第11話

 ――「霧島家には気をつけろ。私は……あの家にはめられたんだ」


 父さんの言葉は、数日前に聞いたきりなのに、耳の奥で何度も甦る。廊下を磨くモップの音と重なって、反響して離れない。


 本当なのか……。

 でも、父さんがそんな嘘をつくだろうか。

 


 モップを押す腕が止まる。心の中で「違う」と否定する声と、「ありえる」と囁く声がぶつかり合って、息苦しくなる。


「最近様子がおかしいわね」


 不意に背後から声がして、心臓が跳ねた。振り返れば、廊下の端に風花が立っている。凛とした姿。冷たい光を帯びた瞳。


「何かあったの?」


 どう答えればいい。黙っていれば済むのか。でも……。

 父の声がまた頭の中で繰り返される。


 『霧島家には気をつけろ。私は……あの家にはめられたんだ」』


 我慢できなかった。口を閉ざしても、心臓が爆発しそうだった。


「……ちょっと前に、父さんに会ったんだ」


 言ってしまった。

 風花の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなる。


「父さんが言ったんだ。僕の家が破産したのは……霧島の家のせいだって。霧島家が関わっているって。本当‥‥なのか」


 沈黙が流れる。


時計の秒針がひとつ進むごとに、頭の奥で金槌を打たれるみたいに響いた。


 否定して欲しい。


 「なにそれ」とか「ありえない」って言ってくれるはずだ。


 その言葉を、喉の奥で必死に待っていた。


 風花はふっと目を伏せて、やがて小さく笑った。


「そうよ」


 その瞬間、世界の色が抜け落ちた。

 頭が真っ白になる。呼吸がうまくできない。空気が重くて、肺が石になったみたいだ。


「私がパパに頼んだの。あの会社を潰してって」


 耳に届いた言葉は、意味を理解する前に心臓に突き刺さった。


「顧客にデマを流せば、信用を失うでしょ? 思った通りだったわ。簡単に潰れた」


 ……嘘だ。嘘に決まっている。

 だって、そんなことをする理由がどこに……?


「なぜ……」


 口が勝手に動いた。問いかけのつもりなのに、声は震えてかすれていた。


「なぜ? 決まってるじゃない」


 風花は涼しい声で言い放つ。


「陸を私のそばに置いておきたかったからよ」


 笑った。残酷なほど無邪気な笑みだった。



 胸の奥で何かが砕ける音がした。

 信じたくない。信じたくないのに……風香の口から聞いた言葉が、否応なく現実を突きつけてくる。


 体が勝手に動いた。モップを廊下に投げ出して、駆け出していた。



 夜の空気は冷たいはずなのに、熱にうなされているみたいに呼吸が荒い。

 父さんの声。風花の声。頭の中で重なって、ぐちゃぐちゃに混ざって、耳鳴りが止まらない。


 本当に風花が……?

 信じたくない。でも、彼女は自分の口で「そうよ」と言った。


 走っても走っても、答えは逃げない。

 行き場なんて、どこにもない。高校一年の僕には、頼れる場所なんてない。


 気づけばまた門の前に立っていた。


吐き気がするほど情けない。戻りたくなんてないのに、足が勝手に動いた。


 玄関の灯りの下、風花が待っていた。


「帰ってくると思ってたわ」


 あまりに当然の口調。まるで僕が逃げ出すことも、戻ってくることも、最初から知っていたかのように。


「さあ、今夜は食器の片づけからお願いね」


 命令する声は変わらない。

 僕は反論できなかった。菜々のために。自分のために。何も言えない。


 けれど、その瞬間。

 胸の奥に、小さくて鋭い棘が刺さった。


 ――いつか、この家を出る。

 ――風花の支配から、必ず抜け出す。


 

 痛みと一緒に、静かに、けれど確実に心の中で根を張っていった。

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