第8話 穏やかな生活
なんの前触れもなく、滝沢がリオンの手錠を外した。
その様子をリオンが不思議そうに見ていると、滝沢はにっこり笑って、リオンの腕を取って立たせると、身体を支えながら地下室の階段をのぼった。
廊下に満ちる陽の光が目に突き刺さって痛いほどだ。
とっさにリオンは瞳を閉じる。
「こっちよ」
滝沢がリオンの手を引いて一階の廊下を進み、見覚えのあるリビングへと辿り着くと、それだけで呼吸を荒くしたリオンをソファへと座らせる。
まだ身体は本調子ではない。
体力もないから、こんな短時間歩いただけで息が切れてしまう。
ソファに深く腰かけて、きょろきょろと辺りを見回していると、滝沢が鼻歌混じりにキッチンで料理にとりかかるところだった。
「今日はカレーよ。
リオン、好きでしょ?」
とんとん、と野菜をまな板で刻む小気味よい音が心地よくて、耳を澄ましているうちにリオンの心拍数が平常に戻っていく。
リビングはレトロな調度品で揃えられていて、本棚が壁一面に備えつけられている。
リビングの隣には和室があった。
誰も使用している様子はない。
滝沢の家は資産家のようで、家の中は持て余すほどの広さだった。
リビングに面した掃き出し窓の向こうには、草木が枯れた中庭が見える。
季節はまだ冬なのだと、妙に実感させられた。
冬の弱々しい太陽が沈むところだった。
空を見たのも、太陽を見たのも、いつぶりだろう。
月か星も見たい。
これまで生きてきて、一度もそんな風流なことを思ったことなどなかったのに、なにが自分を変えたのだろう。
ぼうっと窓の外の変わりゆく夕焼け空の色を眺めていると、カレーの匂いが漂ってきて、リオンの胃が刺激される。
「お待たせ、ごはん食べよ」
滝沢はウェットティッシュでテーブルを拭くと、ふたりぶんの食器を手際よく並べていく。
カレーとサラダ、コンソメスープが湯気を立てている。
「いただきまーす」
向かいのソファに座った滝沢がそう言い、リオンも手を合わせてスプーンでカレーをすくう。
ちょうどよいピリ辛のスパイスが口の中で弾ける。
白米が進む辛さだ。
滝沢が作る料理の味つけはどれもリオン好みで、リオンはすっかり胃袋を掴まれていた。
「あ、雪降ってきた」
滝沢の言葉に、リオンも窓の外へ目を向ける。
「綺麗だね」
リオンは静かにうなずく。
しばらく、かちゃかちゃとスプーンが食器を打つ音だけがリビングに響く。
外からは車の走行音も子どもがはしゃいで走り回る足音もする。
日常のなんでもない音が、今のリオンには新鮮だった。
静かで、穏やかな時間が流れる。
「着替え、買ってきたんだ」
食事をあらかた終えると、滝沢がソファに置いてあった紙袋を持ち上げてみせる。
中から新しいセーターとデニム、それとパジャマを取り出してみせた。
「お風呂、沸かすから入りなよ」
そういえば、ここへきてからお風呂に一度も入っていない。
皮膚はかさかさで自分からは異臭がした。
「向こうの和室に布団敷くから。
今夜からそこで寝て」
リオンは心から、ありがたい申し出だと思った。
リオンが脱衣所でいつから着ているかもわからない服を脱いでいると、突然ドアが開けられ、上半身裸だったリオンは驚きで飛び上がった。
「手伝う」
そういうと、滝沢がリオンのズボンを脱がせにかかる。
一糸まとわぬ姿になったリオンを、滝沢がじろじろと眺め回す。
「傷口、だいぶ塞がってるけど、やっぱり病院行かないと駄目かなあ」
死にかけたことで身体の感覚が麻痺したのか、あまり傷の痛みは感じていない。
リオンの脱いだ服をまとめて紙袋に突っ込むと、「これ、捨てるね」と言って紺にストライプ柄のパジャマと黒色の下着を手渡してきた。
風呂のドアを開けようとしていると、滝沢が服を脱ぎはじめたので、ぎょっとなったリオンはとっさに彼女から目を逸らす。
「なに今さら恥ずかしがってるの?
