隻腕隻眼の小説家
快魅琥珀
始まりと終わり
「多分、いてもいなくても変わらないんじゃないかな」
そう呟いたのは自分で、この言葉は誰かに向けたものでもない。
これは自戒のようなものであり、人並みにすらなれない自分への苦言だ。多分と付け加えるのは、意見に自信がないから。
毎日毎日、朝起きる度に体の内側が軋む。剣で突き刺されたような痛みを無視して起き上がり、無理やりな自分を取り繕って生き延びてきた。
他人といると疲れる。他人にはこちらに向けてくる悪意があって、善意があって。それは人によって形も色も匂いも味も違う。判別なんて、できっこないじゃないか。
どっちだろうどっちだろうと悩んだ末に、それら全部が悪意に見えてくる。不必要な攻撃を食らうから、心は疲れてひび割れていく。
だから、一つの概念として、『善悪』を作った。
「先生、また普通のフリをしたのか?」
体を与え、声を想像し、性格、一人称、好きなもの嫌いなものを決めて、誕生日まで設定して、どんな生まれで、どんな人生を歩んで、どんなふうに苦しんで泣くのか、何に喜んで笑うのか。その全てを、決めようとした。
身長は176センチ。茶髪で切れ目でイヤリングをつけた十七歳の青年。ため息多めで頭が良くて、怒ると怖いけど優しい。
名前は───
「先生、ちゃんと寝てくれよ」
そんな彼は、こちらの頬を触り、片方しかない手を握ってベッドへと誘導してくれる。寝かしつけ方がどうにも子供向けなのが気に食わないが、怒る気力すら湧かない。
「寝て、起きて……それでまだ辛くて、敵が先生を襲うなら、俺が斬り殺してやる。だから安心しろ。いつだって俺は──」
その先の言葉を思いつく前に、眠りに落ちてしまった。
~~~
敵、というのは多分、自分が作り出しているものだ。
この世には敵なんてものはいなくて、無闇矢鱈に殺してくるような生き物は、普通にはいない。そうだ、そのはずなんだ。
なのに、目の前にいる黒い生き物は、こちらの胸を深く抉ってきた。
カマキリのような、痩せた狼のような、飢えたトビウオのような、人を憎む枯れ木のような、そんな生き物。
言葉を発せず、ただ爪を振るい、こちらを傷つける。
気づいたんだ。それは、どこかで生まれたものではなく、自分が生み出したものなんだって。
「あーあ、死んぢゃった」
目の前の死体は、敵に胸を抉られていた。それは白髪を長く伸ばし、黒いジャージを腰に巻いて、白と黒が反転した瞳を持つ、中性的な顔の男子だった。
身長168センチ、年齢十七歳、男子。敵の攻撃から、いつもこちらを庇ってくれる子。名前はなかったらしいから、勝手に『没』と呼んでいる。
「ねぇ、先生君さ。今日で僕が何回目の死を迎えたか知ってる?」
『没』は無限に生きて、無限に死ねる。死んだら死体はそのままに、記憶を引き継いだ新しい『没』が、どこからともなく現れる。
貧弱な無限の肉壁は、敵からこちらの身を守ってくれていた。嬉々として死ぬから少し戸惑うが、守ってくれるのはありがたい。
ありがたいのだが、
「ふふ、知ってるよ。僕が死ぬ度に、先生君がもっと敵を生み出しちゃうこと」
彼が死ぬ度、吐血する度、笑う度、それは虚勢であって、本当は苦しいのではないかと悩んでしまう。
それがまた、敵を生み出す材料になっているようだ。
「退け」
「うわお、新米概念君じゃーん、よろしく」
刀を持って、敵を斬り裂いてくれた『善悪』へ、『没』は親しげに話しかけた。『善悪』は怪訝な目を『没』へ向けてから、こちらに言葉を投げかけた。
「今のは善でも悪でもなく、不運だったよ。誰も悪くない。だから気にすんな、先生」
そう優しく言ってくれる彼。半分の視界にしか写せないことに悔しさを感じたと同時に思い出す。
この半分の視界でしか、こちらは『善悪』や『没』を認識できないのだということを。
~~~
生きていると、人は必ず過ちを犯す。程度の差はあれど、間違えることなく生きてこれた人間なんていない。断言できるとも。
何を隠そう、こちとら間違いだらけの人生だったんだから。
そうしたものを体験する度、何が原因だったかを探らなければならない。その度に敵に囲まれて、『没』が死んで、『善悪』に助けられる毎日。
だが、それだけでは許されない。
「痛ーい」
目の前で胸を抑えながら倒れた『没』を見下ろし、血の池に沈んでいく彼を見て絶望した。
その胸には、黒い弾丸が埋まっていた。それは、あの敵の体と同じような───
「被害者ヅラすんな」
そうぶっきらぼうに言ってくるあの女性が、こちらは苦手だ。
黒髪を短いポニーテールに纏め、『善悪』に似た切れ長の目に黒いジャージを着た、身長168センチの女性。いつもハンドガンを持っていて、その弾は誰かを殺すまで絶対に止まらない。
呼び名はないらしかったので、勝手に『批評』と呼んでいる。
「今のは全部、お前のせいだっただろ。自業自得な自分を棚に上げて、他者のせいだ不運のせいだと騒ぎ立てるお前なんかになんの価値がある?」
