒロシはトシアキの家を訪れた。


「お邪魔します!」

理央は少し緊張しながら玄関をくぐり、ヒロシもその後に続いた。


トシアキの家は、ヒロシのアパートとは対照的に、広々としていて明るい。玄関には洒落た置物が並び、奥からは微かにピアノの音が聞こえてくる。


「トシくーん、お友達来たわよー!」

奥から響いたのは、年の離れた二人の姉の声だった。


姉たちは理央たちを暖かく迎え入れてくれた。


特に、音大生だという一番上の姉は、理央がピアノを習っていると聞くと、「まあ、そうなの!」と目を輝かせた。


リビングに通されると、姉たちはスケッチブックを持ち出し、理央とヒロシに差し出した。


「ねえ、かっこいい男の人の絵、描いてみて!」


理央たちはさっそく描き始めた。しばらくして三人の絵が完成すると、姉たちはそれを見て歓声を上げた。


「わあ、すごい!」「ほんと上手ねえ!」


理央にとって、褒められるのは慣れたことだったし、ヒロシも同じだろう。


ところが、トシアキの絵を見た途端、姉たちは声をそろえて笑った。


「トシ君は、ぜんぜんダメだねえ〜。なんでこんなに違うの?」


並べられた三枚のうち、トシアキの絵は、線と丸をつなげただけの算数の図形のようなものだった。写実的な理央やヒロシの絵とは、まるで別次元だ。


それでもトシアキは、ただ黙って微笑んでいた。


クラスでは勝ち気で自信家の彼が──姉たちの前では、幼児のように扱われても反論もせず、じっとしている。


その姿に、理央は初めて、彼の意外な一面を垣間見た気がした。


数日後、理央とヒロシは二人きりで会話をしていた。ヒロシが突然、理央に問いかけた。


「なあ理央、トシアキはいい姉ちゃんたちを持ってるな。お前はどっちの姉ちゃんがいいと思う?」


正直、どちらでもよかったが、問われた以上、何か答えなければならない。


ピアノを習っている自分と音大生の姉が重なり、理央は上の姉を選んだ。


「……うーん、上の姉さんかな」


理央が答えると、ヒロシはニヤリと口の端を上げた。


「そう? 俺は、両方ともいいと思うわ」


──どちらかと聞いておいて、その言い草。


理央は内心「またか」とため息をついた。


ヒロシはいつもそうだった。


まず相手に質問を投げ、答えを聞いたあとで、自分は最初から用意していた、論点をずらした独創的な答えを披露する。


わざと相手に「レベルの低い」答えを言わせておいて、自分の方が深く考えていると誇示するかのような、意地の悪い言葉遊びだった。


ヒロシの頭の良さは、たしかに認めざるを得ない。


けれど、その底意地の悪さに、理央は次第に嫌気がさし始めていた。


**************************************************************************

1980年、冬──

ある日のこと、音楽の時間となった。


理央たちが音楽室のドアを開けると、黒く光るピアノが静かに佇んでいた。


そのとき、クラスの女子のひとり──真理子がピアノの前に歩み寄り、「エリーゼのために」の冒頭を奏で始める。


生徒たちの視線は、一斉に真理子へと注がれた。


理央もまたピアノを習っており、真理子の演奏に合わせて──ヒロシがどんな反応を示すか、内心、気にかけていた。


ヒロシはちらりと彼女を見て、ぽつりと呟いた。


「……わからんなあ(どうすれば、そんな凄いことができるんだ?)」


それは、ヒロシらしい形の称賛だった。


「エリーゼのために」を弾くことが、彼にはまるで“神業”のように見えたのだろう。


滅多に人を褒めないヒロシがこぼした、その一瞬の呟きに──


理央は、心の奥で小さな火が灯るのを感じた。


……え?そんなことで褒められるの? 僕だって、この程度なら弾ける。


ヒロシが、もし僕の演奏を聴いたら──どんな顔をするだろうか。


「俺も弾けるよ」


理央のその言葉に、ヒロシは無言だった。まるで、聞こえていないかのようだった。


そして、ほどなくして──この無垢な期待と、幼い野心は、理央の運命に小さな影を落とすことになる。


だが、それはまだ、少し先の未来の話だった。


