第6話 Illusory Baptism


 二つ目の塔は、夜風に包まれていた。

 塔全体が薄闇に沈み、上空には満月が霞んでいる。

 

「夜になった……? 違う、幻を見せられてる」

 

 風が吹き抜けるたび、羽音のような低い響きが忍陽の耳をかすめた。


 ――音がするのに、姿が見えない。


 風の方向がころころと変わる。足場は狭く、吹きつける風圧で身体が揺らぐ。

 やがて、塔の影から現れたのは、黒曜石のように光る双眸を持つ巨大な梟だった。

 音もなく滑空し、旋回しながら忍陽を取り囲む。翼の動きが風を巻き、耳をつんざくような音圧を生む。


「……音で、惑わせてる」


 忍陽は小さく呟き、耳を塞ぐ代わりに呼吸を整えた。

 音を頼らず、風の流れで相手の位置を読む。

 平均台の演技中、歓声も音楽も消えていったあの“集中の無音”を思い出す。

 ――風が鳴いてる。どっちから来るか、もうわかる。


 瞬間、風が裂けた。梟が真横から急襲する。

 忍陽はわずかに身をひねり、鉤爪をかわすと、その勢いを利用して一閃。

 梟は風の中に溶けるように崩れ、夜気に散っていった。


「音なんてなくても、気配でわかるよ――」


 その一言が、夜風に吸い込まれていった。

 

 

 三つ目の塔に到達した瞬間、冷たい霧が忍陽を包んだ。

 塔全体が薄く濡れ、足元は水で滑りやすい。

 さらに厄介なのは、下方に広がる水面が鏡のように塔を映していることだった。

 反射する光と影が、現実と幻を曖昧にしていた。


 上空で鳴く声―― 隼。

 翼をたたみ、一直線に急降下してくるその速さは、まるで弾丸だった。

 忍陽が構えた瞬間、水面にもう一体の隼が映り、真下から襲いかかる。


「分身…… じゃない、水の反射だ!」


 身体をひねり、反射の影を避ける。

 その軌道は、床の競技で助走から宙返りへ移るあの瞬間に似ていた。

 “見えないときは、身体で感じる”―― それが忍陽の得意な感覚だった。


 再び影が閃き、視界の端で水飛沫が弾けた。

 だが今度は惑わされない。忍陽はわずかに足場を蹴り、体勢を低くして重心を保つ。

 空中で翼をたたんだ隼がすれ違う瞬間、反射を利用して刀を振り上げる。

 水面の光が軌跡となり、斬撃が閃光のように走った。


 隼が鳴き声を残して崩れ落ち、水の中に溶けた。

 波紋が静まると、再び塔の上には静寂が訪れる。


「見えないなら、感じればいい…… 視界よりも、身体の方が正確だもん」


 忍陽は小さく笑い、塔のてっぺんに光るお札を手に取った。



 二の塔、三の塔を抜け、忍陽は最後の塔のてっぺんに辿り着いた。

 びゅおっと熱を帯びた風が頬を撫で、思わず腕で顔を覆う。


 ゆっくりと目を開けると、そこにあった景色が一変していた。


 見渡す限りの溶岩。紅の海がぐつぐつと息をし、泡の破裂音が届く。十メートルほど先に、噴火口の縁が黒々と盛り上がり、その中心に――たった一平方メートルの石の足場が、ぽつりと浮かんでいるのだった。


「……これって、火山の真ん中、ってこと?」


 喉が乾く。だが、足裏の石はさっきまでと同じ硬さだ。

 

(――幻だ。景色は脳を騙しに来てる。でも、足場はちゃんと“ここ”にある)


 熱風が反転する。上昇気流を受けて、黒い影が天から悠々滑り降りてきた。

 

「おっきい鳥だなぁ。鷲かな?」

 

 忍陽の言う通り、その鷲はこれまでのどの鳥よりも大きい。両翼を広げれば五メートルを軽くこえ、黒曜石の羽根が熱の揺らぎをまとって鈍く光る。嘴は鉈のように厚く、赤い双眸が熾火の芯みたいに燃えている。


「来る!」

 

 忍陽は、いち早くそれを察知して、忍者刀を抜いて身構えた。

 低く、金属をこすったような唸り。次の瞬間、周囲の溶岩から炎が壁のように噴き上がった。


「!?」

 

 炎の壁が円を描き、視界が閉ざされる。

 ――見えない。

 熱さが全身を襲い、集中力が削がれる。

 それでも忍陽は、耳の神経を研ぎ澄ませる。

 

 競技に入る前は、いつもそうだった。緊張と、観客からの視線の数々。そんなプレッシャーの中でも、胸を軽く二度叩き、右手を高く挙げると、一瞬で集中モードに切り替えて入ることができた。

 いつからか、その技術を身につけたのだった。

 

