A cat and Love
白凪結
前編
『吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している』
こんなことが本の中に書いてあって、吾輩はドキッとした。
が、どうやらこれは夏目漱石という人間が書いた架空の物語らしい。
吾輩と一人称が同じなのは親近感が湧くが、生まれた場所は人間が営む動物病院だったと覚えているし、その頃から暖かい人間の家で怠惰を貪っている次第だ。
名前はある。最近、家の者たちから「
さて、吾輩は今部屋の隅に座りながら、目の前の光景を見つめている。
人間の娘が鏡の前に立ち、髪をとかしているのだ。
彼女こそ吾輩の飼い主、山本
彩香は今日も朝から忙しい。
「あーもう! この寝癖どうしよう!」
彼女は鏡に向かって文句を言い続けている。
「今日は絶対にまっすぐ行かなきゃ……直樹くんと同じ電車に乗るんだから」
そう言って彩香はブラシを手に取り、必死に髪を整え始めた。
吾輩には彼女の熱意が理解できぬ。ただの毛並みではないか。
しかし彼女にとってこれは大問題らしい。
(直樹くんって誰じゃ?)
吾輩は首を傾げる。
だが彩香の表情を見れば分かる。これは恋する乙女の顔だ。
ではここで、ちょっとした予備知識を与えておこう。
彩香はこの春に高校生になったばかりだ。
入学当初から同じクラスの「直樹」なる少年に心惹かれているようだ。
けれど、恥ずかしがり屋な彼女はなかなか声をかけることができず、毎日遠くから眺めるだけであった。
今日もまた彩香は学校へ向かう準備をしている。
制服のスカートを翻し、鞄を持ち上げる。その動き一つ一つにも緊張感が漂っていた。
玄関を出る前に、一度深呼吸をする彩香。
そして吾輩のほうを振り返り、
「行ってきます!」
と元気に言った。
ああ、いってらっしゃい。
吾輩は心の中で答える。
それから数時間後のこと。
夕方になり、彩香が帰宅してきた。
帰宅と同時に、玄関から「あ〜」というため息が聞こえてきた。
どうやら何かあったらしい。
リビングに入るなりソファに倒れ込む彩香。
「どうしたのじゃ?」
どんなことを喋ろうとしても、彩香には吾輩が「ニャー」と鳴いているようにしか聞こえない。しかし、吾輩の問いを理解したように、彩香は今にも泣きそうな顔をして答えた。
「今日、直樹くんが私に話しかけてきてくれたんだよ! でも緊張しすぎて何を喋ったのか覚えてないのー!!」
ほう、と吾輩は納得する。
どうやら上手くいかなかったらしい。
その後も彩香はぶつぶつと呟いていた。
「あんなこと言うつもりなかったのに……」
「もっと可愛い返事したかったな……」
やれやれ困ったものだと思った吾輩だが、ふと思った。
もしかすると、このままでは明日も同じようなことが繰り返されるかもしれない。
ならばどうすればいいだろうか……。
吾輩は彩香に近づくと、膝の上に飛び乗った。
そして優しく頭を擦り付けるようにしてみせた。
「ニャオーン」(とりあえず落ち着け)
彼女は驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。
「ありがとう、猫田」
そう言って吾輩は撫でる手つきには、少しだけ安心感があったように感じられた。
それからというもの、彩香は毎朝出かける前に必ず一度吾輩を抱きしめるようになった。少々暑苦しいが、彩香がそれで落ち着くのならよしとしよう。
彼女の変化はそれだけではなかった。少しずつ自分を変えようとしたのだ。
例えばある日の放課後————
「ねぇ猫田、聞いてくれる? 今日ね、初めて自分から話しかけてみたんだ!」
彩香は嬉々として語っていた。
「ニャーン」(よかったな)
「うん! ありがとう、猫田!」
またしても彩香は吾輩をぎゅっと抱きしめる。
吾輩としても非常に喜ばしいことである。一歩踏み出す勇気が持てたことは素晴らしいことだ。
だが、吾輩が思っていた以上に、彩香は努力していた。
やがて、その集大成となる行動に彼女は出た。
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