胸ぐらを捕まれ、ものすごい剣幕で言ってくる『批評』は怖い。いつも銃を撃ってくるし、その度に『没』が死ぬ。
こうして厳しい言葉をかけてくるのが優しさだってわかっているのに、その苦しみがこちらに湧き上がるのが辛い。
もしかしたらあの弾丸は、『批評』が撃ちたいものではなく、こちらがこの辛さを具現化させたものなのかもしれない。
だから、『批評』はいつも辛そうな顔をしているのか。
「ダメダメな先生君を、それでも僕は愛してる。もっと、僕を死なせて?」
「なんの価値もないお前なんか、生まれなければよかったのに」
『批評』と『没』は、こちらをいつも揺さぶってくる。敵から守るための言葉だろうが、敵が減った試しなんて一度たりともない。
だから、この二人のことなんて一回も信用したことない。
「生きて」
「死ね」
嫌いだよ。この二人に怒りを持つ、自分のことが。
~~~
生まれながらにこうだった訳じゃない。
隻腕で隻眼。この姿は何も、現実の姿そのままではない。自分の世界の中にいる、自分の姿だ。
片腕がないのは多分、片腕がない人と同じくらいの能力しかないから。
片目がないのは多分、片目がない人と同じくらい視野が狭いから。
使えない自分の表現が四肢欠損だとは思いもしなかった。
さて、そんなこちらを、真っ当に案じてくれる人、つまりは理想も存在する。
「先生!」
中性的な顔の男の娘。黒髪で黒瞳。身長168センチ。そこにプラスで8センチの厚底ブーツを履いているので、それ込みで見ると身長176センチ。
天真爛漫で明るくて、一緒にいるだけで幸せで、こちらの意図をなんでも汲んでくれて、笑顔を見せてくれて、笑わせてくれて、可愛くてかっこよくて、一緒に生きて死んでくれる人。
そんな彼の名前は───
「先生、今日も書いているの?その大きな本に?」
膝上に乗せた大きめの本。そこには今まで書いてきた駄作がある。インクの途絶えない万年筆で文字を描き、ダメだったページを引き剥がす。
その作業を、この隻腕隻眼の姿を手に入れてから繰り返してきた。
「そのインク……また敵が出てきたの?もう、先生はしょうがない人だなぁ」
敵を象っているもの。あれは多分、こちらが受けたストレスだ。毎日毎日襲いかかってくるけれど、倒すと原型を留めず液体化する。
その黒い液体は、インクだった。
敵が襲いかかってくる度、ストレスが心を蝕む度、インクは充満し、筆が走る。
それが、こちらが本を書き続ける理由であり、意味である。
描かれた物語はどれも不出来で、読まれるのも恥ずかしいくらいにダメダメだ。ストレス発散のこの本も、たまに敵を生み出す材料になる。
だけど、この本は必要だ。何も無い自分の、唯一の宝物。
作り上げてきた自分の世界の住人達。その源であるのだから。
「『主人公』は、またうち?」
『主人公』、それは始まりと終わりを司る概念の称号。その称号を与えたこの子は、いつもこちらの隣に座って、本の中を見下ろしながら笑うのだ。
「先生……今度は、ちゃんと終われたらいいね」
『終始』。それがこの子の元となった概念であり、この本を手に入れる前に生み出した『生』と『死』の概念の根幹である。
「うちはちゃーんと、先生の描く世界をなぞって行く。多分、
──君にそんな性格を与えてしまって、申し訳ない。
「何言ってんの、うちはずっと、先生と死ぬまで、こうだから」
そう微笑んで、彼はこちらの頭を撫でてくれた。
「そういえば、うちの名前決まった?『善悪』だけ名前決まってるのずるいから早く欲しいんですけどー?」
──決まったよ、今。
「やったー!!どんなどんな?」
──それは、あの敵を全部砕いてから、だね。
ベンチから立ち上がり、武器を持つ。『主人公』は笑って、隣に立ってくれる。敵の数は少ないが、多分自分だけじゃ勝てない。
「頑張って。名前、聞かせてね?」
頷いて、右目を覆う眼帯に触れる。黒いインクが滲み出て、こちらの左手の中に武器を作る。
重たい重たい、モーニングスター。それが、こちらの───『作者』の持つ武器である。
「頑張れー、先生ー!!」
背後からの声援も虚しく、『作者』は敗北し、『没』に守られ、『善悪』に代わりに殺してもらい、『批評』に詰められ、『主人公』と笑う。
そんな虚しい毎日を、こちらは……俺は──
~~~
「多分、いてもいなくても変わらないんじゃないかな」
そう呟いて、両手で縄を持った。
輪っかにされた世界を見通して、やっとかと大きくため息をついた。
好きな音楽も聞いたし、天気は良かったし、好きなアニメの推しキャラにも挨拶してきたし、トイレにもちゃんと行ってきた。
準備は万端だ。
ただ一つ、心当たりがあるとすれば───
「あー……書ききれなかった、なぁ」
そう呟きながら、椅子から飛び降りたのだった。
隻腕隻眼の小説家 快魅琥珀 @yamitani
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