 目を瞑り、耳に届く音を頼りに、周囲の状況を脳内に再現する。

 羽ばたきのたび、空気が押し寄せ、引く。

 熱の波に混じって、ごく短い“溝”が通り抜ける―― 気圧の谷。突進の直前の吸い込みだ。


「光がなくとも。風が、教えてくれる」


 息を吐く。吐き切る。胸郭が締まる瞬間、足裏で石の平面を掴む。

 来る―― 右斜め上から。


 炎の壁を破って、鉤爪が閃いた。

 忍陽は左足を引く。踵、母趾球、つま先―― 足裏の三点でしっかりと床を掴んで、肩をわずかの沈めるだけで、鉤爪は髪の外側を裂いて過ぎる。

 

 刹那、通り抜ける鷲目掛けて忍者刀を振るった。胴体までは届かなかったが、脚を斬りつけることは叶った。

 熱風が後ろへ抜け、炎の壁が一瞬だけ“裂けた”。わずかにバランスを崩した鷲の直撃を避けるように。

 そして炎の壁が勢いを失い完全に消えた。


「見える。いや―― 動きが読める」


 忍陽は、わずかなやり取りの中で、大きな手応えを掴んでいた。

 いま一度上空に飛んだ鷲は、大きな翼を振るった。

 

 羽根が炎を纏い、矢のように飛来する

 

 忍陽は右足で足場を踏み、もう一刀を素早く抜くと、それらを的確に弾いてゆく。

 羽根のいくつかが気流に乗って逸れていった。

 再び溶岩が波打つと、黒い巨影が円環の向こうで旋回した。


 炎の壁がまた姿を現す。

 だが、それはもう脅威にはならない。なぜなら。――見えるよ。位置も、攻撃のタイミングも。

 足裏が“平ら”だと伝えてくる限り、ここはまだ舞台。恐れる必要はなにもない。と、身体が教えてくれている。

 

 足場が軋む。

 塔をぐるりと取り囲む溶岩が、ぐつぐつと息を吹き返したかのように激しく揺らぐ。炎の壁が揺らめき、まるで世界そのものが脈動しているようだった。


 敵―― 炎を従える鷲は、空を裂いて旋回した。

 外側の炎壁から突進してくるたび、羽根が散り、それが矢のように忍陽の立つ足場へ突き刺さる。

 それをすんでのところでどうにかかわすが、先程から足元がおぼつかない。


「くっ…… どうして? 距離感が狂う」


 目で見る光景と、身体が感じる重心が合わない。

 塔そのものが揺れている―― そう錯覚するほどの幻惑。

 視覚と平衡感覚がぶつかり合い、体がぐらつく。


「ダメだ……」


 頭を抑えて膝をついた。その瞬間を待っていたかのように、炎の壁を裂き鷲が再び襲いかかった。

 とっさに刀を構えたが、防ぎきれず肩口を裂かれる。

 熱と痛みが混ざり、思考が一瞬白く飛ぶ。

 勝ち誇ったのか、甲高い咆哮を上げる鷲。


(これを立て続けに受けたら、ちょっとやばいかも……)


 二撃目が迫る。

 忍陽は必死に横へ転がり、地を擦るように着地した。

 手をついた床の感覚が、また歪む。

  

 そこへ、矢のように飛ぶ羽根が降ると、忍陽の手足にいくつかが突き刺さった。

 痛みに顔をしかめる。肩の奥が熱を持ち、指先がしびれる。

 ――ちゃんと、ほんとに痛い。


「これが、Celestial Fractureというゲームなんだ」


 痛覚再現まできちんと仕事をしているが、それでもリアルな再現というわけではない。ゲームの性質上、斬り合いや、炎や巨石といった攻撃を受けることもある。

 それをリアルに再現していては、ショック死をする危険性が高すぎるから。

 実際の何十分の一というゲーム上の痛みとしての信号を受け取った脳が、身体に痛みを伝える信号を送る。その際、その痛みを演出として脳が処理し、脳内だけでそれを処理する命令信号も同時に行われている。

 それは個人で差があり、それまでの経験や知識によって演出の度合いが変わってくるというものだった。

 

 どんな大怪我をしたことがあるか。また、どんなフィクション作品に触れてきたか。などで変わるのだった。

 

 痛む手足を引きずるようにして、忍陽は立つ。だが、自分の身体がまるで軽くなったような錯覚に囚われていた。

 “重力の方向”がわからない。


 ――その瞬間、頭の奥に懐かしい声が蘇った。


「バランスは崩してもいい。崩れても、すぐ取り戻せるようにするのが大事なんだ」


 それは、体操クラブのコーチの言葉だった。

 練習で、目を閉じたまま平均台に立ち、揺れる感覚を受け入れて、重心を取り戻す訓練。

 いくら訓練を積んだところで、三半規管を完璧に鍛えることなどできない。

 乱れた感覚を、いかにすぐ正常に戻すかが重要なのだと、口酸っぱく言われてきた。


(……そうだ。私には、取り戻す術がある)


 忍陽は目を閉じ、そして息を吸うと、軽く地を蹴った。

 一度、二度、三度―― 跳ねて、着地。

 ストン。


 全身を伝う重力の“線”が、確かに戻ってきた。

 足裏の圧、太腿の緊張、肩の軸。

 全てが自分の中心へ戻っていく。


「……重力は、嘘をつかない」


 呟き目を開ける。すると、視界が澄んだ。

 炎の歪みが薄れ、敵の影が正確に見える。


「――さあ、仕切り直しね」


 その言葉を理解したかのように、鷲は再び突撃してくる。

 忍陽はタイミングを計り、一歩を踏み出した。足裏が石を掴み、身体が跳ねる。


 空気を切るような一閃。

 狙いすました忍陽の攻撃は、鷲の片翼をわずかに裂いた。

 