**************************************************************************

1981年、早春──

八事南小学校では、まもなく卒業式を迎えようとしていた。


その頃、『機動戦士ガンダム』の劇場版第一作が公開されることになった。


それまでのロボットアニメといえば、「無敵のヒーローが悪を打ち倒す」といった、単純明快な勧善懲悪が主流だった。


しかし『ガンダム』は、そうした流れとは一線を画していた。


ひ弱な少年が、大人たちの世界──政治の陰謀や戦争の現実に翻弄されながら、人間関係に苦しみ、少しずつ成長していく物語。


敵と味方を単純な善悪では割り切らず、むしろ相対的な視点から戦争と人間を描いたその作品は、大人にも届く深い世界観を持ち、多くの支持を集めていた。


ある日、ヒロシが突然言い出した。


「ガンダム、春休みにみんなで観に行こうぜ」

「理央、おまえんちのオジサン(親父)、チケット取ってこれるよな?」


理央には、断る理由などなかった。


彼の父は、名古屋駅近くのプレイガイドにもほど近い場所に勤務しており、昼休みに足を運んでチケットを購入してくれた。それを丁寧に封筒に入れ、理央に手渡してくれた。


翌日、理央はその光沢紙にくっきりと印刷された映画のチケットを、漫画クラブの仲間たちに配った。


ヒロシやみんなの役に立てたことが、どこか誇らしかった。


──だが数日後、ヒロシの一言がすべてを覆した。


「やっぱさ、ガンダムってダセェよな。子どもっぽいし。映画、行くのやめた!」


ヒロシの関心は、わずか数日のうちに『ガンダム』から『伝説巨神イデオン』へと移っていた。


『伝説巨神イデオン』は、『ガンダム』と同じく富野由悠季による作品だったが、内容はより抽象的かつ悲劇的で、激しい死や暴力、さらには過激な性描写にまで踏み込んでいた。


そのリアリズムと哲学性において、『ガンダム』を凌駕していたと言っていい。


ヒロシの卓越した美意識は、これを“本物の芸術”として直感的に評価したのだろう。


そしてその瞬間から──『ガンダム』は、ヒロシの中で「幼稚でダサいもの」へと、一気に格下げされたのだった。


いくら小学生とはいえ、他人にチケットを用意させておきながら、気まぐれな一言で「ダサい」と切り捨て、鑑賞会を中止にする──ヒロシは、そんな理不尽を何のためらいもなく実行できる人間だった。


あるいは、理央にチケットを取らせ、それが叶った時点で「やっぱやめた」と反故にすること自体に、何かしらの“快感”を覚えていたのかもしれない。


ヒロシの“鶴の一声”で、ガンダム映画鑑賞会の話はあっけなく立ち消えとなった。


トシアキを筆頭に、取り巻きたちは無言のまま、それに従った。


──理央を除いて。


理央は父にチケットの払い戻しを頼んだ。


けれど、自分のぶんだけは渡さなかった。


父への義理立て、ヒロシに従わないという小さな反抗心。


いや、自立心の芽生えだった。


日曜の午後、理央はひとりで地下鉄に乗った。行き先は名古屋・伏見の映画館。


一人きりで映画を観るのは、生まれて初めての体験だった。


最初は少し心細かった。でも、それ以上に──自由だった。


『機動戦士ガンダム』


巨大なモビルスーツ、少年の葛藤、仲間の死、そして抗えない運命。


その物語は、どこか今の自分とも重なるように思えた。


劇場を出たとき、理央は確かに変わっていた。


トシアキたちはヒロシに従って映画に行かなかった。


けれど、理央だけは違った。


彼だけが、ヒロシに従わなかった──


それが、はっきりとした「第一歩」だった。

伏見の広い歩道を歩きながら、ふと思った。


……もうすぐ、中学生か。


理央の脳裏に浮かんだのは、ヒロシの姿だった。


みんなに崇められ、やりたい放題に振る舞うそのわがままさ。


他人の気持ちも、父の親切心さえも、平気で踏みにじる横暴さ。


……もう、ヒロシに振り回されるのは嫌だ。


それに、中学に行けば、新しい友達もきっとできる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る