恋人同士なんだから、一緒にお風呂に入るのは自然なことでしょう?
背中、洗ってあげるよ」
全裸になった滝沢とともにシャワーを浴び、全身を洗うと、肌の弾力が戻り、水滴を弾いた。
背中の傷にお湯がしみて顔をしかめる。
滝沢は、女性的な丸みを帯びた裸体を隠そうともしない。
──恋人同士なのだから自然なこと。
そんなものか、とリオンは納得した。
もう羞恥は感じなかった。
ふたりで膝を抱えるようにしたバスタブに浸かる。
身体が芯から温まったからか、眠気がやってきた。
つい
「眠いの?
今夜からは一緒に寝ようね」
滝沢もあの和室で寝るということなのか?
「そうだよ、当たり前でしょ、恋人同士なんだから」
滝沢は、ぱしゃぱしゃと水面を叩いて、リオンへお湯をかけた。
リオンがやり返すと、しばしお湯のかけ合いになった。
自然と笑みが浮かぶ。
ずっとお湯に浸かっていたかったが、滝沢に急かされて渋々風呂から上がった。
真新しい下着とパジャマに袖を通し、洗面台の前で並んで歯を磨くと、リビングに戻った。
滝沢がふたりぶんの布団を和室に敷いている。
「そろそろ寝ようか」
リオンはうなずき、リビングの灯りを落とした。
硬い床で身体を拘束されていたリオンにとって、柔らかい布団の上で寝られるというのは、控えめにいっても天国のようだった。
和室の電気も消され、リオンがふかふかの感触を堪能しながら目を閉じていると、もぞもぞと滝沢がリオンの布団に潜り込んできた。
そしてぴったり密着すると、ふふ、といたずらっぽく笑う。
「これからは、毎晩一緒に寝ようね」
耳元で聞こえる滝沢の声にリオンは異を唱えなかった。
──恋人同士なら、自然なこと、だからだ。
リオンと滝沢は、誰にも邪魔されることなく『新婚』のような生活を送っていた。
今が何月何日なのかも、世間でなにが起こっているのかも知らず、リオンは滝沢とふたり、閉鎖された空間で満たされた毎日を過ごしていた。
買い物に出る、といって滝沢がコートを着込んで出ていった。
珍しいことではない。
食料や日用品を調達しに行くのは避けられない。
「大人しくしていてね。
すぐ帰ってくるから。
行ってきます」
玄関先でリオンに軽くキスをすると、雪が降りしきる外へと滝沢は出かけて行った。
リビングに戻ったリオンは、ふと、ソファの下に視線を向けた。
そこになにかがあると気づいたからだ。
覗き込んで、落ちているものに手を伸ばすと、拾ったものを見て首を傾げる。
そういえば、家のどこにもテレビがない。
ではなぜ、リモコンだけがあるのだろう?
リオンの視線が壁の一点に集中する。
立ち上がり、壁に取り付けられている取っ手を引っ張ると、観音開きの扉が開き、壁に掛けられた薄型テレビが現れた。
電化製品を隠し、生活感をなくすための仕掛けのようだった。
リモコンを向けて電源を入れる。
午後の情報番組が映った。
次々変わる話題をぼんやりと眺めていたリオンは、とある事件に話が及んだとき、はっと目を見開いた。
《椎菜さん一家殺害事件から3ヶ月が経ちましたが、依然として犯人は捕まっていません。
この事件は、家族三人が惨殺されたうえ、遺体の一部が持ち去られるという残忍なものでした。
椎菜リオンさんは、行方不明のまま、未だに見つかっていません》
画面に見覚えのある家の玄関が映る。
《椎菜さん宅の付近では、殺人事件が相次いでいますが、その犯人も未だに捕まっていませんね。
住民のかたも不安が続いていますね》
コメンテーターが痛ましそうに表情を歪めながらそう補足する。
リオンの身体は雷に打たれたような衝撃を受けしびれて動かなくなった。
──自分はなにをしているのだ?