「まだ……いける」


 肩口から血が流れている。痛みも残る。

 けれど、彼女の足はもうしっかりと地を踏み締めている。


 平均台から何度も落ち、その度に立ち上がった少女が、ここにいる。

 幻惑の塔で、忍陽はようやく“自分の重力”を掴んだ。

 

 炎が唸り、ジリジリと精神を削ってゆく。だが、忍陽の瞳にはもはや迷いがなかった。


 足場が軋むたびに、塔が端から徐々に削られてゆく。広さおよそ一平方メートルだった足場は、半分ほどにまで狭まっていた。


 炎の壁は消えたが、溶岩が時折大きく跳ねて、活発化しているのがわかる。


「足場が、無くなってゆく……」


 絶望感に溢れる言葉。だがそれは、あくまで普通のプレイヤーにとって。だ。

 忍陽は口角を上げて笑みを浮かべた。


「でも、平均台よりはまだまだ広いんだよね」


 肩の痛みは残っているし、呼吸も荒い。

 それでも、失っていた感覚。両足の重心は、もう確かに“ここ”にある。


 鷲が再び旋回し、炎を纏った翼を広げた。

 その軌跡が空気を裂き、視界を赤に染める。

 炎の羽根が矢のように飛び交い、忍陽に襲いかかる。


 わずかに屈み、刀を構えた。

 二刀を振るい、羽根をたたき落とす。刃が交差する。息を整え、目を細める。


(見える…… 呼吸も、軌道も、風の流れも)


 鷲が再び突っ込んでくる。

 その巨体が視界を覆った瞬間、忍陽は足裏で石を掴み、身体を沈めた。


 直撃の寸前――跳ぶ。


 炎の羽が頬を掠め、熱が髪を焦がす。だが、恐怖よりも先に、重力の“線”が身体を導いた。

 逆さに落ちながら、忍陽は両刀を交差させた。鷲の背中を刃が切り裂く。

 バク宙をしてスタッと着地も決めると、クルリと向き直る。


 痛みで咆哮した鷲は、旋回すると怒りに任せて突っ込んでくる。そのまま上体を起こし、鍵爪をむけた。

 忍陽は軽く跳び、胴にめがけて二刀で斬りつける。


「――これで終わり!」


 斬撃が光の弧を描く。

 鋭い二閃が、炎を纏った鷲の胸を貫いた。鷲の巨体を、忍陽の身体がすり抜ける。

 足場に着地した忍陽の背後で、爆ぜるような衝撃と、甲高い断末魔が上がった。

 塔が激しく揺れ、熱風が渦巻く。


「っ――!」


 忍陽は身体を支えようと膝をついた。

 足元の石が崩れ、溶岩が飲み込むように広がっていく。

 塔全体が音を立てて崩壊していく。


 だが――その瞬間、炎が音もなく消えた。


 熱も、風も、光も。

 全てが。


 忍陽は、静かな石塔の上に立っていた。

 溶岩も、崩壊も、何一つ残っていない。

 ただ、澄んだ風が吹き抜けているだけ。


「……いまの、ぜんぶ…… 幻?」


 風が吹き抜け、忍陽の髪を揺らす。

 燃え尽きたような静寂の中、足元に淡い光が揺らめいているのが見えた。


「……お札だ」


 忍陽はしゃがみ込み、慎重に拾い上げた。

 光は柔らかく、手のひらに吸い込まれるように溶けていった。

 これで、四枚。

 思わず胸の奥が熱くなる。


「やった……!」


 その瞬間、風がふわりと舞った。

 塔の縁に、二枚の羽根が落ちているのに気づいた。

 紅と蒼―― 炎のように、そして幻のように、見る角度で色が変わる。


「……わあ、綺麗」


 指先で触れると、羽根がわずかに震えた。

 淡い光が滲み、輪郭が溶けていく。

 光が糸のように絡まり、空気の中で形を結んだ。


 ひとつは紅を。もうひとつは、蒼を宿した刀身。どちらもまるで生きているかのように光が明滅を繰り返している。


 忍陽は、言葉も出ないまま見とれた。

 炎のような熱も、幻のような冷たさもない。

 ただ、静かに光を放ち続けている。


「もしかして、さっきの鷲の……?」


 答える者はいない。

 ただ、風が静かに塔を通り抜けていった。


 忍陽は、二本の刀をそっと持ち上げる。

 その瞬間、ウィンドウがひとつだけ表示された。


 ――【封晶忍刀・連幻双】を入手しました。


「わあ、これ、もらっていいんだ」


 よく分からないまま、笑みがこぼれた。

 なんだか、アイスの当たりを引いたような嬉しい気持ちになっていた。


 紅と蒼が交わる光の揺らぎは、

 まるで忍陽を見つめ返すように、静かに脈動していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る