ねえ、ポチ。行く宛がないなら、私が飼ってあげようか
夜道に桜
第1話
人生って、ほんと一瞬でひっくり返る。
父さんの会社が潰れたのは、中学二年の夏。
昨日まで普通にテレビ見て、冷蔵庫にアイスが入ってて、リビングにエアコンが効いてた生活が、翌日には全部ひっくり返った。
父さんは金融関係の会社をやっていた。
株だの為替だの、正直よくわからない。
小さい頃は「うちはお金持ち」ってだけは知ってた。
広い家に住んで、旅行にもよく行って、母さんはピアノを弾きながら「これもお父さんのおかげね」なんて笑ってた。
でも、その幸せはある日突然終わった。
玄関チャイムが鳴って、黒い腕章をつけた人たちが「差押えです」なんて言いながら入ってきた。
次の瞬間には、応接セットも父さんの自慢のマッサージチェアも、赤い札をペタペタ貼られていった。
「……夢だよね、お兄ちゃん」
妹の菜々が、制服の袖をきゅっと掴んで震えていた。
夢じゃなかった。
母さんは「少し出てくる」と言って帰ってこない。父さんはもっと前から姿を消していた。
残ったのは、俺と菜々だけ。門の前に出され、段ボール箱に詰めた荷物を抱えて、途方に暮れる。
まるで世界から切り離されたみたいな感覚だった。
……そのとき、一台の黒い車がゆっくりと門の前に止まった。
ドアが開いて、降りてきたのは幼馴染の風香。
それまでは、明るくて、優しくて、困ってる人を見たらすぐ手を差し伸べるような子だって思ってた。
小学生の頃なんて、風邪で休んだときにはわざわざノートを届けてくれたり、公園で転んだら「大丈夫?」って絆創膏を貼ってくれたり。
お嬢様なのに、全然偉そうにしないで、みんなに優しい。俺にとっては、気付いたら隣にいるのが当たり前の存在だった。
――それが、今。
「……久しぶり」
彼女は白いブラウスに黒のスカート、きっちりとした制服姿で現れた。
目が合った瞬間、胸がざわついた。
同じ顔なのに、纏っている空気がまるで違ったから。
冷たい。
あのときの優しさなんて、一滴も残っていない。
「ニュースで見た。……本当に潰れたんだね」
彼女は淡々とそう言った。
その声は氷みたいに冷たくて、次の言葉はさらに鋭かった。
「惨めね」
……え? なにそれ。
普通「大丈夫?」とか「心配してたんだよ」とか、そういう言葉じゃないの?
菜々がびくっと震えて、俺の背中に隠れる。
俺は無意識に一歩前に出た。
「行くところ、ないんでしょ」
彼女は腕を組んで、俺たちを見下ろす。
「だったら、うちに来なさい。使用人として。妹も一緒でいいわ」
「しょ、使用人……?」
耳を疑った。
「そう。掃除、洗濯、料理。真面目に働くなら、部屋を用意してあげる」
かつては笑いながら「また明日ね!」って手を振ってくれた子が、今は俺を「雇ってやる」と言っている。
同じ人間とは思えなかった。
「……嫌なら他を当たって。今日、雨になるわよ」
彼女が空を見上げると、確かに黒い雲が広がりはじめていた。
ポツリと落ちた雨粒がアスファルトに黒いしみを作る。
菜々が俺の袖をぎゅっと握りしめる。
行くあてもない。頼れる大人もいない。
――答えは決まっていた。
「……わかった。お願い‥する」
「そ、じゃ早くきなさい」
その言葉が、妙に突き刺さった。
昔の彼女なら、もっと違う言い方をしたはずなのに。
俺たちは言われるがままに車に乗り込んだ。
革の匂い、雨に歪む街灯、静かなエンジン音。
菜々は隣で涙をこらえながら必死に起きていようとしていた。
「大丈夫だよ」
つい口に出したその言葉は、妹に向けたのか、自分に向けたのか分からなかった。
助手席に座る彼女の横顔がミラー越しに見える。
真っすぐで、冷たくて、俺を知らない誰かのようだった。
豪邸に着いたとき、雨は本降りになっていた。
門が自動で開き、長いアプローチを抜ける。玄関の灯りに照らされた大理石の床は、俺たちの足音を反射して響かせる。
執事のような人が現れて、客間を案内してくれる。タオルや毛布まで整っていて、全てが完璧に用意されていた。
「制服は明日の朝、クリーニングに回すわ」
彼女が背後から言う。
「……ありがとう」
反射的に礼を言うと、彼女は表情ひとつ変えずに返した。
「礼はいらない。貴方は今日から私の下僕になるのだから」
淡々と。まるで現実を突きつけるように。
その夜、菜々は客間のベッドで泣き疲れて眠った。
俺はスマホを取り出し、通知を見た。
トレンドに父さんの会社名。見慣れた名前が、見知らぬ言葉と一緒に並んでいた。
画面を閉じて、電源を落とす。
暗闇の中で、俺は小さく息を吐いた。
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