リオンはようやく、自分の脳が麻痺して、正常な判断ができなくなっていたことを悟った。
滝沢は、滝沢カンナは自分の家族や友人、なんの罪もないファンを殺した殺人鬼だ。
自分は、憎むべき殺人鬼と恋人同士になって、あまつさえ、ともに過ごすことで満たされた想いすら抱いていたのだ。
──こんな馬鹿な話があるか。
リオンは不甲斐ない自分自身を呪った。
正気に戻ったのが、滝沢がいないときでよかった。
リオンは警察に通報すべく、電話を探した。
固定電話に取りついたリオンは、迷わず110番通報した。
「椎菜リオンといいます!
助けてください!
殺人犯が一緒にいます!
住所は──」
滝沢の住所を告げ、ほっと一息ついたそのときだった。
リオンの頭部を
「……いっ!」
あまりの痛みに受話器を取り落とす。
《どうしましたか?
大丈夫ですか?》
電話の向こうから声がするが、助けてくれと叫ぶことができない。
見上げると、目をぎらぎらさせて怒りに震えている滝沢が、乱暴に受話器を叩きつけて通話を切り、リオンの襟を掴んで階段まで引きずっていく。
「離せ!
殺人鬼!」
リオンはめちゃくちゃに暴れるが、滝沢は怪力を発揮してリオンの身体を引きずったままニ階へと上がっていく。
ドアを開けると、リオンをその中に放り込んだ。
後頭部を押さえ、呻きながら部屋を見回したリオンは息を呑んだ。
六畳ほどの部屋の壁や天井には、隙間がないほどポスターが貼り付けられていた。
椎菜リオンのポスターが。
ポスターだけではない。
雑誌の切り抜きや、リオンのプライベートな姿を隠し撮りしたと思しき写真もある。
おびただしい自分の顔に囲まれて、リオンはこの部屋に潜む狂気に身を震わせた。
ここはきっと、滝沢の自室なのだ。
造り付けの棚には、『Dreamer』のCDやBlu-ray作品が几帳面に年代順に並べられている。
歴代のライブグッズも丁寧に飾られていた。
「裏切ったね」
滝沢の手には、何人もの命を奪った刃物が握られていた。
「信じていたのに。
愛していたのに。
どうして、あなたはいつも私を裏切るの?
傷つけるの?
ねえ、どうして?」
「俺は、お前なんか愛していない……!
近づくな!」
尻もちをついた姿勢のリオンは、滝沢の腕を掴んで、振り下ろされようとする凶器から必死に逃れようとする。
しかし、体格差があるはずなのに、リオンは滝沢の力に敵わない。
「愛してたのにぃ!
愛してたのにぃ!」
滝沢は絶叫すると、体勢的に不利なリオンの身体に刃物を何度も突き立てる。
「ぐ、う……っ」
激痛に抗いながら必死の抵抗を試みるが、圧倒的な力で刃はリオンの身体を引き裂いていく。
「愛して、私だけを愛してよ!」
髪を振り乱しながら、返り血で顔を真っ赤にした滝沢が叫び続ける。
「あなたは私のもの……!
絶対誰にも渡さない!」
抵抗をやめたリオンの腹部を、滝沢の刃物が深く深く切り裂いた。
肉が千切れる経験したことのないほどの強烈な痛みに、リオンは断末魔の絶叫をほとばしらせた。
意識を失う直前、リオンが目にしたのは、自分の身体から臓物を引きずり出している滝沢の化け物じみた姿だった。
リオンの身体から内臓を引きずり出し、口に入れようとしていた滝沢は、玄関で鳴らされたチャイムの音で我に返った。
血にまみれた身体で立ち上がると、手に付着したリオンの血液をあちこちに残しながら部屋を出て、階段を降りる。
激しく玄関ドアが叩かれていた。
「滝沢カンナ、警察だ、出てきなさい!
椎菜さん、椎菜リオンさん、大丈夫ですか!
滝沢カンナ、女性を解放しなさい!」
今にもドアが蹴破られそうな勢いで叩かれている。
「……いやだ、リオンは俺だけのものだ。
誰にも渡さない……!」
再び階段を駆け上がると、部屋で血まみれの少女が──椎菜リオンが死んでいた。
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